『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』 藤本和子編

藤本和子による解説
 目次
  


1 過去を名づける


2 たましずめの歌

3 喉をつまらせている女たち
『死ぬことを考えた黒い女たちのために ヌトザケ・シャンゲ』より

4 新たなる沈黙に声を


5 衰弱そして再生

6 体験の存在空間

7 反悲劇

喉をつまらせている女たち『死ぬことを考えた黒い女たちのために』ヌトザケ・シャンゲ


  泣かないために 踊る

 詩は時期を得て生まれるもの、とシャンゲはいったが、そのシャンゲの『死ぬことを考えた黒い女たちのために』のニューヨークにおける上演を、黒人女性のフェミニズム運動の重要な転回点とミシェル・ウォレスは考えている(次回配本『強き性、お前の名は……』)。一九七五年十二月の「ドゥモンティズ」や、一九七六年六月「パブリック・シアター」での上演の頃。
 ちょうどこの時期を背景にして、トニ・モリスンは『ターベイビー』を書いた。『ターベイビー』は一九八一年に出版されたモリスンの最新作の小説である。その第七章の書き出しは、『死ぬことを考えた黒い女たちのために』を貫いている緊張、声をあげて泣くまいと耐えている若い女たちの張りつめた感性のこだまのように、打ち鳴り、響く。

ニューヨークの黒人の女たちは泣いていた、そして彼女らの男たちは右を見ることも左を見ることもなかった。ぼんやりしているからでもなく、目の前のものに気をとられているからでもなかった、ただ泣くのを見るのがいやだったのだ。ぴっちりときついジーンズにからだを二分されて泣いている女たち、高い高い踵の靴の上で金切り声をあげ、編んだ髪と、その髪を止めている蛍光色の櫛がひきつるのにじっと耐えているのを見るのがいやだったのだ。そう、たしかに、彼女らの口にはプラム色の口紅が厚く塗られ、眉は細く晴れやかな一本の線だったが、何も彼女らが泣くのを止めることはできなかったし、何も彼女らの男たちが右を、左を見るようにしむけることはできなかった。彼らは陰茎をビキニショーツに押し込み、シャツの衿を乳首まで開けていた。けれども彼らはじっと前方を見つめたまま、爪先立って町を歩いていた……

 ニューヨークの『死ぬことを考えた』の上演をコーヒーハウスで、「パブリック・シアター」で、そしてブロードウェイの「ブース・シアター」で観たのは、モリスンの小説のページの上に、泣きながら姿を現す女たちだったのだ。黒いことは美しい Black is beautiful の標語は人びとを力づけもしたが、アフリカ風に髪を編んだ、きつくきつく編んだ彼女らは、いまや「美しい」とされることになった美しさの下で、泣いていた。男たちはそれを見て見ぬふりをしていた。「男らしさ」が、「男らしさ」の栄光がいわれ、乳首が見えるようにシャツの衿を開けて着ていた男たち。ブラックパワー運動はとどのつまり、黒人の男たちが自らの性器に革命をたくそうとしたものにすぎなかったのではないかという意味のことを、ミシェル・ウォレスはいっている。女たちはその頃、新たなる沈黙、さらなる孤独の中に置かれるようになっていたと。黒人の運動とは、まず民族全体の解放を第一にするのだよ、敵が誰であるか忘れるな、それに黒人の男から男たる所以を奪い続けてきた白人社会にあって、おまえたち黒人の女たちもまた、おまえたちの男たちを傷つけてきたのではなかったか、白人がおれたちを去勢するのに力を貸したのではなかったかという糾弾の言葉に、女たちは耳を覆った。黒人の女である、ということについて考えることは、黒人社会全体の解放という大義名分にとっては余剰のこと、時期尚早の贅沢ではないかという疑念にこづきまわされ、「性悪な」とか、「ふしだらな」とか、はたまた「強靱にして勇敢な」というわけのわからないレッテルに傷つけられていた彼女らは喉をつまらせ、ひきつる頭皮に耐えていた。
『死ぬことを考えた』は、その彼女らに、黒人の若い女性に、一つの声を与えたのである。つまる喉を開き、締めつける衣裳からその肉体を解き放つべく。死ぬことを考えた黒い女たちの歌を――

