音楽と旅と出会い


数住岸子


木の箱八幡東区天上界・人間界ポンティアックワカメと竹の子打楽器界の大ソリスト・吉原すみれ少しの距離猫たちへのレクイエムすばらしい星バケーション1バ ケーション2アラバマ95年夏の空UFO父の思い月を抱く少年たち岡山の白桃雲の上で恐怖という名の乗り物針の教え白馬の騎士冬の旅グランドセントラル・ステーション



  木の箱

私は5歳にしてバイオリンと出会った。初めてのボーイフレンド・ヒロシ君が、日課のザリガニとりに私を誘わなくなって久しいある日、わが家のお手伝いさん、チヨさんに、ヒロシ君に会いたいの、とでもねだったのだろう。チヨさんはスワとばかりに私の手を包みこみ、ヒロシ君ちの庭先まで私を連れていってれたのだった。
いたいた、ヒロシ君がいた。でも当のヒロシ君は私なぞには目もくれず、廊下に立って“何か”と熱心な闘いを続けている。陽光を浴びたその“何か”に私の目はくぎ付けにされた。チヨさんの大きな手が伝える安心感も、大好きなヒロシ君も忘れ去り、初めて見る木の箱をとてもきれいだ、と思ったのだった。“おねだりをほとんどしたことのない子が、あれを欲しい、あれがやりたいと泣いてねだった”と大人たちは後になって語るのだが。
かくしてザリガニとりもヒロシ君も捨て、木の箱にすっかり魅入られた私は、実に38年もの間バイオリンに忠誠を誓うことになった。ただ、ヒロシ君もいまだ独り者であるところをみると、幼いころにあのような美しいがん具を授かるのも考えものかもしれない。途中でバイオリンをやめたヒロシ君は、慶應大学を卒業して三越に就職し、バーゲンの度に私の母をご招待してくれる心優しい人に成長したが、私は他にこれといったとりえもない。
昔アメリカのインタビューで「次に生まれてくるとしたら?」と問われ、恥じらいもためらいもなくバイオリニストと答えていたが、今は秋の空をすいすい飛ぶトンボにでもなりたい、とも思う。楽器も音楽も、もちろん大人になるということも知らずしてザリガニとりに興じていたハス畑。あそこに飛びかっていたトンボたち。来世でもトンボになりたいあれが良い、と私は泣いてねだるのだろうか。(95.4.1)


  八幡東区

毎年3月の声を聞き始めると私は都心を引っ張り回される。何を隠そう、5月の末に八幡東区で行われる“響ホール・フェスティバル”の取材が始まるのだ。各新聞社・放送局での1時間余り、相手は変わるが、こちらの話は変わらず、一日中出て来る飲み物を飲み続ける苦しさも伴う。しかしこういう苦労も、5月のフェスティバルが始まると、きれいさっぱりと忘れてしまい、来年3月になると同じことを繰り返す。
フェスティバルに参加する演奏家・作曲家・裏方スタッフ総勢40名は演奏会の5日ほど前に響ホールへやってくる。中国・パリ・イタリア・ロシア・インドネシア・東京・福岡から、宿舎の九州国際センターになだれ込む。なだれ込んだ途端に楽器のケースが開き、部屋からは個人練習の音が流れる。そして連日、朝9時から始まる12時間のリハーサルに日々励み、遅い夕食を楽しむ。そこでは実によく食べ・よく笑い・よく飲み、ぐっすりと眠る。本番前の緊張をほぐす術はさすがプロ、といわせるものがある。フェスティバルは生活を共にすることが基本であり、朝食時の“眠そうね、夕べはよく寝たの?”という言葉で一日の幕が開ける。
普段、ソリストという孤独な生活重ねる演奏家たちが、精神(こころ)を安心してゆだねることのできる仲間と会うとき、実に子供のようなほほ笑みを浮かべる。彼らは、この人生が音と同じように一瞬にして消え去ることをよく知っている。同じようにこの種の出会いさえも。そしてその一瞬に存在のすべてを燃焼する祈りの集中力とエネルギーは、青い炎のように美しい。それは演奏家たちが帰路に着くための別離の時まで燃え続ける。
数時間後、私は皆のいないホールを歩き、暗い舞台に独りで立ってみる。何やら舞台上に昨夜までの音が響いてくるような錯覚に陥る。監督業もまた孤独な職業である。今年もまた、八幡東区の一画で、あでやかな音の祭典が市民と共につくられる。(95.4.15)


