しろいクツと「三者面談」

北村周一

最初に目に入って来たのはサンダルのような履物だった。
居酒屋によくある安物のあれだ。
ぼくの靴が見当たらない。
下足箱から店のサンダルを出されて、飲み屋に来ていたことを思い出した。
大勢で来ていたはずなのに、いまはぼくひとりだけだ。
勘定を済まさなければいけないのだが、なかなかレジが先に進まない。
女子店員がいらいらしているのがわかる。
勘定が合わないのだ。ぼくの番になっても、何度も計算し直している。
いつまで待たせるつもりだ。
女子店員に代わって、老いた主人が対応してくれていたのだが、
ついつい声を荒げてしまった。
すると店の奥のほうから、哲学者然とした男が現れて、
ここは君のような者が来るところではないと、諭すようにいうのだった。
さっきから若い男子店員が、黒い小さな旗を振りながらにやにやわらっている。
出入禁止?ということなのか。
精算を終えて一刻も早くこの店を出たい。
けれど、ぼくの靴が見当たらない。
替わりに誰のものだかわからない、白い靴を履いて帰るようにいわれる。

 またひとり土鳩の色のスカーフをゆらしつつくる険しき目をして

小学校四年の秋、父が勤めていた会社のアパートから一軒家に引っ越した。
学区外になったのだが、そのまま通学していた。
子どもの足では、遠い道のりだった。
少しでも楽をしようと思って、いくつかの近道をこころみた。
二年後にはオリンピックを控え、ぼくの住む清水の町も、景気が上向いていた頃のことである。
家の南に、東海道新幹線の工事、北に東名高速道路の買収が進んでいた。
それまでは、小さな里山をふたつほど越えるか、回り道をするしかなかったのに、
新幹線が通ることになり、工事現場を抜ければ、早道が可能だった。
その日、一度自宅に戻ってから、午後母と一緒に登校することになっていた。
雨が降り始めていた。
ほんとうにこれが近道なのかね、母は何度もぼくに聞いた。
雨は止むどころか、土砂降りに変わっていた。
工事現場の、雨でぬかるんだ道なき道に足を取られて、白いハイ・ヒールの母は癇癪を起し、ぼくは泣きべそをかいた。
こんなところへ連れて来るんじゃなかった、ここはユメの超特急が走る場所、ぼくの大事な隠れ道、舗装路までのつなぎの道。
三者面談の時刻に間に合い、担任の教師と出会った母は、急ににこやかな顔になった。

イスラム国の終わった日

さとうまき

昨日、「イスラム国は終わった」とアーデル君が言ってきた。慌ててTVのスイッチを入れる。イラク軍が「ヌーリ・モスク」を奪還したと発表した。これを受けてイラクのアバディ首相は「ISという偽りの国家は終わった」との声明を出したというので、大げさな演説をするのかなと思いきや、どうも、twitterで、つぶやいたらしい。

ヌーリ・モスクは、一週間前にISが爆破した、ちょっと傾いた塔のあるモスクだった。この塔の傾きは、西からの風に数世紀もさらされ徐々に傾いっていったというから歴史を感じる建物である。そんなものを平気で壊せるのだからIS恐るべきだ。3年前に、バグダディがイスラム国建国の大演説をした場所だが、イラク軍が奪還しても、ただのがれきの山でしかも、アバディ首相はまだつぶやいただけというしょぼさである。

しかし、思い起こせば、この3年間、いろんなことがあった。3年前のアルビルも暑く、時に50℃を超えることもあったが、キリスト教徒の避難民であふれ、そこら辺の公園にもテントが張り巡らせていた。トラックの荷台に載せられて逃げてきた男の子は脳腫瘍で、野戦病院のテントのベットに寝かされていたが、やがて息を引き取った。ほかにも多くのがんの患者が、僕らが働いているがん病院に運ばれてきた。そんな子は死んでいった。環境が厳しいからだろうか。

ドホークに行くと、こちらは、建てかけ中のビルに避難している人や学校に身を寄せている人たち。パンや水を持っていく。事務所にあった古着を持っていくと、こんな時は、それでも喜んでくれるのだ。あまりに熱いので氷を配ったこともある。

レイプされた女の子が解放されると、健康診断を受けるためのお金を払った。ドホークでは知り合いに知れたくないというので、アルビルまで連れてこさせての妊娠検査。この国では堕胎できないから、妊娠してたら、みんなで引き取って育てようとか、いろいろ思いめぐらしたが、妊娠していなことが分かった時は一緒に喜んだ。

アーデル君も、ヤジディ教徒で、ISに家を追われた青年だ。彼のお父さんは軍隊で働いていたから、ISの攻撃をいち早く知り、親戚の暮らしているクルド自治区に避難した。兄と下の弟は、トルコに逃げそこから海を渡ってギリシャについて、最後はドイツに逃れ難民として認められた。兄さんが、FBで連絡してきて、弟の面倒を見てほしいというから、結局うちで働いてもらっている。彼の口癖は、「イラクには、僕たち少数民族には全く夢も希望もないし、いつまた殺されるかわからない。早くここから出たいよ」
「ISが終わった」というニュースにも喜びすら見せない。「お金、お金。お金」ここを脱出するために金が欲しいといつも言っている。

ちょうど日本では、UNDPのアラブ局のワフブ局長が来日し、インタビューで「モスルの復興に協力してほしい」と訴えたそうだ。

ワフバ局長は「仕事が見つからないという不満や失望が募ると、中には危険を冒してヨーロッパに渡航しようとする者や、過激派グループに加わる者が出てくるおそれがある」と述べ、職業技術の訓練など、避難していた若者が仕事に就く環境を整えるため、日本の企業に協力を呼びかけました。(NHK)

アーデルと一緒に、金持ちになる方法を考えている。ほっておくと、家でビールを飲んで愚痴っているただのおっさんになってしまう。昨日も文句を言いながらひまわりの種をぼりぼり食いながらビールを飲んでいる。机の上には、ひまわりの種の殻。そうだ! これをリサイクルして、和紙でも作ったらどうだろう。そこそこ売れるかもしれないな。とアーデルに持ちかけようとしたら、すでに気持ちよさそうに寝てしまっていた。

