2018年のリアル

さとうまき

間もなく2018年に入る。その前に2017年のおさらい。

何といっても今年は、ISとの戦いの最終章をむかえたことだ。12月9日、イラクのアバディ首相は、「イラクは完全にISから解放された」と宣言。在日イラク大使館でも暮れに記帳が行われた。

そして、Rudawというクルドのニュースをネットで見ていると、ヤジディ教徒の少女が4名シリアのデリゾールで保護されたという。ISに性奴隷として強制結婚させられてたのだろう。6,417人がISに連れ去られ、3,248人が開放されたが、いまだに3000人以上が行方不明だという。

2014年の1月にアンバールがISに支配しされてから、3年間の戦いが終了した。といっても、2003年のイラク戦争以降、外務省は、一部地域をのぞいて退避勧告を出し続けている。たとえISがいなくなろうが、退避勧告は解除にはならないだろう。争いの構造は続いているのだ。

2014年の6月には、ISがモスルを制圧し、隣のアルビル県にも迫る勢いだった。現場で踏ん張っていた、榎本彰子と、田村叔子が、TVのインタビューで一生懸命支援を訴えていたが、ほとんどその部分はカットされ、「日本人女子2名が、危険な状態です!」的な報道になってしまった。イスラム国ってなに? みたいな関心は高まっていたが、逃げてきた人たちを支援しようというムーブメントをマスコミは作ろうとはしなかった。

ISは残忍だ。首切り? レイプ? ああそうだ。人間のやることじゃない。でも最初にやったのは、米軍だ。ただ、米軍は首切りは得意じゃなく、銃社会だけあって、銃を撃つのが得意だった。そして、レイプは、得意分野。首切りが得意なのは、日本軍だったのかもしれない。

何が違うのか? ISは、残虐さを売りにして、すべて見せた。彼らが流す映像も実にきれいに編集してありハイビジョンなのだ。しかし、待てよ。「衝撃と畏怖」作戦。これは、アメリカのイラク攻撃の作戦名。ともかく、相手に恐怖を与えて服従させるやり方は似たようなものだ。

イスラム国がまるで、ふっとわいてきたようなセンセーショナルなムーブメントのように語られるが、暴力の連鎖の結果であり、一方ヨーロッパやアメリカでは、構造的な差別や暴力の結果、新しい価値観を求める若者たちにパラダイスがあるかのように錯覚を起こさせた。そして、彼らが、イラクやシリアに向かっていったのだ。

僕には、いまだに、ISって何だったのかよくわからない。民主主義国家から独裁国家へ世界は逆行しているように思える時代。しかし、ISのリーダーっていったい誰なんだろう。バグダーディーというが、彼のスピーチとか最初だけしか出てこなかったし、本当に指導力がある人なのかもよくわからない。時たま、「イスラム国」ってバーチャルなゲームの世界の話かなと思ってしまう。あるいはTVのフェイクニュースなの?

いや、僕は、レイプされた女の子からもしっかりと話を聞いたし、戦闘に巻き込まれた、人々が血を流して病院に担ぎもまれたのも見ていた。そして、空爆されたがれきの中に散在する薬きょう。

僕は、今日本にいる。年末年始に日本にいるなんて、本当に、2011年の暮れ以来。どんな、年末がいいかなと思い、できるだけべたなのがいいと、90になった親父と80半ばの母と一緒に紅白を見た。最近のステージはバーチャルな映像とリアルな映像が行ったり来たりするらしい。シームレスMR(Mixed Reality:複合現実)という技術だそうだ。紅白歌合戦も、ものすごい進化していて、おそらく東京オリンピックに向けていろいろ動いているんだなと実感した。

さて2018年、こんな時代だからこそ、なおさらリアルな現場に身を置きたいと思う。というか、なんか新しい技術には、ついていけてない。プレステ4をせがんだ息子の世代がいろいろやってくれることに期待して、老体に鞭打ちながら現場に行ってきます。

仙台ネイティブのつぶやき(29)常緑樹でしのぐ

西大立目祥子

 一昨年のお正月のこと、年明けすぐに叔母の家に遊びに行くとテーブルの上に新年の生花の残りのマツが、ひと枝コップに挿して飾られてあった。細い針のような葉をまっすぐにこちらに伸ばすマツと、お茶を待つ間対面するような格好になってしまったのだったが、戻ってきた叔母につい本音が出た。

「私、松ってどこがいいのかわかんないよ」
 すると叔母は、それは意外という表情を見せて、いった。
「あら、そう? いいじゃないの。この青々としてるところも、尖った葉をピンと伸ばしているところも」
 叔母は85歳。歳を重ねればこそ腑に落ちてくる松のよさなんだろうか。そのひと言は、松から私への問いかけのようにずっと頭にちくちくと残っていた。

 それが不思議なことに、昨年のお正月、玄関に新年を迎える花を生けていたら緑濃い松の枝が胸に響いた。直線的な葉はすべてまっすぐ天を向き、一本一本の葉の緑色が輝いている。あふれる生命力が伝わってくるようだ。ああ、松っていいな、と心から思った。初めてのことだった。

 もしかすると、1年中緑を絶やさない常緑樹に心惹かれるというのは、じぶんの生命力の陰りと関係があるのかもしれない。
 松を発見してからほどなくして、私は入院して手術を受けることになった。手術の前に外泊の許可をもらったとき、盛りを迎えていた庭の乙女椿を一輪、病室に持ち帰って飲み干したペットボトルに挿した。ピンク色の薄い花びらが幾重にも重なる乙女椿は、可憐で繊細で美しい。手術直後のまだ動けないときも、少し回復してからも、話をするように椿を飽きずに眺めていた。
 それまでは、椿のつややかな葉もぽったりと重たそうな花も、どこかうっとおしくて苦手だったのに、葉の光沢や花の華やかさが、力を分け与えてくれるように感じるのだった。

 病室の窓の外には広瀬川を見下ろす見事な眺望が広がっていても、見飽きることがないのは目の前の椿。遠くの眺めはときに胸がすくような思いにさせくれるけれど、人には「近景」が欠かせないのだと思った。手を伸ばせば触れたりなでたり対話できる間近な自然が、人には要る。

 この秋は日が短くなっていく中で、じぶんの存在までが細るようだった。こんなにも自然の移り変わりに左右されるなんて。生きものとしてのじぶんが、自覚されてくる。少しずつ歳を重ねて生まれてきた新しい感覚といっていいかもしれない。

 冬至までひと月を切った11月下旬、主催している市の最中にお昼ごはんを買いに出かけると、マンションの樹木の剪定中で、落とした枝が歩道を埋め尽くしている。
見れば、わぁ常緑樹だ。椎(シイ)の木と、もう一方は樅(モミ)の木だろうか。たのんでひと束いただき、市にきているヤギの親子に椎を枝ごと与えたら、おいしそうにムシャムシャと葉を食べてあっという間に丸坊主にしてしまった。
 樅と思われる方は、もこもことした緑の枝が規則正しく三方向に伸び、そのきっちりとした連続性が神秘な力を感じさせる。捨ててはいけないような気持ちになり、家に持ち帰り花瓶に挿してずっと眺めている。もうひと月以上になるのに、葉はまだ青々としたままだ。

 クリスマスには樅の木を飾るけれど、もともとは冬至の祭りだったと聞く。太陽の力が極限まで弱まり復活していくときに、冬にも濃い緑の樹木に生命の再生を願ったのだろう。光も生きものの力も弱まる冬枯れの中で、常緑樹に力を見出していくのは国や民族をこえている。

 12月。毎年お願いしている植木屋さんが少し遅めにやってきた。イロハモミジもドウダンツツジも真っ赤に染まり、落葉し、枯れ木のようになりかけた季節。こんもりと緑の葉を茂らせる月桂樹を剪定してくれる。フリーランスの植木職人といった風貌のこの人は、脚立に上がってハサミを動かしながら「月桂樹って、切っていると甘い香りがしてきて幸せな気分になるんだよ」と話していた。
 毎年ばっさりと落としてもらった枝を拾って、しばらくバケツに入れておき友だちに分ける。月桂樹は、葉を広げず、枝に沿って葉の裏を表に向けるようにしてするすると伸びていく。端正で美しい枝ぶりだからこそ冠にされたんだろう。葉をパチンと
折ると、瞬間にいい香りが立つ。

 大みそか。買い求めた松と水仙に、庭の山茶花(サザンカ)切って飾る。お正月を迎えるための常緑樹だ。
 冬至が過ぎ、日差しの弱まりは底を打った。寒さはこれからが本番だけれど、庭の緑の常緑樹に力をもらいながら冬をしのごう。