  天上界・人間界

先日響ホールフェスティバルの取材のことに触れたが、Y新聞のある記者から、数住さんの20年前のデビューを聞いた、と言われ一瞬ゾッとしたが、確かに日本のデビューから20年を数える。20年というと、ざっと7300日。一日延べ8時間の練習として、58400時間――はたして私は上達したのだろうか、そして人生に何を望んで、これだけの時間をひとつのことに賭けてきたのだろうかと、考え込んでしまった。
何の因果でこんなに苦しい練習を続けるのか、前世でとても悪いことをしたに違いない、と泣き泣き練習したこともある。それでもここまで続けてくると音楽の向こう側に、なにか光り輝くものが見えてくる。一生かかっても水晶玉の向こうに手が届くような名演奏は望めないが、近ごろ時折り舞台で、鳥肌が立つような美しさに包みこまれることがある。そして舞台に登った数十分前と“今”が明らかに違いをみせる透明な時間の流れを体得する。その中で、すっと、何かを考える。その間も腕は曲の通りに動き続け、呼吸は楽になる。音楽は形がないもの・消えゆくものだから、言葉にすることはとても難しく表現しづらい。でも練習では決してつくることのできない異次元の時間が舞台にはある。舞台上にて一段階上に登るとき、聴衆が同じことを感じるのかどうか疑問は残るが、聴衆があってこそ起こる、摩訶不思議な現象でもあり、神を感じる瞬間でもある。
仏教では六界を説くが、最高位と思われる天上界に居るよりも、人間界に居る方がよいそうである。なによりも人間とつき合える、そして仏の教えも授かることができるから、と聞いた。音楽も人の子である作曲家が書き、人の子である演奏家が奏し、人々が聴く。音楽もまた、人があってこそ輝くものだ。(95.4.29)


  ポンティアック

私が生涯で出会った恩師たちは、皆大変お洒落な方たちだった。
ある日、斎藤秀雄先生は、柔らかなモスグリーンの背広を召され「僕が背広を新調すると皆まねるんだよ。今日のこの色だろう、で僕は薄いグリーンのシャツに、濃い茶のネクタイをこうして合わせているだろう。ところが皆は真っ白のYシャツにブルーのネクタイなんかしちゃうんだね」と得意気に話していらした。ぜいたくはしないけれどきれいなものが好きだ、とおっしゃっていた斎藤先生の車は、モスグリーンのポンティアックだった。
20代後半で集中レッスンを受けたベルリンフィルハーモニーのシュバルベ氏も、一流という冠がつく審美眼の持ち主であった。私の滞在はベルリンフィル100周年に当たる春であった。師は、1日10時間の長く厳しいレッスンに耐え続ける私をふびんに思われたのか、そのパーティーへ私を連れてゆく、と言い張る。カラヤンもミッテランも来る、という華やかさに必死の抵抗を示す私。ドレスもない、という私を強引に車に乗せた氏は“まずドレスだ。黒。細身、背中が三角に割れている黒”とベルリン中のブティックを走り回った。そしてこの鬼才の集中力は、まさに5軒目にして“理想のドレス”を探し当てたのだった。しかしかたくななる私は勝利をおさめた。試着するとそでは指を隠し、丈はカミシモのよう。心から安堵する私と心から落胆する恩師。
それでもあきらめないのが外国人の外国人たるゆえん。“一昨日着ていたVネックの黒のセーターとズボン、うむ、それに妻たち(過去二人の妻たち!)に作ったショーメのネックレスだ”――数時間後、仏頂面をした私の首にショーメの絢爛たるネックレスが巻きついた。ああ、しかし女性のおん念の凄まじさ。一本は私の首を締め過ぎ、もう一本は私のアバラ骨に沿って落ち、中央に座すエメラルドは隠れた。
私がとんとファッションに疎くなったのも、恩師たちのこの種のプレッシャーのせいかもしれない。(95.5.20)