パンクから音頭に至る

若松恵子

遠藤ミチロウのバンド「羊歯明神(しだみょうじん)」の活動を追ったドキュメンタリー「SHIDAMYOJIN」を新宿のK’Sシネマで見た。5/27~6/16までの3週間限定のロードショウだったのでもう終わってしまったけれど、どこかで上映の機会があったらぜひ見てほしい。

福島出身の遠藤ミチロウは震災後に支援活動を続けているが、仮設住宅に暮らすお年寄りの言葉を受けとめて盆踊りを復活する。盆踊り復活のなかで結成されたのが民謡パンクバンド「羊歯明神」だ。遠藤ミチロウとギターの山本久人、パーカッションの石塚俊明の3人組がパワフルに音頭を繰り出す。「音頭! いいじゃないか」と思ってしまう。音楽そのものに力があるのがまず良い。

「ソーラン節」は「騒乱節」になり、「小原庄助さん」は「おばかシンゾーさん」と唄われる。「安保も辺野古も原発だって根っこは同じだ覚悟しろチョイヤサエンエンヤー、サアノドッコイショ」と唄われれば、「ドッコイショ~ドッコイショ」と応えずにはいられない。

福島県いわき市の「志田名(しだみょう)」地区は、事故後に発見されたホットスポットで、若者たちが避難した後に残ったジッチやバッパ(浜通りの方言でお爺さん、お婆さん)が放射線衛生学者の木村真三とともに自分たちで放射能汚染地図を作成した地域だ。ミチロウは、そこで生きるジッチやバッパに敬意をもって「ありがたや志田名人(しだみょうじん)」と唄う。いも煮をバッパたちとつくる様子なども映画には登場していて、交わることがなかったはずのパンクロッカーと限界集落に生きる人たちが、原発事故に対する怒りをきっかけに絆を結んでいく様子が描かれていて、嘘のないその様子が心に残った。

民謡歌手の伊藤多喜雄がゲストに呼ばれ、盆踊りの櫓の上で唄う。さすがの声だけれど、ミチロウのわけのわからない音頭もまたお年寄りたちに受け入れられているのではないかと思った。おおらかに笑いながら、何かわけわかんないけど元気でいいじゃないかと櫓の周りをぐるぐる回るお年寄りの姿を見ていてそんなことを思った。

ヘリパッド建設に直面する沖縄の高江、愛知県豊田の橋の下音楽祭、若者も羊歯明神の音頭で踊る。「ザ・スターリン」時代の曲も音頭になって演奏される。原発の再稼働、共謀罪、許せない決定に対してどうやって嫌だと声をあげたら良いのか。盆踊りは解決にはならないけれど、率直に嫌だという声をあげる場になっている。どんどん渦が広がっていけばいいと思う。「王さまは裸だ!」と率直に叫ぶ、その子ども心がパンクだと思うけれど、ミチロウの音頭もブレずにまさにパンクでうれしい。「羊歯明神」はフジロックにも出るようなので楽しみだ。

ジャワの女王・女武将

冨岡三智

現在大河ドラマでは「おんな城主直虎」が放映されているが、女ながら城主であるとか、女ながら戦いに赴くという物語には、何か人々の好奇心をそそるものがあるように思う。というわけで、今回はジャワの物語で有名な女王や女武将を紹介。

●ラトゥ・キドゥル
ジャワで最も有名な女王。名前は南(キドゥル)の王/女王(ラトゥ)という意味。ジャワ島の南に広がる海に住み、精霊界を統べる。ジャワ島南の沿岸部には海に女神が棲んで、緑色の服を着た人がいると海底に引きずり込んでしまうという伝承があるが、ジャワの王家(マタラム王国とその末裔の王家)は、代々のマタラムの王は彼女と結婚することで王権を得るという王権神話を伝えている。ちなみに、ニャイ・ロロ・キドゥルやロロ・キドゥルという呼び方もあるけれど、スラカルタ王家に仕える人は、ニャイ・ロロ・キドゥルと呼ぶのは間違い(ニャイは臣下のことだから)で、女王自身のことはラトゥ・キドゥルと呼ぶべきと言う。とはいえそれもまた通称で、王家での女神の正式の名前はカンジェン・ラトゥ・クンチョノ・サリ。スラカルタ王家に伝わる舞踊「ブドヨ・クタワン」の着付(パエス・アグンと呼ばれる花嫁衣裳の着付に同じ)は女王の姿を写したものと考えられている。この女王はマタラムの王と出会って三日三晩床を共にした時に王に戦いの法を伝授し、王国へ戻る王に対して何かあれば軍隊を率いて王を助けに来ると約束する。霊界の女王だから、彼女の援軍が来たら、霊を飛ばしてのバトルになるのかなあ…なんて想像する。

●スリカンディ
インド伝来の叙事詩「マハーバーラタ」に登場する女性武将で、アルジュノ(インド版ではアルジュナ)の妻にして弓の名手である。元のインド版ではシカンディンという名前だが、実はインド版ではシカンディンは女性ではなく、前世は女性だった男性で、設定が変わってしまっている。ジャワの「マハーバーラタ」では、戦場においてスリカンディは宿敵・ビスモをアルジュノの矢(神から与えられたもの)で倒すが、インド版ではアルジュナがビーシュマ(ジャワ版のビスモ)に致命的な矢を放つ。なんで設定自体が転換してしまったのか、その経緯は分からないが、少なくともここから読み取れるのは、ジャワ人は女性が戦って敵を倒すという話に抵抗がなかったということだ。インド版の話の方が男性上位の社会に見える。

●クンチョノウング
「ダマルウラン」物語に登場するマジャパヒト王国の未婚の女王。ちなみにマジャパヒト王国はインドネシア最後のヒンドゥー教の王国で、この後イスラム教の王国が勃興するようになる。王国はメナジンゴの反乱軍に狙われている。女王はダマルウランという若者が国難を救うという夢のお告げを得て若者を探し出す。ダマルウランは首尾よくメナジンゴを倒し、女王と結婚して国王となる。この「ダマルウラン」物語は、ジャワのマンクヌガラン王家ではラングン・ドリアン(歌舞劇)として上演される。出演者は宝塚歌劇のように女性ばかり、その人たちが恋々と歌い、美しい舞踊を見せるという、なんともあでやかな舞台だ。

●レトノ・ドゥミラ
マタラム王国初代の王・セノパティが攻略したマディウン領主の娘。領主が逃走しても、彼女は剣を取ってセノパティ相手に戦う。破れるものの、二人の間に愛が芽生える。マンクヌガラン王家にはこの物語を描いた「ブドヨ・ブダマディウン」という舞踊がある。

日本のワインのはなし

大野晋

日本で一番ワインを作っている都道府県はどこでしょう?
この質問に正しく答えられる人は少ないです。

山梨県?