158立詩(6)いがいが

藤井貞和

ちいさな子を「みる」(みるちゃん)と呼ぶような、
語があったのでしょうか、「みるこ」という名もあります。
「みる」を海松(うみまつ)と書くので、海中に生える松とは、
明石の浦で産まれたあなたの赤ちゃんです。 あやめの節句に、
五十日めの赤ちゃんは、もう物語(おしゃべり)するのね、
お見知りも、聞き分けも、もののあやめ(分別)も。
「海松(うみまつ)や。時ぞ ともなき陰(かげ)にゐて、
何のあやめも いかに分くらむ」、みるこの歌です。
海に生える松(姫君)よ、変わる時のない、あなたの庇護下にあって、
菖蒲(あやめ)ではないが、五十日(いか)の日に、
いかにものの分別(あやめ)ができるようになっていることでしょう。

(「いか」〈五十日〉の祝福は「いかに」〈どのように〉をかけてある詩の技法ですが、「いがいが」〈あかちゃんの泣き声〉もかかっているという説を以前に見たことがあります。ああそうか、おぎゃーおぎゃーに同じだと気づきました。いがいが、言語の発生ですね。この世のはじめてのことばであなたに何をうったえているのですか、赤ちゃん。『源氏物語』澪標〈みをつくし〉より。)

最後の月に

仲宗根浩

修学旅行に行った子供は十二月に入る数日前から制服は冬服になる。こちらも半袖ではいられなくなり長い袖の服を着たりする。それでも仕事中動くと暑いので羽織っているものを脱いだり着たり。

師匠より朝メールが来る。今年、久留米で行われた筝曲の賢順コンクールで琉球筝が一位になったこと、その演奏が筝曲の原型を響かせて素晴らしかったこと等々。前日に地元新聞で記事を見つけ、知っていたので昼ごろにメールを返信すると暫くして電話が来る。地元紙ではそんなに大きな扱いの記事では無かったことなど話をする。琉球筝の流れの一つは八橋流を習得したものが八橋検校の没後二十年くらいで沖縄に伝わった、と琉球筝の楽譜の序に記されていてその曲も記されている。であれば八橋検校が作ったとされる調弦の平調子はなぜ沖縄に残っていないのか、伝わったが手だけを残し調弦を変えてしまったのか、と疑問が残り、八橋流ではなく筑紫流ではないかと思ったりする。八橋流の名前が残っているのは長野の松代八橋流ぐらいしか今伝承しているものはないし、といろいろわからないことばりであるが。

いろいろ落ちてきてはニュースになり、落ちた現場には中傷の電話があったようで、まあこれもネットでの情報を受けてのことだろう、と思うが偏向していると言われる新聞、メディアが取り上げても電話をしたほうは受け付けないだろうし。偏向しているメディアと言われるが、編集というものが加わることで簡単に偏向するし、世に出ているメディアがなんらか偏向している、と思っていたらすべての新聞は偏っている、と論じる本が出ている事を知るが、そういう本が出たところで知らないひとは知らないし。中傷電話の記事でみた「沖縄人は戦闘機とともに生きる道を選んだのだろう。」というなかに「沖縄人」と言ってくれることに「日本人」と違う人々が生活している沖縄がある、ということで日本とは違うありかたがあってもよいし、自治や制度があってもよいということになるのではないか、と考えてみてもそこまで考えて「沖縄人」と使っているわけではないだろうし。

テレビでは相撲のことばがりで辟易。そういえばCD屋で働いている頃、相撲の雅楽のCDが出ていること、本場所とは違う民放主催でやっていた相撲トーナメントでちらっと演奏されていたのを思い出し。あの頃買わずに舞楽のCDを購入した。調べたら「古式 相撲の節会」というタイトルだった。

新春の切れはし

璃葉

刻々と年の終わりが近づくある日、実家から長方形の青いボール箱が届く。箱の中にはビニール袋に詰められた米と、小さな柚子が二つ入っていた。柚子は実家の庭に生っているものだ。冬になるといつの間にかかわいらしい黄色の実を結ばせているのに気づいては、窓越しに眺めていたのを思い出す。

この年も正月の準備を一切せずに終わろうとしていたときに、子どものころの年の暮れの記憶がよみがえる。家のあらゆる方角を清めるための大掃除、しめ縄の準備、おせち作りの手伝いなど。あのころはひとつの行事として楽しんでいた。

東京にいるこの数年間は慌ただしく過ぎていく日々を暮らすのが精一杯で、あらゆる年中行事を無視して過ごしているような気がする。季節に沿うように生きていくのはこんなにもむずかしいことだったかと、ふと考えこんでしまった。

すこしだけでもやってみようか、と腰を上げる。これはとても気まぐれな思いだ。気まぐれにふらふらと、スクイジーを取り出して窓ガラスを拭く。床は雑巾で水拭き。埃がついているものをひとつひとつ磨く。くしゃみがとまらない。ベッドのシーツやカバー類を替え、要らない書類や物は捨てる。掃除は浄化、とよくいわれているが、年の暮れにやるこの掃除こそ、凄まじい威力を発するのではないか、と思うぐらい気分が良くなっていく。

落ち着いたところで、コート、マフラーを着込んで商店街へ向かった。雲ひとつない真っ青な空が気持ちいい。道は日が差して暖かいが、吹く風は冷たく、冷気が鼻にツンと沁みる。コートのポケットに手を突っ込み、しめ縄を買うか作るか、酒は何を買うか、あれこれ考えながら川沿いを歩く。いつもの買い出しと然程変わらないのに、何やら違う感覚がするのは、やはり年の区切りをつけているからなのだろうか。

鶏肉屋や八百屋で煮物の具材、漬物屋でぬか漬け、総菜屋でかまぼこなどを物色、酒屋ですこしだけいい日本酒を買う。しめ縄の藁は売っておらず、あきらめる。代わりに小さな花屋で松の木の枝と榊を買う。松の枝は玄関扉に飾り、榊は小瓶に生けた。ついでに、小さな柚子も飾る。正月の切れはしのようなものしか準備できなかったが、きっとこれでいいのだ。

松や榊の葉の鮮やかな緑色が、空気に溶けて広がり、部屋に浸透していく。そこに美味しい酒とごはん、本年の出来事やあれやこれやが混ざって結晶のようなものになるのだとしたら、これは案外良い始まりなのかもしれない。

別腸日記(11)冬の客(後編)

新井卓

岩手は気仙のにごり酒「雪っこ」は、気仙沼で長年続く酔仙酒造の製品で、人々に親しまれてきた。2011年3月11日の大震災と津波で工場、倉庫ともども完全に破壊された会社は、驚異的な早さで翌年初夏、隣町の大船渡に再建された。だから「雪っこ」は、岩手の人々にとって特別な酒である。震災後、さらに足繁く通うことになった遠野で酔仙酒造の酒を見かけるたび、奮い起つような心持で、一升瓶を掴まないわけにはいかなかった。

「雪っこ」や東北一帯で飲まれるどぶろくに、なにか普通でない迫力があるとすれば、それはひとつに、東北における米の来歴から来るのかもしれない。

東北の歴史は飢饉の歴史である。のどかな里を歩けばそこかしこに飢饉の碑が見え、記録された死者の数にただ瞠目するばかりである。遠野の民俗学者・佐々木喜善は、度重なる凶作にあえぐ郷里を復興するため民俗学を志したというから、『遠野物語』の鮮烈な民話の背後には飢餓の記憶が深く根を下ろしている(※)。飢えて命を落とす、ということが体感からも社会的風景からも遠ざかったいま、飢饉とはいったい何であるか、ほんとうに理解することは難しい。

東北で稲作が本格化するのは、蝦夷征討ののち、当地に封建制が敷かれて以来のこと、と言われている。太宰治の『津軽』は約五年に一度、「豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回」もつづく凶作の歴史に触れているが、ほんらい亜熱帯の植物である稲を寒冷な土地で作らせること、そのこと自体に、おそらく今日の東北の有り様と決して無関係ではない、強力な支配の構造が透けて見える気がしてならない。