  ワカメと竹の子

私は料理をすることがとても好きだった。一度は結婚生活を体験した私が、あきもせず情熱を注いだのも料理だけだった。そんなある日、辻嘉一さんの料理の本を手にした。読むほどに辻先生が、“相性”を唱えられることに気付いた。――男女の仲もそうであるように、ワカメと竹の子も――などと記されている。恥ずかしさも手伝って、ふうんと軽く読みとばしていたが、思えば夫だった人の好物はすべて私の苦手とする物であった。玉子焼き・ミソ汁・納豆・ピーマンのカツオ節かけ・固めのハンバーグ・とろろ、と続く。
それでも私は、“結婚”というタイトルの責任の元に頑張った。山芋と向き合うときは、顔中かきむしりながら。ピーマンではマスクを着用。玉子焼きに至っては生玉子のにおいに毎日吐き気を覚えながら孤軍奮闘した。でも頑張りだけでは“好き”という域に達せない寂しい事実も知った。
先日ある方に、とてもおいしい中華料理をごちそうになった。そのとき春巻きからピーマンが顔を出していた。“うっ、ピーマン”とたじろぐ私に、“駄目なの? じゃ出せば?”といとも簡単に言い放たれた。相手の方が、ピーマンと私との長く深い歴史を知ろうはずはないが、嫌いな物への拒否権の自由性は、私に12年目のピーマンからの解放感を味わせてくれたのだった。
私のアメリカの古い友人は、結婚をして各色のタオルをそろえることを憧れとしていた。彼女は晴れて結婚を申し込まれた。しかも全色のタオルを大・中・小サイズをそろえられる余裕のある結婚だった。彼女はすべてのタオルを棚に収めドアを閉めた。そして“結婚とは何ぞや?”と問い合わせてきた。相談相手が間違っていたのだろう、彼女はそれからしばらくして「離婚したわ」と連絡してきた。
ワカメと竹の子の相性は半永久的に佳き物だろうが、人との相性ばかりは分からない。(95.6.3)


  打楽器界の大ソリスト・吉原すみれ

どの世界でも同業者の間に友情が芽生え、育つことは希有らしいが、音楽界でも同じことである。楽器が違えば仲が良いか、といえばそれもなく、やはりテンペラメントの激しい者同士、あまり長い時間は共に過ごせない。その中で、打楽器界の大ソリスト・吉原すみれさんとの仲は長い。
「ちょっとぉ岸子」「なにヨ」で、すべからく円満に事は始まり終わる、と思うのは私たちだけで、デュオコンサートなぞで共演する都度、二人のドスの利いたやりとりに主催者は震え上がるらしいが……。
あるとき、すみれさんが楽屋で聞いた。「チョットキシコォ、あんた練習以外になんかやったことあんのぉ?」「なんかってなによ?」「スポーツでも何でもいいから、ほかのコトよ」「うーん、馬くらいにしか乗れない」「馬? 馬ってあのウマ?」とここから独特のすみれ調。
馬っていうと私サ、昔ヨーロッパの大金持ちの夫婦と知り合いでサ、音楽会の後そこの家に呼ばれたワケ、そんでもって次の日馬に乗りましょって、妻が言うのヨ。初めてよ、はじめて。んで馬小屋行ってみたら白馬が二匹、え? 二頭? あんたうるさいわねぇ、何しろ白馬二頭いるの。私白いのが良いなあって思ったワケ。ところがその夫婦ったらサ自分たちで白いのに乗っちゃって人には茶色の馬。栗毛色? そんな高尚なんじゃないの、もっと汚い茶色、でサァこれが駄馬なの、駄馬! 初め動かないわけ。でやっと動き出したら今度は止まんないのよ、でサ森ん中走んのよ、夫婦? 夫婦は優雅に白馬乗って先行っちゃってて、私は駄馬で森ん中なのよ、そしたら木の枝がほおに当たり始めちゃってえ、どうしようと思ってるうちにサ、私、木にしがみついちゃって、そうよ、こんなに太い木、え? ヘルプミー、ヘルプミーって叫んだわよ!
先日舞い込んだハガキに、愛するキシコの文字が見え、だれ? と思いきや、やはり愛するスミレからだった。(95.6.17)