誰か/誰でもいいから
黒い女の唄をうたってほしい
彼女じしんを知るために
あんたを知るために
彼女を明るみに出せ
でも彼女のリズムをうたえ
その愛と/たたかい/苦難を
彼女の人生の唄を
だってもう 死んでから ずいぶん長いことになるのだもの
沈黙の中に閉じこめられてから ずいぶん長いことになるのだもの
………
メロディの誕生をうたえ
彼女を生まれいでしめよ
生まれいでしめよ

「長い沈黙に閉ざされてきた」彼女らはまた、「少女時代を持たなかった女たち」である。思春期という言葉を使ったほうが正確かもしれない。いうまでもなく思春期とは、一つの社会的身分を表す言葉としては産業革命以後の用語で、それ以前は子どもたちは子どもから成人になり、子ども時代が終わるとすぐに責任を持つ労働力の一部に加えられたが、工業化社会では、子ども時代と青年期の間に社会的身分でもある思春期をはさむことになった。猶予の期間である。わたしたちはすでに猶予期間としての思春期を、いったいこれは何だ? と疑ってみることも少なくなったから、『死ぬことを考えた』の冒頭の言葉にも、特別の注意を惹かれず見逃してしまうかもしれない。

少女であったこともない女の
女であることについての暗い言葉

 猶予の期間もなく、突然に子どもから女にされてしまう。不意打ちを食らい、息を呑むと、次の瞬間には女になっているのだと。これはシャンゲだけが勝手にいっていることではない。現代の北米の黒人女性作家の先駆者というべきゾラ・ニール・ハーストンは一九四二年に出版された自伝の中ですでにそのことを書いていた。彼女は幻を見て自らの将来を予見した時に、「わたしの真の子ども時代は終わってしまった」と記しているが、そればかりでなく、現実の生活でも、母親の死後、家を出たハーストンはわずか九歳だったが、その時からすでに掃除婦、子守りなどをして自活しなければならなかった。子どもであり同時に女であることについて、彼女ははっきりと意識していた。それから四半世紀たって、マヤ・アンジェルウはその自伝で八歳の少女であった彼女が自分の母親の友人に強姦されたことを語った。そして彼女は「わたしは八歳だった、そしてもうおとなだった」と書いた。アンジェルウはその後アーカンソー州スタンプスの祖母の家へ帰るが、そこでは少女期の無知という綱渡りをしてみたい、「完全な自由というものの耐えがたいほどの美しさと永遠の不決断というものの脅威」を経験してみたいと願うのだが、すでに「無知」の贅沢は彼女の手の届かないところへいってしまっていた。トニ・モリスンの『青い眼がほしい』の少女たちの少女期も短い。
 そのことはしかし、悲惨であることだけを意味するわけではない。ゆったりとした思春期を素通りして早くおとなにならなければならないことの中には、家族の関係の緊密さや、相互に対する責任感の培養という要素も含まれているのだ。差別の対象となった共同体が身を守るために育ててきた伝統、というだけでは不十分である。もっと遙かな源泉から、文化の遺産から、受け継いできたものでもあるのだ。いずれにしろ、共同体は成熟した意識、おとなのような力、自立を子どもらに要求してきた。
「批評家の多くは――しばしば否定的なものとしてだが――黒人女性が若くして引き受けることになる女としての地位を素早く見て取り、そのことを指摘する。だがおとなのそれのような責任と、感受性と好奇心の特別な混合が、黒人の女性を永遠に若々しく、活気にみちて創造的な者たちにしていることに気づいている著者はほとんどいない」とメアリー・バーガーは「黒人女性の自伝に見る自己像と民族像」という文章の中で述べている。(『堅固な黒い橋――文学に現れた黒人女性の視点』アンカー版)
 この発言は、おとなのそれのような責任と、感受性と好奇心のある特別な混合に、ゆたかさが、ゆたかさの可能性がひそんでいることを指摘している。奪われた思春期、欠乏としての少女期という視点からのみ、早くおとなにならなければならないということを考えてはならない、ということ。内側から少女たちをふくらませていく力となる責任、早くやってくるさまざまな経験。肉体はすでに成熟しているのに「生活」はおあずけにされている「恵まれた」白人の少女たち、いや、日本の多くの少女たちのことを、反対側にあるものとして考えてみるといい。
 しかし、勿論、「少女であったこともない女」たちの生を、わたしたちの都合に応じてロマンチックに眺めるのはよしたほうがいい。それは便宜上の指標として利用されることはできないのだ。なぜなら、わたしたちには許されているかに見える思春期がたいして快適でも甘くもないように、「少女であったことのない女の」少女期もまた両刃の剣のように油断できない時間なのだから。さもなければ、シャンゲはなぜ、