はい。不正解です。
正解は神奈川県です。

ああ。近所で葡萄畑を見たことがある。

はい。それも間違いです。フレッシュな葡萄は使っていません。

神奈川県藤沢市に大手ワインメーカのワイン工場があって、海外から輸入したブドウ果汁を使用してワインを製造しているんです。欧州ではワインとは認められないという話もありますが、ここ日本では立派な国産ワインとしてカウントされています。
では、二番目はどこでしょう?

今度こそは山梨県?
いえいえ、正解は栃木県です。ある総合酒造メーカのワイン工場があって、ここも輸入果汁を原料に国産のワインを作っています。ちなみに、この酒造メーカは大阪にも工場があるらしく、そこの製造量で大阪のワイン醸造量も全国で10位以内に入るくらいになっています。

山梨県はたしか、三位なのですが、これも山梨の葡萄を使ったワインというよりも、大手発酵製品会社系のワインメーカの工場での輸入果汁ワインと大手総合酒造メーカ系のワイナリーの輸入果汁ワインです。次が大阪府だったか、岡山県だったかで、岡山県もご想像通りに某ビール会社系のワイナリーで輸入果汁ワインを作っています。

結局、輸入果汁、いわゆる濃縮果汁還元で作った果汁を発酵させたワインがとても多く、日本のワイン製造量の8割ほどを占めています。その辺の事情は、以前お話しした通り、日本の農地法のゆがみと醸造用ブドウの不足、そして原料葡萄価格が高いという問題が原因です。でも、そうして作ったワインの品質に関しては折り紙つきなんですけど。

そうは言いながらも、そのおかしな日本のワイン事情も変わりつつあります。ひとつは貿易交渉の影響で輸入ワインにかけてきた関税がほぼゼロになりつつあって、安価な新大陸のワインが急速に流入しつつあること。チリとか、ニュージーランドとか、オーストラリアといった国の安い、しかも意外とおいしいワインが市場に入ってきて、輸入果汁で作ったワインの市場を食いつぶしつつあります。まあ、そういったワインをタンクで輸入して、国内の工場でボトリングしているのも神奈川や栃木でワインを作っている会社なんですけどね。

もうひとつが、農業環境の変化です。農家の高齢化が背景になって耕作地の放棄が深刻になりつつあります。田舎を車で走ると耕作を放棄された農地がとても多いことに気づくでしょう。特に山間部の農地に関しては深刻です。

その対策の一つとして、企業や法人の農地取得、ワイン用ブドウ畑への転用が進みつ
つあります。なぜワインなのかというと、日本の葡萄栽培技術が非常に優秀で、大手や中堅企業が栽培して醸造したワインが世界のワインコンクールで賞を受賞するようになってきたということもありますね。しかも、ワインは熟成に年数がかかると言ってもウイスキーほどではないですから、メイドイン・ジャパンの輸出品としても有力といったところですか。ただし、高級ワインに限ります。安価なものはチリやオーストラリアと競争になりますから。

ということでここ数年、年々、日本の葡萄で作ったワインはブームです。確かに高級ワイン、しかも1万円前後の日本のワインはおいしいです。値段も値段ですけど。かくして、我が家にも日本のワインが着々と集まりつつあります。そのうち、飲まないとなんですけどね。

問題は甲州のぶどうから作ったワインがなかなか評価が上がらないことなんですが、まあその辺の愚痴はまたそのうち語りましょう。

グロッソラリー―ない ので ある―(33)

明智尚希

しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人……。

≡≡≡>┼○ よみがえってらー

 おとなしくてまじめな少年が凶悪事件を犯すと、周囲は不思議がる。おとなくしてまじめ。どんな悪魔性を抱いているのかこれほど不明な人間はいない。はけ口のない不満は、とげとげしい人間にし、社交性に秀でた天稟を持たぬ性向は、自己嫌悪を増長させる。悪魔性が殻を破って悪魔となった時、初めて少年は自分になる。意想外な自分に。

悪魔 Ψ(Φ皿Φ))) ケケケ

 一気に目覚めたいなら時計よりすそが。人間には「においがきつい」というだけで、そのもの自体に「価値がある」と考える傾向がある。お手近でうそぶいている上玉にお目通りとお目こぼし。甲羅を経たからといって三月兎にゆめゆめなるべからず。凡俗なこちたき三幅対が、空無な至言を吐いて、平均的なニヒリズムに陥る。千三つ屋である。

~~-y( ̄▽ ̄*)ゥヶヶ♪

 一個人が誰よりも偉く、自由に、わがままになれるのは、自殺を思い定めた時である。もはや白痴に堕した他人などが嘴を挟むことは、有害を超えた無益・無策でしかない。自分に対してだけの暴君と化したこの一個人は、やりたいことをやりたい時にできる最初で最後のチャンスを得る。その代わり、自殺に失敗したら死を生きることになる。

_:(´ཀ`」 ∠):_

 各種の文学賞は「話題賞」に定着した。商用のSPツールである以上、話題の引力に頼るのは当然だが、高校生や高齢すぎる人間に受賞させるのは、作品内容そっちのけの印象は拭えない。若くして受賞した「著者」による書評を読んだが、文章の体裁が壊滅しており仰天した。そうか読者を集めるにはこの手があったか、と得心した次第である。

o(@.@)o ナンジャコリャ!