いつも泊めていただく住田町の藤井家や、遠野早池峰でごちそうになる米には、一箸口に運んだ瞬間、山あいの風が抜けるような清冽な甘さがある。たくさんの白飯を頬張って咀嚼するとき襲われる高揚感と、食後におとずれる強烈な気怠さには、どこかしらドラッグに似た強烈な精神作用がある、と思うのは私だけだろうか。
遠野で、住田町で、冬の朝、さよならを言うときかならず持たせてくれる米袋はずっしりと重たい。それを川崎の家に持ち帰って、まずは粥を炊くことにしている。白米一合をざるにあけて冷水で撫でるように研ぎ、五合の煮立った湯に投げ入れる。一度か二度底をさらうように返したら、以降は絶対にかき混ぜない。中火で十分後、一合の差し水をしてさらに二分。火を止めて数分蒸らせば、濁りのない、さらりと透きとおった粥になる。刻んだ青唐辛子を味噌に漬けた南蛮味噌でもいいし、たくあんや梅干しを囓ってもおいしいけれど、じつは粥の味だけで十分である。
遠野の言い伝えでは、人は死ぬとみな早池峰山に帰るという。もし明日死ぬならば、この澄んだ粥を一口すすって、早池峯に昇っていきたいものだ、と、意地汚い酒飲みの柄にもなく、考えてみたりする。

※写真家/民俗学者の内藤正敏さんに、キツネに化かされる話は必ず「蛋白質」と関係している、と教えていただいたことがある。宴席から土産の弁当を提げて帰る道すがら、キツネの怪しい術によってなぜか、蛋白質豊富な食べもの──塩鮭やイワナの煮付けなど──が奪われる。道中忽然と消えたごちそうは、キツネが食べてしまったのだ、そういえば家人も苦笑いするほかない。飢えや抑えがたい欲の鋭い刃先をまるめてくれる存在、それが妖怪なのかもしれない。

うずくまる男

植松眞人

 夜の道を歩き、コンビニへ行く。温かくて甘ったるくはないというだけが取り柄の『挽き立てコーヒー』と銘打たれたコーヒーとパンを買う。部屋に戻れば、冷蔵庫にトマトとコンビーフとレタスがあるから、それでサンドイッチが作れる。仕事納めの日だというのに、なぜか新規の仕事の問い合わせばかりが立て込んで、午前中で終わると思っていた仕事が深夜にまでずれ込んでしまったのだった。 朝昼兼用で、午前中に事務所の近所のそば屋でざるそばを食ったきりなので、腹が減って仕方がない。さあ、店じまいだと思うたびに電話がかかってくるという仕打ちはまるで嫌がらせのようだと思ったのだがどうしようもない。一件一件丁寧に応対して、解らないことをネットで調べたりしているうちにこんな時間になってしまった。行きつけの居酒屋や定食屋に行くにも、年の瀬なので早じまいしていたり、納会で満席だったりするのに決まっている。というわけでコンビニなのだった。
 近所の会社でこんな時期に夜を徹しての会議でもあるのか、スーツ姿の男女がコンビニにあふれていて、コーヒーマシンでコーヒーを一杯買うにも時間がかかってしまった。不思議なもので、コンビニの中に人がたくさんいると、今がすでに深夜になっていることを忘れてしまう。支払いを済ませて自動ドアを一歩出て冬の冷たい風が強く吹いている最中に足を踏み出すと、自分はいまたった一人で夜の町にたたずんでいるのだということを思い知らされる。
 そんな思いに包まれた瞬間だったからか、歩道の真ん中に同じように一人だということを色濃く霧散させている男がうずくまっていることにすぐ気付いた。
 私が手にしているのと同じ店名の入ったレジ袋と使い込んだショルダーバッグが転がっていて、おそらく七十半ばくらいの年齢の男が、まるで老婆のように横座りの体勢になっていて、両腕をついて小さく唸っていた。
 僕は通りすがりの一瞬に人に危害を加えたりはしないだろうと判断してしゃがみ込んで男に声をかけた。「大丈夫ですか?」
 男は声をかけられたことに気付かないのか、しばらくぼんやりとしていた。しかし、唸り声をあげることは止め、どこから声をかけられているのか確かめようとしているかのようだ。
 それでも顔を上げるでもなく目をキョロキョロさせるわけでもないのだった。その動きの緩慢さに、私にはこの男の老いを感じ取ってしまう。私はもう一度声をかけようとした瞬間だった。
「酔ってるんでね」
 それほど酔っ払っているようには見えなかったが、男はそう答えて周囲に散らばったレジ袋やショルダーバッグに手を伸ばし始めた。
「大丈夫ですか?」
 私はもう一度声をかけてみる。男はやっと顔をあげて私を見る。
「このあたりは、割と物騒な奴が多いんです」
 そう言われて、私は脅されているのかと思った。この男は「おれがその物騒な奴かもしれねえぜ」と言っている気がしたのだ。しかし、そうではないということは、男の曖昧な照れたような表情を見ていればすぐにわかった。男は安心していたのだった。自分が妙な男に絡まれたのではない、という事実に安堵していたのだ。
 私も少し安心して、改めて男を観察した。右の頬のあたりに怪我をしているのか、小さく血が滲んでいる。
「怪我してるみたいやけど」
 私が言うと、男は無造作に、私を指さしたあたりを手の甲でぬぐうのだった。すると、頬についていた血が頬全体に広がってしまった。そして、自分の手の甲についた血を見て、男は「たいしたことねえや」と笑う。
 たいしたことがないなら、それでいい。そう思った私はその場を立ち去ろうと立ち上がった。
「大阪の人?」
 男が私に聞く。
「そうです」
 私が答える。すると、男はにやりと笑う。
「なまりでわかる」
 そう言うと、男はさらに下卑た笑みを浮かべる。
「だいたい、大阪の人はおせっかいだしな」
 男は、歩道にどっかりと腰を下ろした格好で私を見上げながら話し出した。
「おおきにやで」
 わざとらしい大阪弁で、男が言う。
「いえ、どういたしまして。じゃ、この辺で」
 そう言うと、私は男のもとを立ち去り歩き始めた。すると、男はさっきよりも大きな声で私の背中に怒鳴り始めた。
「おーい。おおきにやで。助かったっちゅうねん」
 調子づいた男は、どこで覚えたのか妙なイントネーションの大阪弁を次々と私の背中に投げるのだった。
「おおきにやで!」
「しばいたろか!」
「おもろいなあ!」
「むちゃくちゃやんかいさ」
 子どもの頃に見聞きした演芸番組かなにかで覚えたのか。もしかしたら、何年か大阪に住んだことがあるのか。
 男は神経を逆なでするような大阪弁の声に出し続けた。私はその声を振り切るように、歩道をぐいぐいと歩き続けた。男の声はしばらくの間、小さくなっていったのだけれど、やがて後ろから近づいてきた。振り返ると、男は手にレジ袋を持ち、ショルダーバッグを肩から提げて、こちらに向かって歩いてきているのだった。
 目の前の信号が赤になり、私は立ち止まった。男はぶつぶつと大阪弁を呟きながら、私の真後ろに付いた。いい加減鬱陶しくなってきた私は、信号に背を向けて、男の方に向き直った。二人の距離は思いの外近くて、私が振り返ったことに男はとても驚いた表情を見せた。
「東京生まれですか?」
 私は男に聞く。
「そうだよ」
 男は笑っている。
「いいですね、なまりがなくて」
「そうだよ。なまらないんだよ」
 笑いながらそう答えた男に、私は言う。
「人生はかなりなまっているようだけどね」
 私が言うと、男は急に目の置くに凶暴な孤独の影を見せた。
「なんだと」
 男はそう言うと、コンビニのレジ袋を振り回し始めた。私は男のレジ袋を素手でグッと摑む。すると、振り回していた勢いで、男はバランスを崩す。その瞬間に私はレジ袋から手を離す。男がレジ袋を奪われまいと力を入れたのと同時だったからか、レジ袋が男の顔に向かって飛んだ。そして、怪我をしていたのとは、逆の左側の頬に新しい傷ができた。 男は顔にレジ袋が飛んできたことを歩道の上に倒れ込んでしまう。そして、男はさっき私が見つけた時と同じ姿勢になっていた。レジ袋やショルダーバッグの配置も手の付き方もまるで同じだった。ただ、男の両方の頬に血が滲んでいるというところだけが違う。
 さっきも、男は私に絡んだように誰かに絡んで、今、目の前で起きたようにして路上にうずくまる結果になったのだろうか。私は男を見下ろしながらそんなふうに考えていた。そして、そうでなければこんなふうになるわけがない、と確信にも似た気持ちを持つようになっている。
 だとしたら、男に絡まれ、男のレジ袋を摑んで結果的に男を路上にうずくまらせた相手は、私にそっくりな奴なのだろうか、と考える。するとまた、考えれば考えるほど、その男は私に似ているのだという確信にも似た気持ちになる。そして、もしかしたら、それは似ているのではなく私だったのかも知れない、という妙な気持ちになるのだった。(了)

しもた屋之噺(192)