  少しの距離

日ごろテレビをいみ嫌う私だが、ある朝母の部屋のテレビから流れる声に足を止めた。そこには京都の僧が映っていた。
「禅を組むということは、座・禅と申します通り、ただただ禅を組むということなんです。いろいろなことは考えます。人間ですから雑念も起こります。……座禅というのは、体中の毛穴を開ききって大自然と一体になることをいうんです。例えば竹の林の中で座禅致します。そのときの竹の葉の香り、竹の葉ずれの音、そこに吹いてくる風の音、すべてに向かって毛穴を開ききることです」
座禅を語られる折の眼差しは、親が子を語るときのように慈しみ深いものであった。そして凛と響く声のありさまに、私はいつしかテレビの前に正座していた。
「悟り、とよく申しますが、悟りはないのです。人間である限り、煩悩は生まれ、悟りはないのです……、あるときたく鉢をしておりましたら、おばあさんが私の前にいらして頭を下げて去られました。しばらく立ちますと、何やら気配を感じます。それでその方向に目をやりましたら、先程のおばあさんが、こちらを一心に拝んでらっしゃるんです。そのお姿にああこれや、と思いましたんです」
われわれが大自然に向かう折、われわれは決して闘おうとも競おうともしない。仮に台風が来たとしても立ち向かう者はいない。向き合う自然を美しいとみなすとき、息をすることさえ忘れて見入る。そこでは自我というものを捨て去っている。芸術の尊さもそこにある。素晴らしい作品に触れるとき、自分が人間であることを一瞬忘れさえする。ところが対手が人間となると、途端に“なまっぽさ”が生じる。なぜ、自然の一部である人間に対すると、問題が起きやすいのだろうか。人間はとても美しい。創造物として何にも劣らないほど完ぺきで美しい。人間を竹林とみなし、吹き抜ける風の音をみなす、少しの距離が、相手の存在を輝かせてくれるのではないだろうか。(95.7.1)


  猫たちへのレクイエム

わが家の周りには猫好きの主婦が多い。カツラ・カスミ・アクビ・クシャミなどと命名された、猫たちの“天国”がある。もっともわが狭き庭に在する猫たちは、いっこうなつかず皆さんから“ゴン兵衛”と呼ばれている。だが最近猫の変死が増え、別天地にも異変が起こった。ある朝、1匹のゴン兵衛が、口から泡を吹きもだえ苦しんでいる。獣医先生に半泣きの電話をする私に、すぐ連れて来てください、と救いの声。ゴン兵衛は初めてその体を人に触らせた。病院では注射を2本。強心剤と解毒剤だった。1週間余の入院後、ゴン兵衛は助かったが、毒は中耳炎を併発し左脳をおかしたままとなった。
猫の変死事件の原因が、同じ毒であるかどうか明白ではないが、私は激怒の言葉の渦に埋もれた。しかし、価値観の異なる人々に幾千の言葉で訴えても、その言葉は通じない。現在、世界を騒がせているテロや貿易摩擦のたぐいも、言葉は行き詰まる。そして行き違いを生み、言葉の無力さはまん延する。同じ形をした人間との交流は消え、虚無感からの疲労だけが残る。
払っても払ってもわいてくる憂うつの雲を抱えながら、5月下旬に行われた響ホールフェスティバルでシンポジウム“東洋”を聴いた。そのときパネリストの人たちからこぼれた幾つかの言葉は、日本語への郷愁を呼び起こしたばかりか、聴衆のいずまいを正させた。それは個々の人の生きた言葉であり、多くの修羅場をくぐり抜けた言葉だった。聴き終えたとき、私たちは清らかさを手にした。
フェスティバルを終え、次のリハーサルのために帰宅した私は、傾いた首のまま兄弟たちと共にうごめくゴン兵衛の姿を見た。“猫に毒を与えないでください”と張り紙の言葉まで準備していたが、ゴン兵衛の生きる姿をみて、一生のうちに出合う動物たちを、できる限り慈しむことを心に決めた。無言の行為も、時には力強い言葉の一つとなるのではないだろうか。(95.7.15)


  すばらしい星

白昼夢という言葉はあっても、夜中夢という言葉は見当たらない。だが私が10代で見た夢はあまりにもリアルで、しかも数多くの精霊や神々との出会いがあった。私は日中、人々の織り成す出来事よりも、毎晩夢の扉を開けることに俄然重きを置いたのだった。
扉の向こうでは、全身藻ずくを衣とした海の精と出会ったり、自らを“神の使者”と呼ぶ、ワシともタカともつかぬ五羽の大鳥たちに“道”を示されたりもした。ある夜に出会った中国の不思議な仙人は中央に空白を残した蓬莱境の絵を示し、この一片を探すためのお前の一生だ、と私に言って聞かせるのであった。いずこからいらした方たちなのか存知上げないが、皆、迷える子羊である私の精神に“道”や“大切なモノ”を示してくれた。
私は根本的に、来世を信じてそこに夢を託せる者ではないし、宗教という人々のつくったものに狂言的に従順するものでもないが、大自然の一員として、生命や死や出会い、あるいは表裏一体の真理といった超自然現象への信仰心は強い。
ジャック・モノーというフランスの学者が、ミツバチの巣の六角形に着眼し、ミツバチの体毛の数がすべておなじであることから、必然と偶然の同一性を説いているが、出会いなどもやはり個々人が呼び、つくるものであり、その時期に必要な人と出会うものであるらしい。
10代の“夜の夢”で出会った精霊や神々のことを、長い間忘れていたが、振り返ってみると、その教えは人として生きることであったように思う。楽器を携え楽器をすべてとする以前に、人としてどのように生き続けるのか、その根本を説いてくれたのだろう。私は地球よりももっとすばらしい星がある、とひそかに信じるのだが、そこには私よりもっと上質な私が生きているに違いない。(95.7.29)