【無茶苦茶のランキング】
第1位:黒電話でメールを打つ
第2位:テレビから出てくる
第3位:G20首脳の壮絶な引っぱたき合い
第4位:全裸・手ぶらで宇宙へ
第5位:スペイン人に津軽弁でドイツ語を教える

\(´◓Д◔`)/

 ベビーカーやキャリーケースを押したり引いたりしている女性を多く見かける。それ自体はどうでもよい。問題は、各々の占める面積が聖域であるかのごとく振る舞うことだ。赤子が乗ってるんだからあまり近寄るな。荷物が入ってるんだからよけろ。と我が物顔。女性が女性でなくなって久しいが、この国の国民の流儀も風前の灯なのだろうか。

゜Д゜)┛そこをどけぇ!

 スピード社会に馴致しているせいか、電車・バスが二三分でも遅れようものならイライラする。前をもたもた歩いている人がいる場合も同様である。そして何よりも本が読めなくなった。小説の筋道立った展開、反復の多い実用書・ビジネス書。どれもまどろっこしく感じる。スローライフを実践しようと買ってみた書籍、まだ読了できずにいる。

ダッシュ!≡≡≡ヘ(* ゚-)ノ

 「また遅刻か」「す、すみ、住みづらい世の中ですね」「は?」「いや、あの、た、体、体重があると狭いところは通れません」「なんなんだ?」「ただのデブです」「違う違う。なんかお前変だぞ」「ご、ご免、ご免なすって」「馬鹿にしてるのか!」「ち、違、『血が出るまでの漢字練習帳』という本がお薦めです」「なあ、もうやめようぜこの儀式」

“/(*▽*) アイタタ・・・

 どうして酒を飲むかって? 思い出すためじゃ。何をかって? 思い出せないものをじゃ。わしも酒をやめたいと思ったことはある。一度もないのと同じくらいにある。禁酒をしながら一杯やり、断酒をしながら一杯やったもんじゃ。やめたうちに入らないって? やめるとなったらとことんやめる。やめるのをやめるのをやめるのを……。

うぃー~~~~~(/ ̄□)/~(酒)

 純真無垢とは、この世ではありえない一態様をさす。昼夜を問わず有象無象に純心を汚されかねず、またその可能性は充分を超えて高い。それでも純心無垢である。常軌を逸した頑迷さが伴うのかと思えば、そういうわけでもない。驚くべきことに世故にたけていたりする。世の男性陣の本音は、このような女性と一生涯を暮らすことである。

(*´∀`*)

 不幸中の禍い。汚名挽回。地獄でオットセイに会う。七転び猪木。負ける嫌い。白沼が仏。勝って兜のおしめを締めよ。大山鳴動して火もまた涼し。健二の足を踏む。犬も歩けば牛も歩く。青名西雄。隣りの芝がない。ほっとけの顔も三度まで。名誉返上。馬鹿と阿呆は使えんよ。鬼の肉棒。逃した魚は泳いでいる。可憐に腕押し。河童の川下り。

(o・。・o) あっ! そっか

 人間はポジティブでナイーブだ。デカルト周辺を除けば、ある出来事・現象に対して、疑いを持つのは後回しになる。もっともらしい内容はそういうものとして受け入れ、いんちき臭い一件もまた同様である。有史以来、疑うことを副次的に扱ってきた。勝手な思い込み、妄想、期待。疑いは、疑いようもなく疑いが決定づけられた時初めて生じる。

ナンカアヤシイo(=¬ェ¬=)oジーーーッ

 テレビはいつからレジャーランドになったんじゃ。芸能人が、食べ、飲み、遊び、喋る。芸能人祭りをどの局も朝な夕な放送している。税金を納めてる身じゃから言わせてもらうが、電波利用料が無駄遣いされているのかと思うと、心中穏やかではない。商品は差別化するのが原則じゃが、その結果同じになるという負のスパイラルか。救えねえ。

テレビポイ!(ノ´ー`)ノ【TV】:・’.:⌒【∧⊥】☆ガッシャン!

 理想は高く、妥協は早く。

ナッ・・ナントッΣo(*’o’* )o

 議論を重ねても結論が下されない時、多数決で決める。これは正しい。一方、「ここは民主的に」との理由で、いきなり多数決を採用する場合がある。これはどうかと思う。民主主義の基本原則は話し合いと多数決なのだが、あくまでも後者は必要悪で、本来は話し合いで解決しないといけない。対人折衝の下手な人間には不利なやり方ではあるが。

d((o゚c_,゚o))b オッケェ牧場♪

 一応も二応もガリ勉くんは、言っても帰らぬことだが、回り灯篭に因果を含められた。生命を賭さなければ、生命というものは決して獲得できないだろう。突然に城の壁も石垣も他の言葉を話し始める。パウリ効果のせいで、問題の人間化をした末、玉房飾りのついた乗馬ズボン姿は、明日は旦那の稲刈りで、アリノミにありつけるのみである。

お( ̄o ̄)い( ̄△ ̄)お( ̄o ̄)い( ̄△ ̄)

 疑似科学という分野がある。歴史は長く見解は多い。近年では一般大衆にもわかるような事例が紹介されている。たとえば血液型による性格診断。A型の人は几帳面で神経質、B型の人はマイペースで移り気などの決めつけが非科学的だというのだ。しかし傾向は見逃せない。科学で立証されてなくとも、人は科学以上に傾向に依存するものだ。

A型 (´・ω`・) B型 (`・ω・´) O型 (´・ω・`) AB型 ( ゚∀゚)

仙台ネイティブのつぶやき(23)今日も種付け

西大立目祥子

 友人のUは家畜の人工授精師だ。 
「おらいの牛、発情したみたいでね、ちょっと来てけねすか?」
彼の携帯には、昼夜を問わずこんな電話が入る。出番はメス牛が発情したときなのだ。牛の発情は21日周期で半日から1日程度続く。肉牛の繁殖農家にとってはこのタイミングを逃すと3週後まで待つことになり、それは経営に影響するから、日頃から牛をつぶさに観察してその兆候が見られたらただちに人工授精師をよぶという運び。先日、種付けに同行させてもらった。