杉山洋一

「水牛」の原稿を書くたび、今回は何回目か数字を確認するのですが、そのたびに、この数字から何か閃かないか、無意識に数字遊びをしています。それは何か有名な作品番号であったり、年号であったりするわけですが、例えばこの192であれば「良い国つくろう鎌倉幕府」の1192年だったりします。
もうすぐ年が明けるので、家の周りでは花火がずっと打ち上っていますが、今年はいつもより少し静かな気がするのは、多分雨が降っているからかもしれません。

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12月某日 ミラノ自宅
Aさんに「オペレーション・オイラー」の楽譜を送る。小学校終わりか中学の頃にくらいに、貯めた小遣いを持って渋谷のヤマハで買ったもの。
1969年に書かれ、Laurence SingerというBartolozziと共同作業をしていたオーボエ奏者に捧げられたこの作品は、子供の頃から楽譜だけ眺めていて、実際の音を想像しながら憧れていたので、何とか一度聴いてみたいと思う。表紙の裏には、タイプ打ちの進行表が書かれていて、可能な演奏順、組み合わせが指定されている。何十年かぶりに実家で見つけると、裏表紙はなくなっていたが、運よく楽譜は揃っていた。程なくAさんから返信があって「とんでもないものを見てしまった気分です。オーボエで聞いたことのない音ばかり。頑張ります」。

この秋は落ち着いて家にいなかったので、初めて庭の落ち葉かきをする。やりたそうにしている息子を誘う。落ち葉かきがこれほど重労働だとは、この家に住むまで知らなかった。息子が落ち葉かきをしたい理由は、集めた落ち葉の山に走って飛び込むこと。少し走り込んで仰向けや俯せで歓声を上げて飛び込む。スヌーピーでも同じような場面があった気がするが、勘違いかもしれない。

アメリカの大西くんから連絡あり。「カガヒ」は確かに公共図書館の書庫から取り出されてファクシミリ係には届けられたらしいが、その先の所在が分からないという。クリスマス前でアメリカの図書館も混乱しているのか。

12月某日 ミラノ自宅
ニューヨークからルカが戻ったので、ボローニャで来年10月の「Kraanerg」打合せ。政治色の強い大学街ボローニャだからだろう、来年2018年は1968年のボローニャ大学占拠事件から50年という節目にあたり、ボローニャやエミリア・ロマーニャ州に住む老若男女の有志を何十人と募って、プロのダンサーを核に据えたグループに分かれてワークショップを重ねて、社会に対する抗議や主張の象徴であるクセナキスと対峙させる、ずいぶん大規模な企画。
これが彼らの社会に何を意味するのか、歴史を掘り下げて理解してゆかなければならないだろうが、単純に日本に置き換え、東大紛争50年を記念して市民参加でクセナキスのバレエをやると考えると、思考が停止しそうになる。
約束の時間に劇場へ入って、皆待っているからと秘書についてゆくと、関係者一同久しぶりに訪れる劇場の喫茶店で、寛いだ様子でコーヒーを啜っていた。

昼過ぎの特急でミラノに戻る前に、劇場からほど近い角の食堂で、蕪のパスタとバカラの煮付けを食べた。特に打ちたての「耳たぶ状パスタ」に絡めたくたくたの蕪のソースが秀逸で、思いの外唐辛子が効いていて、何より自分で作るものよりずっと柔らかく煮込んである。食堂の主人が、冬は蕪のパスタに勝るものはないね、こんな美味い野菜は他にない。うちらもつい今しがたあんたと同じものを喰ったばかりだ、と胸を張るだけのことはある。帰りしな中央駅で、息子が見たがっていた「マカロニ」と「ボッカチオ70」のDVDを購う。

12月某日 ミラノに戻る車中にて
1泊2日で家族揃ってニースを訪れる。ミラノからは乗り換えなしの4時間過ぎで、列車で簡単に着く。海辺を走るジェノヴァからニースまでの車窓は、国境を越えればもっと変化するものかと思っていたが、さほどではなかった。コバルトブルーの海の色が本当に美しい。

すっかり冷え込んでいるミラノと比べると、たとえ風が強くとも、実に明るく美しい南国の太陽。息子にとっては、スイスと日本以外の初めての外国だそうで、スイスはイタリア語も通じるので、言葉の通じない初めての外国、とはしゃぐ。家人が血眼になりながら、インターネットでレストラン探しに躍起になっていて、普段あまり見ない姿なので意外だった。お陰で2日のみの滞在で、3つのレストランに入り、全て実に美味しかった。
イタリアでも、観光地で調べもせず美味しい食堂には巡り合えないので、家人の努力の賜物には違いないが、インターネットで評判の良い所は、どこも洒落ていて、洗練された料理が並ぶということを知った。

息子はすぐに足が疲れて歩けなくなるので、その度に背におぶってやる。ニースは坂がなだらかで良かったが、翌日訪れたアンティーブでは、坂と階段だらけのなか、息子を背負いながら歩き回って、すっかり困憊した。実は、今まであまり息子を背負ったことがない。何度か試してみたが、その度にすぐに吐き気と眩暈を催し倒れてしまうので、意図的に避けてきた。今回何とかやり過ごせたところを見ると、必要に迫られれば体質も変わるのかも知れない。

それまで歩けずにいた息子が、ニースの海岸に降り立った途端に立ち上がって、嬉しそうに跳ね廻る姿には、感動を覚えずにはいられなかった。親としては、まるで狐に摘ままれた心地になる。医者から、最早あと残っているのは自律神経による障害でしょうと言われても、目の前で息子を見ていれば、精神的なストレスによる場合と、身体の使い過ぎで困憊している時の違いくらいは分る気がする。
人影の少ない抜けるような青色の海辺で走り回る息子は、親の常識を覆す姿だった。街に戻ると、またすぐにへたり込んでしまったが、あれだけ動き回った後ではそれは当然と、妙に安心すらするほどだった。
目の前で海を眺めていた男性がいきなり服を脱ぎだしたかと思うと、下着一枚でそのまま海に飛び込んでいった。
何年か前、ターラントまで今は亡き家人の恩師を訪ねた時の海を思い出す。恩師の家の裏にはほんの小さな浜があって、同じ美しいコバルトブルーがどこまでも広がっていた。浜が小さいだけ、目の前の大海原が広大で、少し恐ろしく感じられるほどだった。

翌日アンティーブのピカソ美術館を訪ねる。丘の上まで背負って身体が限界だったので、美術館では車椅子を借りる。1946年にアンティーブにピカソが通い出してからの作品が並ぶ。あまりにウニばかり書くものだから、余程ピカソはウニが気に入ったのよと家人が嬉しそうに繰り返す。彼女はウニが大好物だ。実際は造形的に面白かっただけかも知れないが、確かに郷土料理にウニは色々使われているようだった。

特に愕いたのは、ピカソのキュビズムについて、息子が事も無げにさらさらと説明することだった。目の前に並んだ1946年のスケッチを前に、重力が実際と比べてどう置換され、視覚の方向性がどう置換され、結果としてこの物体はこのように表現されている、などと立て板に水宜しく話していて、尋ねるとピカソのキュビズムの特徴とその分析方法を習ったらしい。学校について殆ど息子は話したがらないので一体何をしているのか、ずっと不思議に思っている。日本人らしき親子がイタリア語で話していて、学芸員に珍しがられる。

12月某日 ミラノ自宅
朝、8時半からのレッスンのため、6時に起きて楽譜を整理し、7時半には自転車に跨ってミラノの反対側を目指す。週末の早朝など街はすっかり閑散としていて、中国人のやっている喫茶店で朝食を摂ってレッスンに出かける。週末の早朝から働くのは、中国人くらいのものだ。
ふと20数年前、ミラノにやってきたばかりの頃の記憶が蘇る。今と同じように、週末、朝6時半にランブラーテにあったドナトーニのアパートの前で待っていると、髪を揃え小ざっぱりと身支度をしたドナトーニが降りてきて、愛用のトヨタの助手席に乗せて貰い、ブレッシャのロマーノ・ロマニーニ財団のレッスンに連れて行って貰った。何時も同じ高速の喫茶店に寄っては、ホットミルクとハムを挟んだトーストを頼むので、よく飽きずに同じものばかり頼む人だと感心した。そうして、ブレッシャに着くと、決まって道が分からなくなり、それでもあちらこちらを回るうちに学校の目の前に偶然着くのだった。どこか達観して凛とした教育者ドナトーニの横顔を思い出しながら、冷え切ったトリノ通りの石畳を自転車で駆ける。

12月某日 ミラノ自宅
日が暮れて、初旬2か月の通信簿を貰うため、息子の通う中学へ自転車を走らせる。小学校の頃から通信簿は親が受領のサインをして貰っていて、中学になってもそれは同じだが、一つ違うところがあるのは、小学校は一人一人個人面談のようにして受け取っていたのが、中学は親が教室に揃ってから、一通り教師が所感を述べた後、他の親の目の前で渡されること。