  バケーション1

私は楽器を置いて旅をしたことがない。仕事には旅がつきもので、バケーションや家族旅行、ひいてはヨーロッパ美術館巡りなどで寄り添っている人々をみると偉大なるひがみも手伝って“用もないのにご苦労な”と鼻先でけ散らしてきていた。
ところが4年前に響ホール音楽監督業なる仕事を引き受け、机上のキャノファクスPF60が夜半までカタカタと音をたて、電話は役所タイムで鳴りっ放し、の日常を迎えることとなった。そして容赦なく続く本番。そのための練習時間の確保。私の内的怒声がすさまじい叫び声を上げ始めたのを聞き、日本脱出を考えはじめた。チベット、ブータン、インド、なにしろ電話の音もファクスの音もない所への脱出計画。それから3年目の1月。ようやく暇は取れた。毎年飽きもせず“ねぇホンコン行きましょうよ、ホンコン”と誘ってくれる友にも恵まれ、1月よ1月。断固参りましょうよ、とまるで昔の労組のデモ隊のような声で決意宣言を果たしたのだった。相手は――残念ながら女性だが、向こうも同じことを思っているに違いないから、声を大にして残念! というのだが――響ホールのために働いてくれているマネージャーの一人、近藤恭代さんである。
折角だからインドネシアにも立ち寄って、と成田→ジャカルタ→バリ→香港とコースは決まった。さて、外枠ができるまでは及び腰で、それがみえてくると欲深くなるのが人間の常、とはいえ、われわれの欲の横たわるところは何といっても“食欲”。ジャカルタでは作曲家の友人に二人の胃袋のすべてを任せることにしたが、問題は香港。二人で行って何種類の料理が食せるか、という涙のでるようないじ汚さ。(もっともそれが二人の友情の基盤なのだが)どうしよう? どうする? ……夜半の電話相談は始まるのだった。(95.8.19)


  バケーション2

生まれて初めてのバケーション、生まれて初めてのジャカルタと香港。連れの近藤さんと香港の多種多様のメニューをこなすには、だれかを誘うのが一番だという結論に達した。“だれにする? えっ、男性? いやだ、面倒くさい、え? 男の人の方がよく食べる? 私たちよりも? そうなかぁ”と牛のヨダレのように続く夜中の電話。
普段デートなどとは縁遠い、不精者の私たち。その二人の魅力を足してみても、一、友情の域を出ず 一、食べることが好き 一、長いショッピングに付き合う 一、にっこり笑って重い荷物を持つ 一、どんな観光地にもついてくる、といった一大事のために動いてくれる男性がいるはずはない。結局、昨年離婚した大食漢のM氏にお電話することになった。
電話というものはどんなに恐縮してダイヤルを回しても呼びだし音に変わりはない。「おい岸子カンベンしてくれヨー、俺忙しいんだよー」の一言で私たち二人のバケーションの幕は開いたのだった。このような私利私欲の幕開けで始まる劇に成功の冠があろうはずはない。
案の定、ジャカルタに着き、たおやかな風土に染まり始めた途端、私はエビにあたり床をのたうち回り、近藤さんは次の日から胃痛で寝込んだ。しかしエビの毒にもだえながら、この苦しみが終わればジャカルタの自然や人と一体化できる、という不思議な確信が生まれた。そして日長一日、友人宅のソファで空を見つめる三日間、それはまさに別天地であった。
夕暮れになると荷台を引いてやってくるおかず売りと、そのベルの音。湿気の波に乗って聞こえてくる子どもたちの声。天空に向かってさえずり続ける鳥の歌声。そして夜のスコール。私の肢体から緊張は消え、熱帯の大気に五臓六腑が溶け込むような錯覚を覚えた。その体で練習をし始めたベートーベンが何と清澄で新鮮に思われたことか。そして私はやはりバケーションには楽器を携える日本人であり、生粋の東洋のバイオリン弾きであったことを、食当たり以上に肝に銘じ、このバケーションの幕は静かに降りたのだった。(95.9.2)