 早朝でも夜遅くても、雨でも雪でも、彼は電話が鳴ったら山間地の農家へ車を走らせる。着くやいなや、手際よく手術着のような青いエプロンと腕の付け根まである長いゴム手袋をつけて牛小屋へ。目当てのメス牛の腸に腕を差し入れ、まず腸の中の便をかき出し、それから再び腕を腸内に差し込んで卵巣や子宮の状態を触診する。腸内から手で探ってわかるらしい。職人技みたいなものなんだろう。

 まだ早いと判断するときはいったん農家にまかせ帰ることもけれど、授精適期となったら、そこで種付けになる。この日は、もうやれると判断したのか、すぐさま車に戻りトランクから冷凍のタンクを降ろしてフタを開けた。タンクの中には種牛の精液が冷凍保存されている。見せてもらうと、ちょうどボールペンの替芯のような容器に入れられ牛の名前が記されていた。「1本0.5ccで3千円ぐらいから。スーパー種牛になると3万も5万もするよ」と説明してくれる。常時、何種類かの種牛の精液を持って動くらしい。頭の中には、それぞれの種牛の特長─たとえば体が大きいとか、サシ(霜降り肉の脂)がよく入るとか─がしっかりと入っていて、掛け合わせるメスの特長を考え合わせて交配するという。農家が飼うメス牛の父が誰かまで覚えているんだろう。「Uさんは血統のことがよく頭に入っているからね」というのが農家の評。この日は「美津百合」という種牛の精液を解凍して子宮内に注入し、種付けは完了。終わると、玄関先で人工授精伝票と授精証明書を発行し1万6千円を受け取っていた。

 それにしても肉牛はすごい世界だ。選りすぐりの種牛を見出し、後継牛を育て、その精液を管理活用していくことが、農家の経営を助け、ひいては県の畜産振興の屋台骨となる。
 宮城県には、かつて「茂重波(しげしげなみ)」というスーパー種牛がいた。昭和49年に兵庫県から導入されたこの牛がすばらしい肉質を誇っていたようようで、仙台牛のブランド化がなったのもこの牛がいたからこそ。何しろ宮城県唯一の「みやぎ家畜市場」には、茂重波よありがとうといわんばかりにその銅像が立っているほど。宮城では、その息子や孫たちが活躍中。息子には「茂勝」がいたし、いまはその息子の「茂洋」や「忠勝美」が懸命に働いている。ま、つまりは、その精液をバンバン活用中ということです。

 肉牛の世界はすごい、というのは、人はここまでやるのか、と驚かされたいうことにほかならない。この世界は、生殖技術開発の実験場なのだ。優れた牛のクローンもつくれるし、オスメスを選択することもできる。スーパーメス牛の卵子とスーパー種牛の精液で、つぎの代の種牛がつくられていく。経済動物の宿命なんだろう。

 さて、種付けから約280日が過ぎれば子牛が生まれてくる。生まれると農家はJAに分娩報告書を提出し、それをもとに耳標をつけ鼻紋をとり、母の名、父の名などを記載して登録が行われていく流れ。つまり牛は戸籍を持っていて、耳標の番号は屠殺後もトレーサビリティの番号として生き続けていく。牛は100パーセント、いや120パーセント、人の管理下におかれている動物といってもいいかもしれない。

 とはいっても生命体、自然そのものである。早産もあれば死産も流産もあるし、そもそも種付けして首尾よく妊娠するとも限らない。農家は「お産は大仕事だよ」という。
うまくいくことを願ってもかなわないこともあるとよく知っているだけに、そのことばには実感がこもる。
 月足らずで生まれれば、たいていは処分されるのだろうけれど、中には手をかけ育て上げる農家もある。知人のTは、20日早く生まれ立つこともできなかった子牛をあきらめず、哺乳瓶でミルクをやり1年をかけてほかの牛並みの大きさに育てた。「この牛が、いまはいちばん働いてくれてねえ、この春7産目。みんな恩返ししてるんだっていうよ」と目を細めるT。愛情をかければ応える。人と牛のあたたかな交感に、ようやく気持ちがなごんだ。

 繁殖農家は、子牛を10カ月ほど育て市場に出荷する。その牛を買って20カ月ほどで800キロをこえるような巨体に仕上げていくのが肥育農家だ。体格だけでなく、与える飼料を変えて、最後は肉にサシが入るような肉質に持っていくのが技量の見せどころらしい。しかし、これは牛にとっては健康的とは決していえず、最後はビタミン不足でふらふら、引いてもらわないと前に歩き出すもしんどい状態になるらしい。そのお肉が高級店のメニューに並ぶのですね、とろけるような味わいの仙台牛として。

 愛玩動物しか接したことのない軟弱な私の頭は、経済動物の世界の現実におたおたするばかり。牛は生き物なのになあ。ことばを失い、ため息が出た。
 一方「発情」だの「種付け」だの「冷凍精液」だの…飛び交うことばに当初はドギマギしたが、話を聞いたり現場を見たりするうち、こっちはもうすっかり慣れてきた。(いまはもう人の前でも平気で口にできます。)
 そして、Uは、じぶんも繁殖農家として15頭の世話に追われながら、今日も種付けに山を走っているはずだ。彼の家には年頃の娘がいる。慣れというのはおそろしい。家にかかってきた農家からの電話に、叫ぶのだそうだ。「お父さん!また種付けの電話だよ!」