学校と言えば、先日息子が色めき立って学校から帰ってきて、大切な話があると言う。聴いているから話したらと言うと、家人と二人目の前にきちんと並んで聞かなければならないと譲らない。仕方がないので言われた通りにすると、大変なことがあったのだが、大変過ぎてどう説明したらよいか分からないので、そちらから質問をしてくれれば、然るべく答えようと言うので、思わず声を上げて笑う。
「だから、体育の授業と言えばあれでしょう」と、息子の興奮度が増してくる。体育の授業と言うと何かと質問すると、そんなことも分からないのか、更衣室に決まっているでしょう、と言う。興奮が収まらない息子の話を断片をつなぎ合わせ、漸く内容が見えてくる。

朝、2年生の息子たちが体育の授業の前に更衣室で着替えていると、烈火の如く怒った1年生担任の女性教師が怒鳴りながら入ってきて、彼女のクラスの男子生徒が息子のクラスの男子生徒に苛められたと言う。誰だか名前がわからないので、白状しなければ、男子は全員停学と言われたそうだ。何でもズボンを頭から被されて目隠しをされた挙句、布かばんで頭を殴られたらしく、怯えて登校拒否になってしまったのだと言う。随分酷いことをするものだが、クラス24名のうち8名しかいない男子生徒全員が、身に覚えがないと言う。息子曰く、クラスの男子は、全員苛められてきた弱虫ばかりだからできる筈がない、と突拍子もない理由を尤もらしく話す。

その夜、クラスの母親を中心とした連絡網のSNSのやりとりが何度となく送られてくる。息子のクラスと決めつけ怒鳴りこんできた女性教師の態度が疑問と言うものや、どこの誰がやったかは別にして、こんな事件が学校で起きたこと自体が大変だと言うもの、うちの息子に限ってそんなことができるわけない、という男子生徒の母親や、うちの娘は学校から帰ってきて塞ぎこんで何も話してくれない、というメッセージもあった。印象に残ったのは「娘の話ではクラスの女子生徒が一致団結して男子生徒を女性教師の脅迫から守ったそう。娘たちを誇りに思う」というもので、イタリア女性の強さを思う。

12月某日 ミラノ自宅
早朝コーヒーを沸かしながら、ふと外に目をやると、目の前に何やら巨大な影が見える。見れば、すぐ目の前の鉄道の電信柱に一羽の鳶が悠然と留まっていて、周りを興奮した烏が三羽、騒ぎ立てながら飛び回っていた。近くに烏の巣でもあるのかと思ったが、こんな冬枯れに雛がいるとも思えない。何をやっていたのだろう。

息子の体調が優れず、さほど疲れているはずもないし、学校でストレスを覚えるようなこともない筈なのに、何度も階段で足の力が抜けては、ずるずる下まで落ちてゆく。そんな時はまるで入院前に戻ったようにすら見える。危なくて一人で階段を歩かせることも出来ない。病院での化学治療に目処がついたので、セレナに紹介されたシュタイナーのアントロポロゾフィー医の診察を受ける。病院のリハビリと並行して、アントロポロゾフィーで身体を少しずつ強くしてゆこうとのこと。どういうわけか、息子はラヴェンダー油で全身をマッサージされるのが、とても気に入っている。

そういう状況なので、12月最後の中学登校日、クラスのカラヴァッジョ展訪問に際しては、美術館に先回りして車椅子を借りておいた。カラヴァッジョ展はとても見たかったので、息子の見学にかこつけて一緒に廻りたかったが、車いすを恥ずかしがる息子に許して貰えなかった。カラヴァッジョ展を70分かけて周ったそうだし、学校から地下鉄まで片道20分近く歩いたそうだから、車椅子は必須だったと思う。

12月某日 ミラノ自宅
クリスマスから年末まで家人が日本に戻る間、息子と二人、ニースで過ごした。空気が良くて温かく、息子の大好きな海もあり、学校の仏語にも多少は慣れる切っ掛けにもなる。アパートで自炊しても食材も悪くないし、美術館など訪れるところには事欠かない。
冷え込むミラノに二人で過ごすより、気が紛れるだろうし、身体にも良いかも知れないとは思ったが、毎日階段から滑り落ちて泣く息子と二人きり、一週間ニースで過ごすのは流石に覚悟が必要だった。先日下見に出かけたが、あの後息子の体調は頗る悪く、ニースに出かけると決めてからは、不安で夜も眠れなかった。

ニースは急な坂や階段が比較的少なく、二人で乗れる折り畳み式のキックボードをミラノから携えてゆき、普段は息子を前に乗せ、急な坂では彼を乗せて歩いた。3日目くらいからは右足のふくらはぎが酷い筋肉痛になったが、息子の身体もその頃には随分しっかりして、ミラノに戻る前日には、Entrevauxの小さな山の頂上の古城まで、急な石畳道を自分の脚で登りきってしまった。流石に自分でも信じられなかったらしく、帰りはずっと大声で雄叫びを上げながら坂を下るので、見ていて心配するほどだった。

二日目からは、アパートのある駅裏手の界隈を一人で闊歩してはパン屋に入って朝食のクロワッサンとチョコレートパンを買うようになり、ハムを買えるようになった。一番最初は何にも分からないとパン屋を出た瞬間に泣き出したが、そうして買ったバゲットが思いの外気に入ったらしく、人目も憚らず美味しい美味しいと泣きながら齧って歩いた。アパートの階下にある「職人のつくるパン屋」のクロワッサンとパン・オ・ショコラがお気に入りだった。

ヴァロリスまで、ピカソの「戦争と平和」を見に行った時のこと。こちらは、長い坂を息子を乗せ走ってきたので、漸く見られた震えるような感激に浸り「戦争と平和」を眺めていると、息子は、もう先へ行きたい、何故ならこの絵は良く知っているからだと言う。

「この左側の悪の御者が、暗闇に浮び上る白い手の陰、つまりこれはこうとしか描くことができない死者を表しているのだけれど、死者を踏みにじり、下には血が川のように流れ、それを平和の象徴の鳩を頂く盾と、運命の天秤を従える槍を携える平和の兵士が迎える。悪の御者の馬は、ほら聖書を踏みつけているでしょう。右側の平和で、運命の天秤の上に遊ぶ一人の手には鳥かごに魚が躍り、もう一人の天秤は平和の象徴の鳥たちとバランスをとっている。この右端の樹はアダムとイブのあのリンゴの樹で、左端の笛吹きは、大きな貝に乗っている。正面の人々が捧げ持つ平和の象徴の鳩は、本来キリスト教が信じている三位一体ではなく、敢えて四人の人間で支えているでしょう」。

何処までが本当に習ったことで、何処からが今適当に口をついて出てきている話なのか分からないが、その境界線すら曖昧なところに感心する。これは学校の美術の口頭試問の問題だったので良く覚えているらしい。その試験の問題は、この3面の絵の時間軸は互いにどう関連付けし解釈されるべきかというもので、奥から平行に時間軸が流れているのか、右から左へもしくは左から右へ一方方向へ流れていると解釈すべきか、3面別々の時間軸を並置していると解釈すべきか自分の考えを述べよ、というものだったそうだ。理由は分からないが、彼の美術の教師が相当なピカソ好きであることだけは理解した。

劇場にバレエを見にゆけば、主人公にあてるスポットの位置が、スカラならシャンデリアの上に見えないようについているが、ここはスポットがそのまま見えてしまうとか、幕上の絵は布みたいだがべニアに描いてあるに違いないとか、時計が壊れて針を取ったままにしているとか、オーケストラピットが小さすぎて金管楽器が全く見えない、と言いたい放題で、イタリア語が分かる客が周りに居たらどうしようと冷汗をかいた。桟敷席は、皆とてもリラックスしていて、特に休憩中しどけない恰好で妙齢たちが長椅子に寝そべっているのが面白い。

シャガールに特に強い興味を覚えたこともなかったのが、シャガール美術館を訪れまるで変ってしまった。シャガールもピカソもフランス人ではないし、フランス芸術ではないのは分かっているけれども、少なくともシャガールの作品を眺めている間は、ずっとプーランクの「グローリア」やらメシアンの「キリストの昇天」、デュリュフレの「レクイエム」などが頭の中で反芻していたのは何故だろう。
長年不思議に思ってきたフランセやデュリュフレ、プーランクが、ブーレーズが活躍する同じ時代、文化でどう共存し得たのか、長年ずっと疑問に思っていたことが、勘違いかも知れないが、少し感覚的に理解できる気がした。それは「感覚」が第一義的な存在であって、出来るだけ骨組みを見えないように、重力から解放して、意識的に輪郭を曖昧にしてゆく文化ではなかったか。