少女であったこともない女の
女であることについての暗い言葉

 と書き出さねばならなかったのか。そしてモリスンのニューヨークの女たちはなぜ泣いているのか。

 新たな民族主義の時代がやってきたのだ、と誰もが思っていた時に、じつは女たちは「新たなる沈黙」と「さらなる孤独」の時代を迎えたとミシェル・ウォレスが主張した。それは「わたしのことを語るものはいないのか」、「わたしのことを語る言葉はどこにあるのか」と喉をつまらせた女たちが語り始め言葉を生み始めた転回点の到来でもあったのだ。
 黒人の女たちが自らを語ってこなかった、というわけではない。五十歳になったモリスンがすでに『青い眼がほしい』『鳥を連れてきた女』『ソロモンの歌』『ターベイビー』などを書いたことだけを考えてみても、そのことはすぐにわかる。けれども、同時に、たとえばモリスンが「わたしは口承の伝統の最後の世代」ではないかと語るように、語る方法や能力において、どこかで断絶や衰弱が起こっているかもしれない、と考えることはできるだろう。語る技を育ててきた土壌が変質しているということだろう。モリスンが「記憶できないほど愚かになったから書くのよね」といったことの意味合いは、そういうことに違いない。モリスンはあるインタヴューで、「場」ということについて語っている。

……わたしは自分がアメリカ人だとか、オハイオ人だとか感じたことがない。ローレンの者だとさえ感じたことがないのね。市民である、という感じを持ったことがない。けれども……(中略)……場所ということについてはいつもとても強い感情を抱いていたの。国とか、州とかいうことでなく、共同体や町についての細かいこと、雰囲気、手ざわり、ということで。最初の作品は明らかに自伝的な題材を直接土台にして書いた。わたしがあの町を創り出したわけじゃない。そこに住んでいた時より、いまのほうがあの町はわたしのこころの中で輪郭がはっきりしているの。十七歳の時以来、もうあそこに住んだことはないのだし。こういうことの一部はたしかに、女性に特有の、「場」に対する感性なのかもしれないけれど。家の中にある物との関係が、たとえばわたしの兄や父のそれ、息子たちのそれとは違っていることがある。片付けたり、動かしたり、そして「場」というものの中で、ひどくこまごましたことをするわけでしょう。――根をはやしている、といったらよいような……

 このような体験に対して、シャンゲたちは移り動くことをむしろ生活の土台にしている。都会の生活を原体験としてきた世代。モリスンは一九三一年生まれ、シャンゲは一九四八年生まれだ。気質にも変化が生じた。悲惨も栄光も同時にあったモリスンのオハイオ州ローレンは、シャンゲたちの時代には閉ざされるトンネルのハーレムになった――

かつては世界にいて
世界に住む一人の女だった
世界に対して権利ももっていた
けれども 罠の待ちうける
ハーレムに引越した
それが宇宙
残酷の六ブロックが
折り重なる
トンネル
出口が塞がる

 世界であった「場」はいま地獄なのかもしれない。「以前にはね、黒人に出会ったら、それが誰だって安心だった。黒人を泊める宿のない町へ旅したら、電話帳で黒人の教会を調べて、その牧師のところへ行く、必ず泊めてくれたし。汽車に乗れば、ポーターが上等の食べ物もくれて。夜のひとり歩きだって、不安はなかった」というのがモリスンの若い頃の体験であるのに対して、青いドレスの女は、「やさしくするとひどい目にあう/往来でのありふれた美しさも微笑も/ただの罠だと思われている」煉獄にいる。そういう彼女らの世界を誰が語るのか。『死ぬことを考えた』は、モリスンが感じているような直接的な連続の意識を持つことが困難になっていた女たちのための、一つの声だった。黒人が自らを積極的にブラックと呼ぶことによって、アフリカ系アメリカ人であることを生命力にして生きるのだ、という決意を表したと思うのだが、シャンゲがわざわざこの舞踏詩の題を for colored girls としていることは注意を惹く。それは黒人《カラード》であり、女であることから、輝かしい黒人《ブラック》であり、女であるとなるまでに、彼女(ら)が踏み歩かなければならないと感じた距離についての覚悟を表しているのではないだろうか。