笠井瑞丈

久しぶりの旅行
二十時間かけて
何一つない予定
古い友人に会い
たくさん飲んで
ブラブラと街を
たくさんあるく

ブリュッセルから
アムステルダムへ

電車乗る事が好きだ
窓から眺める景色を
何時間でも見ている

ミドリが一面の中
遠くに見えるお家

いつも思う事

ここにも一つの時間があり
ここにも一つの生活がある

もしここに生まれていたら
もしここに住んでいたら

どんな生活なんだろう
どんな時間なんだろう

レッドライト
草の煙の匂い
街を流れる川

川がながれているマチは好きだ
ゆっくりした時間が流れるから

カラダの中の血管
これも一つ街の川

知らない街をただただ歩いた
アイスクリームを食べながら

過ぎていく時間
二十時間かけて
また現実の時間

下半期に突入
また新しい事
また初めたい

そんな事を考えた六月
そしてまた一つ歳とる

さつき 二〇一七年七月 第三回

植松眞人

私が学校に行っている間に、何かが起こったのに違いなかった。今日はずっと家にいるからと笑って送り出してくれた母がいなかった。ただいま、と声をかけても誰も答えてくれないのに玄関の鍵がかけられていなかった。いつも持ち歩いてる父のスマートホンが食卓の上に置きっ放しになっていた。そして、そのスマートホンの周りには、いくつかのお客さん用の湯飲みがあって、父が誰かと話していたことは確かだった。お客さんを見送りに行ったとすると、どこまで見送りに行ったのだろう、と私はものすごく嫌な予感しかしないリビングの真ん中はとても静かで、私には案山子のように突っ立っていた。
「お帰り、さつき」
父の明るい声が聞こえて、私はさらに不安になった。父は普段聞いたことがないくらいの明るい声だった。まるで廊下の白熱球のワット数を間違えたときのように、私はまっすぐに父を見れなかった。
「母さんはもうすぐ帰ってくるから」
父は、とにかく今は何も聞くな。何も心配いらないから、とりあえず今は何も質問しないでくれ、というふうに満面の笑みを浮かべてそう言っているかのようだった。
母が帰ってきたのはそれから二時間くらいしてからだった。
母はぐったりと疲れた顔をしていて、「疲れた」と声に出していうこともできないほどだった。
しばらくの間、父と母は寝室にこもって声を潜めて話をしていた。私はときどき寝室に前にまで行って様子を探ったりしていたのだが、もそもそと話す気配ばかりで気持ちが寂しくなるので、再びリビングに戻ってこの家の中をぼんやりと見回していた。
平成の始まった頃に日本中が浮かれていた
バブル景気があり、その時代に仕事が途切れることがなかった父と母が購入した都内の一戸建てだった。
バブル景気が弾けたと言われていたころ、都内の不動産物件の価格が一斉に下がった。ときどきこの家の前の道を歩いていた母が門扉に『売家』というプレートが掲げられるのを見落とさなかった。
その家は当時、父と母が住んでいた賃貸マンションからすぐの場所にあって、それほど大きくはないけれど小さな庭と井戸があった。
「井戸があれば、おいしい水が飲めるし、夏はスイカが冷やせるじゃない」
母はそう言って、父にその家をまるで自分の家のように紹介したという。もちろん、その頃は別の人が住んでいて、自分たちが本当に住むことになるとは父は思っていなかったらしいけれど、母だけは、きっといつかそこに住むからと、念を送り続けていたらしい。
そこにバブル崩壊である。不動産価格の大幅下落である。母はそれまでにこつこつと貯めたお金と、実家の両親に無心をして頭金を捻出した。母が実家にお金の相談をしたのは、その時が初めてで、祖父母は母をそこまで夢中にする家はどんな家なのかと、下見に来たらしい。そして、そのあまりにも慎ましやかな外観に大笑いして、そんな慎ましさを愛する母に安堵して、お金を貸してくれたのだという。
しかし、実際にはそれでも足りずに、不動産会社に懇願して、家の持ち主に取り次いでもらい、自分がどれほどこの家を気に入っているのか。そして、この家に住むことで、どれほど幸せになれると期待しているのかを話して聞かせた。
その家の持ち主は、とても気の良い年配のご婦人で、子どもたちが巣立ち、ご主人が亡くなり、一人で住むには広すぎるという理由で家を売りに出していたのだった。そして、母の奇妙な申し出に「そんなに気に入ってくれたの」と感動し、自分の子どもたちが「そんな理由で値引きするなんて」というあきれた声を無視して、不動産価格の大幅下落をさらに大幅に上回るような価格調整をしてくれたのだった。
売買契約の日、不動産会社の担当者が「どんな経緯でこんな奇跡が起こるんですか」とため息をついたらしい。もちろん、私はそれがどれほどの奇跡なのかはわからないけれど、奇跡であることには間違いないと思っている。
さて、そんな家から私たちは出て行くことになるのだという発表は父ではなく母の口から発せられた。お金の出所とかいった話は別にして、明らかにこの家は母の家だった。この家を手放すという話をするのであれば、それは母の口からでなければならない。それは父としても同じ気持ちだったに違いない。母の隣に座った父は、どちらかと言えばまるで母の保護者のような顔をして、母を見守っていた。
「つまり、この家を出て行かなくてはならなくなったということね」
私が言うと、母はうなずいた。
「そう。出て行かなくてはならなくなったの」
でも、それはたいした問題じゃないわ、という顔をして答えた。
「出て行くけれど、次に住む家もすぐに見つかるだろうし、そこでかかる家賃も今のうちの収入からすると、なんとかなる、ということなのね」
私も動揺していることを隠すように笑顔で言う。すると、父と母も同じように笑顔でうなずいてくれた。(つづく)

しもた屋之噺(186)

杉山洋一

北棟2階の8号病室は大きな中庭に面していて、とても大きな窓から毎朝気持ちの良い朝日が差し込みます。眩しすぎてカーテンを開けられないほどです。目の前に高さ20メートルはあろうかという街路樹が数本立っている向こう側にはくぐもった鼠色の、コンクリート剥き出しのファシズム様式の中央棟があって、その奥には美しくクリーム色に塗りなおされた南棟が見えます。この病室の窓から見える南棟はいつも人気もなくがらんとしています。
ここはここはミラノの北にあるニグアルダ病院。1939年にムッソリーニが建てた歴史的な病院で、イタリアでは現在でも最も先進的な病院の一つです。