オリーブ油とバターであれば、明らかにオリーブ油を使った方が素材の味がそのまま染み出る。バターをそこに併せたり、バターのみで素材を調理すれば、より味も円やかになって、輪郭が揺らぐ。ソースを掛ける調理方法も、素材の輪郭を敢えて溶け込ませる効果があるのではないか。イタリアの和声法がフランスに至って丁寧に角を取られ、3度を積んで色彩を加え、出来る限り素地を見せぬよう配慮された絶妙な方法論を確立させたのを思い出す。あれ程繊細なフランス料理の作れる国で、何故どうにも茹で過ぎてふやけたパスタが出てくるのか、少し納得がゆく。

イヴ・クラインの作品が並ぶ現代美術館で特に印象に残ったのは、Pierre Pinoncelliが1975年に行ったパフォーマンス「Hold-up contre l’Apartheid(アパルトヘイト政策に反対する強奪)」。
ニースが南アフリカのケープタウンと姉妹都市関係を結ぼうとしたことに反対して、ドクロの面を被って銃を携え口にバラを咥えて、大通りのSociété Générale de Nice
銀行に強盗に入ったパフォーマンス。象徴的に1フランを要求し、後に経済のインフレを理由に要求額を10フランに増額し、程なくピノンチェッリは逮捕されたが、一部始終はヴィデオと写真に残されて現代美術館ではそのヴィデオも写真も見ることが出来る。このダダの生き残りのような姿勢も面白いが、実際に彼の恰好の写真を見ると、独特の美的感覚がイヴェントに香りを与えていることが理解されるに違いない。ブソッティの美意識に独特のまとわりつくような香りを感じるのは、やはり彼がフランス文化に強く影響を受けたからなのだろう。

(12月31日ミラノにて)

女友達

若松恵子

年の瀬に、麗蘭(れいらん)のライブを見るために京都に出かけるようになって10年になる。四条にあるライブハウス磔磔(たくたく)は、有名なブルースマンもライブを行ってきた、築100年になる蔵だ。麗蘭のメンバーである仲井戸麗市と土屋公平が、音楽の神様が住んでいるなんて言っていたけれど、その夜限りの特別な演奏が繰り広げられて(ライブというものはたいていそういうものなのだけれど)遠くまで出かけてきた甲斐があったものだといつも思う。クリスマスも終わり、初詣に備えて掃き清められてシンとした京都の街も気持ち良くて、通い続けることになった。

日帰りがほとんど、長くても1泊のささやかな旅だが、毎回どこかを観光している。今年は前から行きたかった恵文社一乗寺店に行くことができた。12月30日も営業していたからだ。叡山鉄道の一乗寺駅で降りて、どこか懐かしい感じのかわいい商店街を歩いてガイドブックで見ていた恵文社のドアを開ける。年の瀬だというのに本屋はたくさんの人で賑わっていた。恵文社の魅力ある棚を時間をかけて眺める。今年のうちに、これもあれも買ってしまいたい衝動にかられるが、東京に帰っても手に入るものはがまんして、女性作家のエッセイを集めた棚を眺めていた時、1冊の本に呼び止められた。雨宮まみ著『東京を生きる』だ。帯に追悼の字がある。著者の急逝を惜しむコラムを、どこかで読んだ、あの人かもしれないと思って棚から抜き出す。2015年4月の刊行だが、これまで他の本屋で出会う事がなかった。

「藤圭子の歌う『マイ・ウェイ』は、普遍的なことを歌っているようで、ただひとりの誰かの、とても個人的な、秘められた思いを歌っているように聴こえる。」と書く「マイ・ウェイ」。
「ほんものの美にひとが打たれる瞬間を、見たことがある。」そんな1文から始まる「美しさ」。

25本のエッセイが編まれたこの本にたちまち魅せられて、帰りの新幹線のなかで一心不乱に読み続けた。実際には聴いたことのない、雨宮まみの声にずっと耳を傾けていた。彼女の本のなかに、彼女の声が確かにあった。雨宮まみの目を通して描かれる、東京の寂しさと美しさに魅かれる。それはそのまま、彼女の美しさと寂しさなのだけれど、彼女自身にはそれは手の届かないものとして認識されている。

新幹線の横の座席に彼女が坐って、ずっと話すのを聴くようにして彼女の著書を読んできて、もうすっかり彼女は私の女友達のような気がしている。年上の女として、元気づけてあげたかったと、そんな事を思っている。

知られざるイヌ(年)の傑作

北村周一

父には友達が少なかった。
少ないというより、ほとんどいなかったように思う。
いるとすれば、戦友の二人、山梨さんと、杉山さんくらいであろうか。
山梨さんは代々醤油屋を営んでいたが、そのころには廃業していて、
土地を切り売りして生きているようだった。
昭和三十年代中ごろのことである。
父はその山梨さんから土地を買い付けた。
けれども、話がうまくまとまらず、一番欲しかった繁華街の土地はあきらめて、
電気も満足に通っていないような、荒れた畑地を半ば強引に手に入れたのだった。
騙されたというか、裏切られたとでもいうべきか、
以来山梨さんとの付き合いは途絶えてしまった。
しかし、世の中変われば変わるもので、
繁華街の旧市街地は、道が狭いためにその後あまり発展せず、
父が購入した、いわば新開地のほうが、急激な発展を遂げたのだった。
昭和四十年代に入り、家のわりと近くに清水インターチェンジが出現し、
土地の良し悪しでいえば、立場が事実上逆転してしまった。

そんなある日のこと、めずらしく戦友のひとり、杉山さんがわが家を訪ねて来てくれた。
一匹の子犬を連れて。
クルマに酔ったその子犬は、家の庭で少しく吐いた。
そんな姿がなんともあどけなく、家の中で飼いたいと父に申し入れてみたが、
聞き入れてもらえなかった。
杉山さんは温厚な人で、自分が飼っていた四国犬が子を産んだので、
父の犬好きを知り、一匹分けてくれたのだった。
それから、外で飼えば十分ですよと教えてもくれた。
古風な血統書が付いていた。
名は雲仙号。生後四か月ほどの男の子。大事に飼おうとこころに決めた。
とはいえ、雲仙号ではちょっと重たかったので、名前を能登に替えた。
母もぼくも輪島生まれだったからである。
能登はすくすくと育ち、大きくなった。
四国犬は、血筋的には紀州犬の親戚筋にあたり、中型犬ではあっても、気性が荒い。
特にオスは、家族には懐いても、見知らぬ人には獰猛な一面がある。
綱を切っては、家の外へ飛び出すこともままあった。
そしてよく咬みついた。
見てくれは可愛いので、撫でようと手を差し出すと、ぱくりと咬むのである。

昭和四十年代半ば過ぎ、能登が五、六歳のころ、家の増改築の工事が始まった。
ぼくが大学に入り、上京して2年ほど経っていたと思う。
帰省すると、能登がいない。犬小屋はそのままなのに。
四国犬の能登は、どちらかというと猟犬タイプで、嗅覚が鋭いので、
ぼくが帰って来ると、それを察知して必ず吠えた。
かなり遠くからでも、能登が吠える声が聞こえた。

父は真面目いっぽうの人だった。
本格的な増改築工事が始まるまえに、能登を保健所に連れて行ったのだ。
清水の街の中央を、巴川という川が流れている。
その土手沿いに、保健所がある。
ふだんは何をいってもわれ先にと進みたがる能登ではあるが、
父の話によれば、土手の道を引きずるように連れて行ったらしい。
さいごは、両腕に抱えて。

それから20数年ののち、ぼくは犬を飼うことにした。
名はラク、ウェルシュ・コーギー・ペンブローク種の女の子。
いまの家で、13年と2か月生きた。
雪降る二月の末日、わが家にやって来て、13年後の同じ日に荼毘に付された。
やっぱり雪が降っていた。
ラクを飼ってみてわかったのだけれど、
むかし飼っていた、いや、飼い切れなかった犬たちの記憶が、甦って来るのだった。
もう忘れてもいいようなことまで。