  アラバマ

古い映画となるが、アカデミー賞受賞作品“南部の歌”では、アメリカ南部の生活習慣が実に見事に描かれている。そのアラバマ州に、一時期練習所を借りていた。78年ごろのアメリカ北部は人種差別も減少していたが、南部アラバマでは有色人種への偏見が根強く残っていた。レストランで注文の品が来なかったり、何かにつけ“真珠湾のイエロージャップ”が話題となり、愉快な思いばかりではなかった。
当時の私は一日10数時間の練習を課していたが、アラバマの小さな田舎町は大森林に埋もれ、一日一度はそこからの誘いの声にひかれ、森の中の散歩という日課が生まれた。道沿いにはひと雨ごとにその果実を黒ずませてゆくブラックベリーの藪。その真紅の実がオニキスの漆黒のように光り始めるころ、白人は黒人の子たちにジャム用の実を摘ませる。一見楽な仕事のようだが、この熟した実はガラガラ蛇の好物でもある。黒人の子たちは手にしたバケツを棒でたたきヘビを脅す。シャラシャラッとヘビの尾の音。子供たちの目は凍てつき体は止まる。ガラガラヘビの血清がある病院までは車で3時間余、間に合うか間に合わないかの距離だと聞いた。音が去ると子供たちは一斉に動く。黒い手に転がりこむ黒い果実。その粒を口に含むとそれはいつか味わった、42年もののワインよりも豊饒に舌を包み込む。
私はヘビの心配のない乾いた道を散歩用に選んだ。ある日突然、回りの樹木の実が色づいた。杏の樹林だったのだ。夢のような色彩を歩くなか、20メートル程先に動きがあった。山猫か、と息を飲んで身構えた。それは頭上に美しいツノを誇る雄鹿だった。杏の実の色と鹿の茶、その甘く潤んだ目。私は一目で恋に落ち、雄鹿はそ知らぬ顔で悠然と杏の実を食べ始めた。いつか死ぬとき、人生の走馬灯が回るなら、杏の黄金色の空間に立つ雄鹿の姿を必ずやみることであろう。(95.9.16)


  95年 夏の空

夏の終わりは木曽福島で1週間を過ごした。木曽路の小さな町で音楽祭が続けられて21年を数える。木曽の昼は短く、青空には一片の雲もない。そして漆黒の闇のなかからみる夜空は、夏の星座表さながらで、いくつもの流星さえ認められる。その壮大な天空イベントをみつめていると、古代人が天空へ馳せたあこがれや畏怖の念が、自分のものと重複し、懐かしくさえある。
地球上にまだ人類がまばらであったころ、われわれの祖先は朝焼けを見て地球の自転を考えてはいなかった。また、流星を見て、地球との関連性を知ろうはずはなかった。彼らが日食やすい星を見た際の驚きはどれほどであっただろうか。そしてその畏怖を和らげるため、地球の各地に残された民話は誠に美しい。
あの高度な芸術的センスを現代に示すナバホインディアンたちは星の創造者を“黒神”と呼び、彗星を黒神のツバとみなし、神の種子を夜の空に運んでくる役目のものとしていた。
あるいはアマゾンのトゥカノ族は流星や彗星を天の性交の徴とし、その合体によって、肥沃なものが露となり地上に降る、と考えていた。1910年にハレー彗星が地球に接近した近代においてさえ、有毒ガス窒息死説がまことしやかに流れたという。そして、科学者たちは、“露となった肥沃なもの”と伝染病との関連を研究し続けてきた。すい星が放出した体積物の長い尻尾が、地球を通過するときに感染が起こる。それは地球外からの生物の侵略――の域となるらしいが、まさに科学が古代民話のロマンの影を立証し続けているようでもある。
科学は冷徹なもの、ときには無情なものとして扱われるが、われわれ人類の一寸先は永遠に無限であるという、絶対的真理への探究であり、人類の畏怖を取り除き、祖先の豊饒なイマジネーションへの賛同とさえなるものだ。古代からの歴史、宇宙、あるいはDNAなどに寄せる人々の熱き思いは人類の未来への一筋の希望を与えてくれる。(95.10.7)