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6月某日 ミラノ自宅
家人は日本に出かけている。日中は父子で問題なく暮らしてはいるが、夜になるのが怖い。喘息と言われて薬を服用しているが、毎夜決まって23時頃から突然厭な咳がはじまり、それが酷い時には1時間から2時間続いた末に困憊して眠り込む。当然ながら朝起きても、疲労の色が濃く見るに忍びない。中学校の授業は殆ど終わっているので、遅刻しても欠席しても特に支障はなく、不幸中の幸いだと思う。級友の何人かは、既に避暑に出かけているとか。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
今月は学校の試験週間で、イヤートレーニングの試験は35人。一人10分で終わらせようとしても、350分かかる上、こちらの大学の試験は一人ずつ成績を書きこむ小冊子に点数を書きこまなければならない。同僚3人と採点するのだけれど、本人がこちらの提示する試験点数に納得ができなければ、学生はその試験を次回の試験に回す権利がある。そんな話を一人ずつしながら35人も試験をすると、単純にとても時間がかかる。
息子を一人で家に置いておくのは不安だが、ともかくY君に家に来てもらって、相手をしてもらうことにした。息子を家において試験をしながら、時々思いが込み上げてきて、涙が溢れそうになる。口頭試問だから、ずっと話し続けなければならないのだけれど、顔をピアノの方に向けていられるのがせめても有難かった。

彼も15時半過ぎには空港へ行かなければならないとかで、同僚に事情を話して16時過ぎに息子を学校へ連れてきてもらい、教室に安楽椅子とピアノ椅子を幾つか並べてベッドを作り、休ませておくことにする。親の近くにいる方が息子もうれしいだろう。
何しろ、イヤートレーニングを教えているのは自分だけなので、試験を他の同僚にやってもらうわけにもいかない。今日35人の試験をやめてもいつ次に時間が作れるか定かではないので、ともかく今日やらざるを得ない。

夕方息子をメルセデスの車で病院の救急へ連れてゆく。
「こんなになるまで、何故連れてこなかったのですか」と言われ、診察の後すぐにCT撮影となった。CT撮影の間、思わず嗚咽が漏れて、メルセデスがティッシュを差し出してくれる。思いがけずすぐにCTを出てきた息子に「お父さん、泣いていたの」と笑われる。CTで特にめぼしいもの見つからないので、そのまま検査入院となったが、癌専門医のメルセデスがついていてくれるのは、とても心強かった。CTで腫瘍が見つからなければ、ほぼ癌ではないと言われる。
イタリアの病院で入院手続きをするのは、息子の出産以来のことだ。メルセデスに病室に付き添っていてもらい、こちらは一旦家に戻り荷物を作って、病院に戻ったのは22時半だった。正面門は閉まっていたので10分ほど歩いて、病院反対側の救急外来入口から入る。病院といっても巨大なものだから、一つの街のようになっている。ムッソリーニが造らせたものは全て大きかった。
息子は生後半年はメルセデスの家で育ったから、家族と変わりはない。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
小児病棟の病室は、清潔な感じの8畳ほどの部屋に、ベッドが二つ。一つは息子のためのもの、その傍らに付き添いの家族のためのベッドが並ぶ。トイレが別にあり、そこにはユニットバスが付いていて冷蔵庫もある。とても快適ではあるが、何もせずにずっとここにいるのは、ただの苦痛でしかない。何しろ30メートルほどの場所しか行き来が許されていないのだから。
朝は6時に検温に来て、7時に息子のベッドを作りにくる。息子が熱で唸っていても、一寸お父さんのベッドへ行って頂戴、ベッドを作るからと言われる。8時頃に朝食。朝食と言っても、ココアとクッキーなどの軽食なのがイタリアらしい。昼と夜の食事はフルコースになっていて、パスタ、主菜、付け合わせ、デザートなど、それぞれ10項目ほどのリストのなかから、今日の昼はこれ、夜はこれとチェックを入れる。
サンドロの奥さんがニグアルダの神経放射線科医なので、すぐにMRIを手配してくれ、彼女自身が検査をしてくれるのが心強い。
2日間出かけていた家人が帰ってきて、二人でMRIに付き添う。ニグアルダには、Kさんが急死したときとドナトーニが死んだとき、冷え切った霊安室を訪ねた記憶が強くて、門をくぐるとき何とも言えない恐ろしさを覚えたけれど、一度門をくぐってしまうと、寧ろ安心感すら覚えた。
息子はMRIの中の音が、何に似ているか想像しながら聴いているうちにすっかり眠り込んだという。入院日記を書くのだと言って、息子は張り切っていたが、2日ほどでやめてしまった。当初は親にも書けと煩くて、「今まで気が付いてやらなくて申し訳なかった。自分で替わってやれるものなら、そうしたい」と書くと、謝るなんて間違っていると言われる。自分が事故に遭ったとき、両親はどんな心地だったか。息子がただ元気でいてくれれば、後は何もいらない。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
6月とは思えないうだるような暑さが続く。ヨーロッパの各所で道路が溶けたというニュースを読んだ。病院は冷房の使い過ぎで昨夕2回も停電して、随分長い間エレベーターが止まった。
今日も息子のMRIが終わって待っている間に、また停電になった。中には若い女性が入ったままになっていて、家人と顔を見合わせる。電気は戻ってもMRIが動かないと技師たちが走り回っていて、暫くして、整った顔立ちの若い女性は担架に乗ったまま外へ出てきた。
神経電動検査は見ているのも痛々しい。息子の身体が跳ねるのを見ているのは辛いが、どうか跳ねてくれと祈りながら眺めている自分に気づく。電流の痛みの精神的なショックで、病室に戻っても息子は暫く口も開かない。厭な検査の後での息子の口癖は「もう我儘をさせてもらいます」というもの。そんなに我儘をさせていないのかと、こちらが申し訳なくなることまで見越して言っているのだろうか。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
脊髄から液を取り出す検査を終えて、寝ている息子の傍らで、届けられた昼食を家人が早速毒見している。どうせこの子はサラミは食べないから、とぱくぱく口に運んでいる。親としては、まあこのくらいの方が良いのかもしれない。息子が左手を使うのが面倒だと言うのを聞いて、自分の小学生の頃を思い出す。小児科病棟のリクレーション室にはグランドピアノが一台置いてあって誰が弾いても良いのだが、息子は人前で弾くのを嫌がっている。
リクレーション室からチェスを借りてきて、息子に教えてもらう。腫瘍があったらどうするつもりだったのか、と尋ねられて言葉に詰まる。同じ質問を家人にしていたが、家人は平然と、だったら生活を全部変えてずっと一緒に過ごすようにするわ、と答えていたが、腫瘍ではないので、今も父子二人。息子は注射がひどく怖いらしく、看護婦から呆れられている。彼曰く、先端恐怖症なのだそうだ。先端恐怖症なら見なければいいと思うのだが、針をじっと見るので、余計怖い。