 家族には見せぬ笑顔もそれぞれがラクを介してゆるすひととき

ジャワ舞踊の衣装(2)上半身の衣装

冨岡三智

昨年10月号で下半身の衣装を説明したので、今回はその続き。

ジャワ舞踊では下半身にはジャワ更紗(バティック)を巻く。…と10月号に書いたが、実は例外があることを書き忘れていた。それは宮廷舞踊ブドヨの場合である。ブドヨでもバティックを巻くことはあるのだが、儀礼性の高いブドヨではチンデというインド伝来の模様の布を巻く。現在のジャワではチンデといえば染めだが、本来は織りである。実はジャワ王宮では、チンデは貴族がその地位を示すために使われる。男性なら帯やズボン(バティックの下に穿く)身に着ける。女性舞踊でそのチンデを下半身に巻く時の上半身の衣装は、通常のバティックのサイズより縦も横も2倍大きいドドット・アグンというサイズの布に、森羅万象を示すアラス・アラサンという柄(森に棲む各種動物の柄)を金泥で描いたもの。結婚式の花嫁衣裳の姿でもある。宮廷でも「ブドヨ・クタワン」という、今でも門外不出の舞踊にしか使われない。それ以外のブドヨには、上半身にドドット・アグンのサイズのバティックを巻く。

・素材

宮廷舞踊のスリンピや、宮廷舞踊から発展したゴレック、あるいはワヤン・オラン(舞踊劇)の上半身の衣装は、ビロードの布に金糸や金コード、ビーズなどで刺繍したものだ。デザインには袖無しで前開きのコタンと、ビスチェのように肩が露出するムカッの2種類があり、スリンピにはどちらのタイプも用い、ゴレックではコタンを用いる。ビロードはどう見ても西洋風に見えるが、事実、イタリアで発明され、ルネサンス期に発展した素材だ。日本には南蛮貿易で伝来したことを考えると、ジャワ島に伝わったのも日本とそう変わらない時期ではないかと思う。伝統技法のバティックとの組み合わせは変に感じるが、バティックも発展したのは17世紀頃からと、ビロード伝来時期とあまり変わらないようである。当時の宮廷人にとってはどちらも最新の豪勢な素材で、宮廷の権威を示すにふさわしい素材だったのだろう。

一方、民間舞踊のガンビョンでは木綿に絞りを施した布を胴に巻き付ける。この布のことをクムベンと呼ぶ。絞りは世界各地で古代から見られる手法で、庶民が着用できる(安い)素材なのだ。アクセサリも豪華ではなく、その代わり、ジャスミンの花輪を首にかけ、ジャスミンやカンティル(モクレンの仲間、指先くらいの大きさ)を髪に挿す。実はガンビョンの舞踊では、このジャスミンの花を身に着けることが重要なのだと着付の師に教えられた。ガンビョンは本来豊穣祈願の舞踊なのだが、その踊り子たちが身に着けたジャスミンの花には病気を直す力があると信じられ、観客たちは欲しがったそうである。

・色

ジャワ舞踊では、上半身の衣装の色と腰に巻くサンプールという布の色の取り合わせがコーディネートで重要になる。特に舞踊劇ではキャラクターを表現する上で色が重要だ。たとえば、スリカンディはスラカルタ様式では赤色のムカッに青色のサンプールを組み合わせることに決まっている。赤い衣装は荒型用の色だが、スリカンディは女性ながら司令官として戦場に立つ女性なので赤色がふさわしく、赤×青のコントラストでキャラクターの強さを一層強調するのである。一方、優美なキャラクターを表現したり、曲の優美さを強調したりしたいなら、黒、紺、深緑、深紫などの落ち着いた色のビロードの上着に深い色の緑色やマゼンタ色のサンプールを合わせるのが良い。黄色やオレンジ色のサンプールは舞台映えするが、キャラクターがついているので、宮廷舞踊には合わないと私の着付の師匠は言う。また、日本人だと紫色の上着にはピンク色をコーディネートしたくなるが、ピンク色はジャワではほとんど見ないように思う。どうも、ジャワ人にはピンク色は煽情的な色に見えているのではないかと感じている。

ジャワでは特定の色の組み合わせに名前がついていることがある。一番有名なのはパレアノムと呼ばれる若い緑色×黄色の組み合わせだろう。これはマンクヌガラン王家の旗印の配色である。ちなみにパレは苦瓜、アノムは若いという意味。だから、同王家が振り付けて有名になった作品「ガンビョン・パレアノム」では、緑色のクムベンに黄色のサンプールを合わせる。

2017年活動記録

笠井瑞丈

1月『雪の蝿』
2月『Moratorium end』(三浦宏之振付)
3月『沈黙する世界』(ダンス専科 振付)
5月『花粉革命』(笠井叡振付)
6月『youがme』(鈴木ユキオとのデュオ作品 金沢)
9月『Duo』(小暮香帆とのデュオ作品)
10月『Duo』(小暮香帆とのデュオ作品 リトアニア)
11月『youがme』(鈴木ユキオとのデュオ作品 神楽坂セッションハウス)
12月『R.S.B conversation ’17』(米澤一平企画)
12月『Requiem〜序章〜』(高原伸子振付)
12月『ONDOSA#6 〜黙って話して〜』(南弓子企画)

1月 初めてオーディションという形でダンサーを集い、ゲストに鈴木ユキオさんを迎えての公演。『虚舟』の続編。モーツァルトのレクイエムを振付る。

2月 久しぶりに三浦宏之さん振付作品に出演。気のしれた仲間達とのリハ、懐かしい時間が蘇る。

3月 ダンス専科。毎年行うセッションハウス企画ワークショップ公演

5月『花粉革命』自分にとって一番大きな挑戦の公演でした。

6月 初めて鈴木ユキオさんとのデュオ作品。二人で深夜バスに乗って金沢へ。嫁不在の嫁の実家初滞在。

9月 笠井叡が20年前に行っていた天使館公演企画『ダンス現在』それを今年引き継ぎ再始動。第一弾として小暮香帆とのデュオを行う。

10月 初めてのリトアニア 初めて行く土地 初めて出会う人 初めて飲むビール 初めて踊る踊り しかし物価の安さにビックリ 

11月 鈴木ユキオさんとの作品再演 音楽構成はそのまま ダンス構成はやっぱり変わる 作品は再演を繰り返し熟成する

12月 三本
『R.S.B conversation ’17』初めてタップダンサーとのセッション
『Requiem〜序章〜』レクイエムを踊る、2018年2回目レクイエム 始まりと終わり
『ONDOSA#6 〜黙って話して〜』無音で踊る企画

振り返れば2017年もいろいろ公演がありました
すべて一つ一つに意味があった公演です

公演を通して

新しい人と出会い
新しい自分を発見し
新しいテーマを見つける

2018年も一つ一つを丁寧に

公演活動
舞踊活動
人間活動
修行活動

どうぞよろしくお願いします

製本かい摘みましては(133)

四釜裕子

年末で閉店と聞いた古書店に向かうとシャッターが下りていた。今日は早じまいされたのかなと軽い気持ちでネットで探ると、十日前に閉店していた。いつもなら可動式の棚が並ぶ入り口に立ったまま、最終日のようすを書いたどなたかのブログを読む。たくさんのお客さんがいらして思い思いに店主に声をかけておられたそうだ。渋谷区渋谷一丁目、青学前にあった巽堂書店。昭和9年の創業で、現店主は二代目だった。立ち寄るばかりでたいした買い物はしなかったし店主とまともな会話をしたこともないけれど、この道を歩けば必ず寄った。こういう場所が町を人の居場所にしてくれる。

数件先の中村書店に向かう。こちらは昭和24年の開店で、創業者の中村三千夫さんについては、なないろ文庫ふしぎ堂時代の田村七痴庵さんが書いた「渋谷宮益坂上の中村書店に行ってみなさい」(日本の古本屋「古本屋のエッセー」/初出・東京古書組合発行「古書月報」)を今もネットで読むことができる。http://www.kosho.ne.jp/essay/magazine04.html

店に入って左側からずずずーっと、棚の前に積まれた「VOU」の乱れを直しつつ詩集棚を奥まで眺め、Uターンして別の側の棚を入り口の方へ戻る。ドアに手をかけたところで、茄子紺の表紙に『文楽と土門拳』という文字をぎゅうぎゅうに詰めた冊子が目に入る。44年前の正月、昭和49年1月4日から22日まで新宿・小田急百貨店本館11階のグランドギャラリーで開かれた同展(主催:財団法人文楽協会、土門拳写真展事務局)の図録(文:武智鉄二 構成:田中一光 編集・発行:土門拳写真展事務局 制作:駿々堂)だ。昭和47年に大著『文楽』(土門拳「文楽」+武智鉄二「土門拳文楽 その背景」の2冊セット)が、同じく田中一光の構成で駿々堂 から刊行されている。