  UFO

“キシコ? あなたはUFOを信じる?”デンマークの作曲家、イブ・ノルホルムが、コペンハーゲンでのリハーサル後、私に聞いた。ちょうど昼食どきで彼はサーモンとイクラのオープンサンド、私はヘリング(青魚の酢漬け)とクリームチーズ、をほおばりながらの会話となった。私は少しきつめのヘリングの酢にむせながら、“UFO? UFOは絶対に信じる”と強くうなずいた。ノルホルムは、本当に? とイクラをぼろぼろこぼしながら何度も聞き返していた。“つい3カ月前に超大型を見たばかりだから”との私の答えに、彼はサンドイッチを皿に置き忘れ、少年のような目で彼自身の体験談を語り始めた。
いわく、UFOのことを考え始めると、彼らは必ずやってくる、と言う。この間もね、と氏は続ける。友人と郊外のレストランへ車を走らせながらUFOの話に熱中していた。すると友人が“イブ、イブ”と空に向かって指をさし、口を開けたままぼう然としている。イブと呼ばれたご本人は、あっ、彼らだろう? と超然としたものだったらしい。そして二人はレストランでゆっくりと食事を済ませ帰路に着いたが、帰りもUFO同伴のドライブだった、とのこと。
私たちの昼食は長いものとなり、乾いたサンドイッチを冷たくなったコーヒーで流し込んだ。
私の見たUFOは円盤型であった。夜のやみを太陽のように照らし出す5個の白色の光線は目をつぶすこともなく、私は身じろぎもできない2時間を送った。それまでに何度も飛び火のようなライトの動きは天空にみていたが、目の前に、しかもあの大きさ――まるで未知との遭遇の映像のような物体――を見て何やらとても納得し、とても感動していた。
ただUFOの話はそれを見た人とすべきである。さもなくば私のように、岸子もついに狂った、と音楽界の片隅でささやかれることにもなる。狂ったと言われる方が幸福なのか、あのように美しい発光体を見ない人生が幸福なのか、それも近い未来に分かることだろう。(95.10.21)


  父の思い

映画好きであった父は、年端もいかぬ幼い頃の私の手を引き、ありとあらゆる映画鑑賞の同伴者としていた。おかげでスクリーンを通した大人たちの情感を垣間見、不可解な言葉への素直な質問を父に発することができた。ある時、隣の父を見上げ“浮気ってなあん?”と問うと、ニッと笑った父は外でご飯を食べること、と返した。なかなかの答えだった、と今になって思うが10代に入って古い恋愛映画に多く触れたからか、最近その種のものがうっとうしい。
とある雑誌の映画評論に、辻邦生氏が、孤独と恋について書かれていた。“真の恋は孤独なしには生まれない。恋が孤独から生まれ、孤独が終わるときに恋も終わるとすれば、夫婦愛は孤独を否定する意志に支えられて成り立つ。……夫婦をやめたから孤独になるのではなく、孤独をうかつに許すために夫婦は崩壊する”とあった。その通りかもしれない。ただ、孤独はそんなに危険なものではない。孤独はなによりも人を鍛え思考を誘う。そして、忍耐を体得させてくれる。
それにしても恋愛という環境で、二人が互いの孤独を沈黙の中で認めたり、その影からの緊張を共有するのもやっかいなことあだ。ましてや日常の場での“孤独への否定”となれば。仮に10人の子供がいても埋まらないものが孤独である。
孤独を含む諸々の問題を人が解決してゆくためにも他者の存在と人生という長い時間は必要となる。恋や愛といった状況下ではなく、他者とどのようにつき合うか、そのことの方が重要で難しい。つき合う相手の問題や孤独領域に踏み込まず、その相手を鏡とし、どう生きるか。それをテーマにした二人の関係性は果たして可能なものか。そして、それはどういう名称で呼ばれるのか、などと大阪へ向かう新幹線の中でうつらうつら考えた。
大阪は台風の影響で雨の降る一日だった。(95.11.4)