6月某日 ミラノ ニグアルダ
生徒たちがお金を出し合ってオーケストラを借り、演奏会を作った。オーケストラを使ってレッスンをして欲しいということだったが、今まで人のレッスンを見ていてもどうもオーケストラを使った指揮のレッスンというものに食指が動かなかったので、11人の生徒にハイドンの交響曲4曲を振り分けることにした。日曜日の演奏会に向けての、3日間のリハーサルの間、極力口は挟まないことにしている。失敗してもどうにも解決が出来ない状況でなければ、何も言わない。失敗をオーケストラとどのように乗越え、リハーサル時間をどう配分し、どのようにオーケストラに自分の音楽を説明し音楽を作っていくか、という実験。
失敗した時に、こうしたらよい、と口を挟んでしまっては、彼らとオーケストラの信頼関係はずっと成立しない。オーケストラは助けてくれて、一緒に音楽を感じるための存在なのだと彼らに学んでほしい。少なくとも、昨日久しぶりに再会した「ミラノ・クラシカ」のオーケストラは、一緒に音楽を作ろうとする感動に満ち溢れている。彼らの顔をみたとき、単なる、指揮のレッスンにしなくて良かったと改めて思う。
今週は毎日病院でシャワーを浴びて出かけ、彼らと一緒にハイドンに遊び喜び、悲しみ笑い、涙しながら、夜はまた病院に戻ってくる。

週末指揮のレッスンをサンドロの家でやっているとき、息子は長机で宿題やら折り紙やら指揮の真似事などをして時間をつぶしているので、生徒たちも彼のことを皆良く知っていて、様子を心配してメールが届く。その内の一通のメール。モレーノが息子の様子を心配した内容のあと、追伸にこう書き足してあった。彼のことは一から教えていて、ある程度のところまで来たので他の教師に預けたところ、どうも彼と合わなかったようで、二か月ほど前に久しぶりにレッスンに来てときには、指揮がつまらない、辛いとこぼしていた。
「13時35分オーケストラが音を出した瞬間、明るいエネルギー情熱の波に吞まれて、数秒後感激して思わず涙が溢れました。本当に素晴らしい感覚でした。今漸くあなたが言わんとしていたことの意味を理解しました。有難う!」
この言葉に励まされて、今日もこれから彼らのリハーサルに立ち会いに出かけようと思う。夕べから今朝方まで、治療の副作用の酷い頭痛で苦しんでいたけれど、今は隣ですやすやと眠っている。生徒たちとオーケストラの音楽の喜びを身体に蓄えて、息子に今夕届けたいと思う。

と、日記を書き終えようとしたとき、ボランティアの初老の婦人二人が息子を訪ねてきた。
「今日が私は最後の日なのだけれど、あなたのことは忘れないわ。よく覚えておいてね。才能、誰でも人それぞれの才能があると思うけれど、才能というのはね、人に分かち合わなければいけないのよ。あなたの才能は人のためのものでもあるの」。

(6月30日ミラノにて)

152 象

藤井貞和

そのかみ、『詩人の爲事』(しじんのしごと)という本を見かけたのですが、
ひとが〈神怒り〉に爲(な)りかわり、うたか句か、
詩の書き手ならば爲(せ)ねばならぬ「爲事」の爲(ため)に、
じんすいしておる時に、かならずおる、ひはんしゃが立って、
詩人の爲(な)すべきはまさに詩を書くこと、時代がどんなであろうと、
書きつづける心葉(大嘗祭の飾りとか)、総角〈あげまき〉の組緒、
添える言(こと)の羽(は)であり(昭和十年代ですね)、神怒りはあのかたたちに、
お任せしようほら、黄河のかなたではたらいていらっしゃると、
叩いてまわる著名なあなた、あなたの名告りこそはひはんの面目で、
そのゆえにしてぼくらの「爲事」は斃れるのですと、若い俳人が、
おそらく出征をまえに嘆いたのでした。 ちなみに「爲」という漢字は、
象のうえに象使いが乗っかった象形文字(ぞうけいもじ)なんだそうです。
象は文字どおり巻き上がる鼻、大きな左右の耳、牙が二本と、
四足(しそく)でしたね漢字「象」。 昭和初年代に象徴詩がおわりまして、これからの、
象徴詩(ぞうちょうし)の季節に、どこへゆくんでしょう仔象。

(この詩、うそ八百で塗り込められています。どこいらへんがうそでしょうか。ちなみに、いま新詩集を出そうと考えて、なかばはこの「水牛のように」サイトで出したのを初稿とする作品集です。謝意のほか、言うことばがないです。書けなくなったところをそれでも持ちこらえることを許して、見守ってくださいました。)

札記1

高橋悠治

耳は世界にひらく 口をひらいても ことばはだれも聞かない
目をひらく 世界をみまもり よけいなうごきはしないのがよい

カフカのノートや日記 てがみは カフカの背中 書かれた文字を読み 意味を分析しても それを書いた手のうごきには届かない その手のうごき 手の心は だれにわかるだろう 手がうごき カフカは手についていく うごきは予測できない 手はカフカからも隠れている

線の両端を軸にして転換する テンセグリティーでも見た関係の網のなかで 位置・重心方向のちがい その感触をためしながらゆっくりすすむ 余韻 隙間 裂け目 分類せず 判断せず 見まもるなかで ひらいてくる世界 

情念はひとを滅ぼす エピクロスのように 羊のチーズとワインだけで日をすごし とまではいかないが 隠れて生きる にはそれなりのスタイルがある こまったことに 音楽を職業としていると 人の集まる場所に行くのは避けられない 

1965年から50年以上 共演し 対話を続けてきたPaul Zukofsky が 2017年6月7日香港で亡くなった 音楽をめぐり ことばをめぐっての メールのやりとりは5月で途絶えた 覚めた目 アイロニーにみちた鋭い観察 ひとり生きたひと