人形の面、人形師や三味線方、人形遣いの手や腰周りのアップから、組み立て中の大道具部屋、舞台など、全体のおよそ9割がどっしりとした土門拳(1909-1990)の写真だ。いずれも、左右162ミリ×天地257ミリ中、下部47ミリの墨ベタに、ちょっと平たい白い文字でごく短い説明がある。全体に黒っぽいけれど黒々と刷ってやるぞというのではなくて、写真の白黒のグラデーションが紙にしっとりしみ込んでいると感じる。見返しはレザック66、それに表紙カバーをノドまで折り込んだ簡易な造本で、糸綴じなのでよく開く。4枚ごとにノドにあらわれる綴じ糸の白は、人形がかぶる手拭いのほつれや手足を吊るひも、衣装の柄や三味線の弦に同期して邪魔にならない。

「文楽私語」と題された土門の文章もいい。特に、舞台にかぶりつきで仕事をしながら聞こえてくる、浄瑠璃の語りや三味線の掛け声など人形芝居に必要なもの以外の音の蒐集がおもしろい。チョッという舌打ちは後見を呼ぶ音。立廻りで互いの調子をとるための人形遣いのスウスウという長い呼吸音。引込みで太夫に合わせて思わず人形遣いからもれたハアテレツクテレツク、スッテンテン。人形のもみじ手が屈伸するたびにたてるカチカチや立廻りで頭がふれて出るゴツンゴツン、等々。土門には人形そのものも、ほかの仕事人と等しく見えていた。〈浄瑠璃や三味線や下座が、それぞれの専門部門で、深奥な技術的展開をとげているあいだに、人形は人形で、また、独特な絵画的形象美の完成への道を、ひたすら突き進んでいたと言えるのである。そうだからこそ、写真の世界にも、被写体として、完全にはまりこむことができたのであると、私は考える〉。

よほど文楽座を懇意にして土門の撮影は始まったのだろうと思いきや、芝居の世界は初めてで、緊張のあまり神経衰弱になりそうだったそうである。昭和16年から2年余、〈ぼくは心のふるさとへ帰るように、日本の古典、弘仁彫刻と文楽人形浄瑠璃の撮影に没頭した。昭和16年12月8日、対米宣戦布告の号外を見たのも、大阪四ツ橋の文楽座の楽屋だった。留守宅に赤紙がきてはしないかと、いつもあやぶみながら、空きっ腹をかかえて、旅をつづけていた〉(『古寺巡礼』第1集)。

昭和18年、土門は文楽座の座員に「文楽座員調査表」なるものをガリ版で刷って送る。添えた趣意書には、進行中の撮影は本にまとめること、そこに座員全員の顔写真と芸歴をのせたいことが書いてある。そして――。〈大体自分の生まれた年や師匠など判り切っていると思い勝ちですが、それは生きている自分だけの話であります。五十年とたたない明治時代の有名な名人上手の人達でも今ではどこの生まれやら、いつ生まれたのやら判らなくなっている人が多いです。こういうことは生きている人を生きているうちに本人も他人も祖末にするからだと思います〉。調査表はほぼ回収し、翌年の暮れには6000点余りのガラス乾板を土門の自宅の防空壕に運んで埋めている。さらに翌年、大阪にあった文楽座の本拠地は空襲にあい、多くの資料や人形が、土門の写真の中だけに残された。

新年の雑記

大野晋

新年あけましておめでとうございます。
新しい年を迎えるにあたって、思い浮かぶことをつれづれと書いてみます。

まず、今年は3年の移行期間を経て、国産のワインに関する呼称ルールが正式に施行されます。簡単に言うと、より葡萄の産地について厳密になり、他の産地の葡萄を使ったワインを売れなくなります。日本のワイナリーは農地法の影響で、戦後、自前の葡萄農場を持てなかったために、長らく農家から買い付けた葡萄を使って醸造してきましたが、この結果、葡萄産地とワイナリーの所在地の乖離が起きてきていたのを適正化しようという流れのように思えます。ま、この辺の話は以前しましたね。

こんなことを考えていたら、他の酒類はどうなんだろうか?と気になりました。まず、日本酒はワインと同じ非蒸留酒です。米の種類による味の違いはあるのですが、それよりも、醸造法や精米率、そしてなによりも水の影響を強く受けます。要は農産物のできふできの影響はあまり受けません。このため、ワインのような原料の産地表示の規制はあまり意味はないかもしれません。

蒸留酒であるウイスキーは原料の影響よりも蒸留方法や長期熟成することから熟成時期の貯蔵地、貯蔵法の影響を強く受けます。なんといっても、現在、日本で作られるウイスキーはほぼ100%が輸入原料から作られています。しかも、ウイスキーの特徴でもあるピートによる燻蒸も実は輸入時に原料会社の方で実施済みのものが輸入されてきます。まあ、原料産地の規制はあまり意味がないかな?

焼酎も蒸留酒で、ある程度の期間の貯蔵熟成することから原料産地の影響はそれほどでもないですね。泡盛にいたっては、原料はほぼ全量が海外から輸入したタイ米です。

ということで、ワインはやはり特殊なようです。葡萄の品種、その年の気候条件、栽培条件で出来不出来が左右されるワインはやはり農産物としての要素が強いのでしょう。

さて、寒くなるとなんとなく、新美南吉の「手袋を買いに」が気になってきます。なんと言うことのない童話なのですが気になって、青空文庫にすぐに登録しました。ツイッターを見ていると、多くの人がそれを読んでいてくれるようで嬉しく思います。悪い経験からの大人の思い込みと純粋な子供の体験。どちらも大切なのですが、時には大人の常識を子供の体験が崩してくれることもあると気付かせてくれる物語だと思います。

小学生の頃、片親だった私は、常日頃、自分の読む物語には普通に両親の揃っている家庭が出てくることに不思議な感じを持っていました。今では、片親だけの家庭の話もたくさんありますが、その当時はハンを押したように、主人公にはお父さんとお母さんがいたものでした。そんな時に読んだケストナーの「飛ぶ教室」などの本が当たり前ではない家庭の話として、新鮮で、心が落ち着いたものでした。日本では色々なところにタブーを作って、自分で口を噤んでしまいますが、子供にとっては包み隠すことのない話も大切なのだと思います。

さて、新しい年にはどのような事件が起こるのでしょう。個人的には、今年はきちんと写真を撮りたいと思っています。時間ができるように整えたり、新しい機材も欲しいですね。そして、つれづれと文章が綴れれば幸いです。

立ち止まって

高橋悠治

2015年に石田秀実の「Frozen City II」をパイプオルガンの3段譜のまま弾いてみたがうまく行かなかったので 2段譜に書き直してみた ずっと鳴りつづけ 拍を刻む一つの音に対して 他の音が点滅し 空間をしばらく照らし また消えていく 風景がすこしずつ移り変わる 低音が持続する上で和音の柱が移動する伝統的なスタイルとちがって 高音の持続するリズムに誘われて出没する音の群れは 前面に出てメロディーを作らず 一つの音に影を落とし こだまの深さを変えていくように感じる 二つの手とペダルの余韻の変化で どこまでできるだろう

12月には芦屋美術博物館の「小杉武久 音楽のピクニック」個展を見に行って 思いついたことをすこし話した 『点在 interspersion』という作品群がある 異なる周期のパルスの群れ 空白の多い時間は リズムパターンを作らない ひとつひとつの周期から 全体として不規則なずれが生まれる 耳を近づけると 小さな音の点が見えない空間をかたどる

『Anima 7』では 日常の一つの動作を極端にゆっくりおこなう指示 たとえば 上着を脱ぐのは数秒でできるが それに10分かけてやってみるとき 何を感じるだろう ゆるみ崩れていく内部の感触 それを見ている身体には 何が起こるだろう 近くにいるというだけで ちがう内部感覚が起こるのに身をまかせている と言えばいいのだろうか

1969年から1972年まで続いた「タージ・マハル旅行団」の時期の記録を見ると 数人の即興演奏が一つの音楽になるのではなく その場その時にいて それぞれがちがうことをしたり しなかったりする そういう身体の配列があるだけだったように見える それは音楽がいままで知らなかった空白の領域だったのか それとも はかりしれない世界のひろがりと 予測できないできごとの起こるなかで 声の糸を織り合わせて共感のなかにやすらごうとするそれは ほとんど忘れられた古いやりかたなのかもしれない 

これから2018年のためにいくつか作曲をして ピアノも練習しなければならない いつでも 何かを始める前には ためらう時間がある おなじことをくりかえすのはいやだから 本を読んだり 他の音楽を聞いて ぼんやりしている やがてそれも居心地が悪くなると しごとにもどってくることになる いままでともちがう 見聞きしたものでも充たされなかった なにかが兆してくればいい どこにでもあるようで どこにもまだないもの 全体の計画もなく 理論も設計もなく 方向も軸もない 測ったり数えたりする尺度もない ひとりでに生まれてきて どのように作ったかも説明できない音楽 説明のいらない楽譜 そんなことをいつも思っているが どうしてもそこには届かない