何も聞こえない
狂おしい叫び声と
死のやさしい旋律のほかは
あんたは約束したのに
約束したのに……

「カラード・ガール」であり、しかも同時に悲しいなんて、あまりに過剰じゃないか、あるいは息をしていて、女であって、同時に「カラード・ガール」であるとは、形而上のジレンマだ、と彼女らは感じた。「カラード・ガール」が「負」の存在を意味するのなら、「正」であるはずの「ブラック・ウーマン」へ到達する道程を測定しなければならないと。
 だがそれは、個の人間としての自由の獲得であるとか、平等なる権利の獲得という図式的な「前進」、「意識の向上」なのか。線的に前へ行くことか。
 それとも――。

何かが足りないのだった
とても大切な何かが
約束されたはずの何かが
そっと置かれる手
額のすぐ傍にある指
強く
冷んやりとして
動いている
まるごとのあたしにしてくれる

 そうだ、そっと置かれる手はどこだ。太陽が焼け焦がす畑で労働した、深い皺の刻まれた、乾いた羊皮紙のような祖母の手がかつて、泣いていた若い娘たちの頭の上に置かれ、娘たちは癒された。「わたしたちは異質な一群の回路のより近くにいるのだと思う。都会的に洗練されきった連中が心理的にも知的にも混乱してしまうと、南部のふるさとへ帰ってみたりするのね。いなかへ。それはどういうことかといえば、先祖たちに触れてもらうとか、店舗を借りてやっている教会へ行って説教をきくとか、おばあちゃんに会いに行くとか、そういうことでしょ。おばあちゃんはその手をそっと頭においてくれる。癒してくれる」というトニ・ケイド・バンバーラの言葉はすでに繰り返し引用してきたが、シャンゲの女たちの舞踏詩の最終場面を理解する一つの手がかりにもなるだろう。おばあちゃんの手は、存在の根のあった「場」と、語り継がれてきた言葉と、受け継がれてきた英知を象徴していた。いのちの連続を表していた。『死ぬことを考えた』は単に黒人フェミニズム宣言の舞踏詩ではない、名づけがたいものの記憶と体験を呼びおこそうとする、ある種の呪術的な願望をかくしているとわたしは感じた。
 なんだろうか、とわたしは考えていた。一九七七年にニューヨークへもどった時には、すでに『死ぬことを考えた』は「パブリック・シアター」から「ブース・シアター」へ移っていたのだが、それを観にいったわたしの注意を強く惹いたのは、黒人の女性の観客がとても多いことだった。彼女らが観客の大多数だった、といってしまってもいいと思うほどに。ブロードウェイの劇場で、そのような光景はめずらしいことだ。
 彼女らは舞台で起こっていることに、じつに生々と反応していた。「観客参加」などというわけのわからないものではなく、舞台に対峙して、賛意を表したり、時には異議申し立てをしたり、演じる女優たちを動かしていたのは彼女たちだった。
 その後二年余りもたってから、アトランタのバプティスト教会を訪ねたあとで、わたしはあの「ブース・シアター」が通常の「ブース・シアター」とは異なるものであったわけが少しわかったように感じた。
 黒人のキリスト教会は白人のそれとはずいぶん違う。とりわけ南部バプティスト教会やペンテコステ派教会などでは。彼らは第一、人間の罪深さについてとうとうと語ったりはしないし、神の子キリストを信じることで救われる、というテーゼにも熱心ではない。むしろ彼らの礼拝は全員が参加するドラマのように見え、説教や自らの信仰をあらたに確認した「証言」なども、いくつかのクライマックスをつくる「場面」のようなのだ。祈りや説教や証言の間には歌が入るが、小さな教会では、誰かが思うままに歌いはじめると、それに他の人びとも加わるというぐあいだ。そのような方法で新しい歌が生まれ、それがやがてその教会のスタンダード・ナンバーになっていく、ということもある。ミシシッピーからミルウォーキーへ移ってきた人びとが建てたある教会では、楽器の中にエレキ・ギター、ドラムスなども加えていて、すばらしいロックの賛美歌がきけたのだ――。
 そういうところでは、教会は共同体の成員たちの一週間のくらしの軸のように見受けられた。キリストへの愛が確認されるのではなく、むしろ日常の現実の残酷や重さやさらにこまごました生活の詳細を一気にとび越えて、人びとの内面と宇宙の精髄のようなものを連結しようとする場のようだ。それを共同体として行うこと、共同体として共有することで、個人が一つの力をそこから引き出している――。その力が、なんであるかは、わたしにははっきりわからないのだが、ただたしかに、ドラマチックな要素は共同体の浄めの式のような機能を持っているのではないか。不浄を浄める、ということではなく、むしろ生命の再生のためのエネルギーを内部に送り込むことで、肺が新しい空気でみたされる、というような儀式。祭式。ドラマ。
 そして顧みて思うのは、あの「ブース・シアター」の黒人の女性の観客の反応は、そのような教会の機能を喚びおこすものではなかったか、ということ。いうまでもなく、キリスト教の宣教やキリスト教会の黒人社会における設立以前の祭式伝統をつねにかくし持ってきた教会の機能という意味で。彼女らはすでにそのような教会からは遠去かってしまった人びとであったかもしれない、あるいは、教会には通っているが、教会はもうそういう力を彼女らに与えなくなっていると感じていた人びとであったかもしれない。いずれにしろ、彼女らの鋭敏な反応の示しかたは、この舞踏詩のテーマへの共感の表示と名づけるだけでは不充分な性格を帯びていた。かつては劇場ではないところにあった何かが、いま、かりに劇場に持ちこまれている、これは彼女らのすでに知っていた何かの再現、再生に近い何かではなかったか。共感というより、女たちの交感があって。テーマの同時代性、緊急性ということだけでは説明しきれない、集団の文化的な記憶の深みからやってきた「場」の共有。
 そして死ぬことを考えた黒い女たちは、

あたしはあたしの中に神を見つけ
そして あたしはあたしを愛した/あたしはあたしを激しく愛した

 と浄めの言葉とともに、それぞれニューヨークの町中へ散って行った。一九七七年ニューヨークでの彼女らの祭式はそういう形で顕われるしかなかったのかもしれない。
「そっと置かれる手が/あたしの神聖さを解き放つ」という言葉には、幾重にも意味が重なっていた。直接的には所有しない愛、自由にしてくれる愛、そういう個人から個人への愛を指しているように見えるが、その表面をひっかくと、その下にじっとべつの何かがひそんでいるのが見えてくる。断絶しかけている流れへの渇望。いのちの再生にかかわる力への渇望。「あたしたちは鬼なのだろうか? 恐怖の落し子か……あたしたちはケダモノ? 気が狂ってしまったのだろうか?」は修辞的な疑問文のように見えるが、おそらく正当な疑念をかくしてもいるのだろう。どこかで、何かが衰弱してしまったのではないか、と。
 始源の力を呼びもどすには、どうすればよいのか。先に生を受けた者たちの言葉に耳を傾け、語り継ぐ方法もあるだろう。けれどもそのような伝統や習慣や能力からすら遠くなってしまった者たちも現れはじめた。そのような者たちは彼らにふさわしい言語を発見するところから始めなければならない。その意味で『死ぬことを考えた』は特定の言語である。シャンゲやその仲間にとっては、自らの特定な言語を発見することは、「わたしの大腿と臀部の民族性を受け入れる」ということでもあり、彼女らはそれをばねにして肉体とこころを重ね、自己との和解に近づいた。そして、いうまでもなく、特定な言語とは、いずれは普遍的な言語に到達すべき前段階的な言語ではない。それは特権的なものであり、まさしくそのものの正当な存在理由と権利において尊重されることを要求するのである。


『獅子よ藁を食め』 朝日新聞社 1981年11月30日発行




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