  月を抱く少年たち

ある日、響ホールの背景をつくる皿倉山に登った。頂からみる地形の複雑さは、実にさまざまは表情となる。気ぜわしく工場が群がる根元には、遠賀川がのんびりと横たわる。あの向こうは? と問うと、若松の入江が隠されていたり、あの辺りが門司、としたり顔をすると、いや、本州。と肩すかしに合う。スペインのカタロニア地方の色彩が多くの絵描きを出したように、北九州から数々の才人たちが生まれたのも、この不思議な地形が彼らの創作意欲をひろげたのではないだろうか。
この初秋、来年の響ホールフェスティバルの企画のために、幾人かの人たちにお会いした。そのご縁のなかで、とりわけ力強い印象を残されたのが、詩人・高橋睦郎さんであった。北九州に生まれ育った氏と食事を共にしつつ、その考え方を支える言葉の威力に圧倒され続けたが、何より意外に思われたのが、氏の多彩なユーモアだった。氏の絢爛たる風格の作品に接してきた私は、ある気難しさだけを予想していたが、このような愉快さもお持ちなのか、と驚きを覚えた。だがそれは、一期一会のひとときを、充分に充実させることのできる“達人”の域のものであろう。
響ホールも、数多くの才人たちの洗礼を受けるようになったが、なかでも大家の方たちがつくられる時間帯には、ゆとりと自在さがあふれる。音や言葉を通じ、個々の精神が時と遊び、聴衆の心とダンスを踊っているような豊かさを手にする。
あの初秋の夜、作曲家・高橋悠治氏の同席も仰いだが、天からの才を備えられたお二人が醸し出された光景は、まるで山合いの川で水遊びに興じる少年のような、自然体のありさまであった。私は一瞬、その上空にて、楽しげにまりを投げ合う天女たちの笑い声を聴いたような錯覚にとらわれた。(95.11.18)


  岡山の白桃

“大病”というものを知らずにきた私に、数年前腹痛が襲い続けた。勝手な素人判断で、胃けいれんと称し眠れない夜を過ごした。ある夜、公演先のホテルでの痛みはひどく、口から泡を吹き、さすがの私も救急車か? と考えた。かろうじて次の日の本番を終え、地元の医者へと走り、痛み止めを所望したところ、エコーをかけられ即入院、即手術の宣告。結果卵巣膿腫とわかったが、東京の先生いわく、“悪性だとそのままですので、これから手術までお好きな事をなさって下さい”との大宣告。フーム、手術までの10日間で好きな事。常々夢見ていた――岡山の白桃をイヤというほど食べること――も時期外れでかなわない。つらつらと考えてはいたが、危ない病を持っている事よりもやりたいことの無い自分が哀れだった。
それにしても人間、死ぬことを半分ほど宣告されて何かしろ、と言われても名案は出てこない、と腹を決めて手術前夜。またしてもの宣告。お別れしたい方には今夜中にお電話ででも。え? こんなに元気なのに?“私死ぬかもしれないの、サヨウナラア”と伝えて共に泣くような甘い知人は持っていない。“アラ ソーナノ デモ手術ハウケナサイヨ”と電話は切られるに違いない。
次の朝、移動ベッドの上でベン・ケーシーの主題歌を歌い、鉄色の手術室に入ると、若い麻酔科の先生が5回も! 注射を失敗して、まだですかあと患者の私に催促された。と、その話で見舞客を面白がらせたのは、3日後。土・日ともなると20人を超える見物人兼見舞客と接し、夜8時の消灯時間にはグッタリ。白い病室に所狭しと並んだ花に包まれる。次にこれだけの花に埋もれるのは葬式のときだろうなぁ、と奇妙な感慨にふけったものだった。そして岡山の白桃をイヤというほど食べる夢も、その後大病しらずの私のなかでまだ生きている。(95.12.2)


  雲の上で

人は二度死ぬ、と語ったのは確か寺山修司だった、人の心の思い出として残っている間は生き続けているということらしいが、残った者にとって、死はやはり大きな変化だ。
三大北壁単独登攀を達成した登山家・長谷川恒男氏と出会ったのは15年前となる。あるテレビ番組のパーティを中座し、下りのエレベーターの中で声を交わしたのが、長谷川さんだった。この番組への出演依頼を受け、参考のために見たビデオ映像の相手が、何と偶然、同じエレベーターで鉢合わせとなった。これを機に飯能の岩場でロック・クライミングを教わったり、登攀出発前夜の飲み会に誘われたりしたものだが、折々に長谷川さんが語ってくれた忘れ難い言葉を少し紹介しよう。
――登っててね、必ず一度は“落ちる”って思う時がある。落ちるって。でそれって、4級とか5級、初心者でも登れるようなやさしい場所で起こるわけ。指も足もこんくらいしか引っ掛かってないの、このくらい。2ミリ。で目だけ動かす。そうするとハートがふわぁっと見えるわけ、今までどこにもなかったヤツが2〜3メートル先に。そこに行き着くまでね、覚えてない。全く記憶にない。奇跡。神様っているなぁって思うの、そん時は。落ちるって思った時? 叫ぶの。落ちるなっ、落ちるなあ、って。落ちない、お前は落ちない、絶対に落ちないって――。
豪気だった長谷川さんも少しずつ変わってきていた。ある時、電話口でこうつぶやいた。“謝るんですよこのごろ。山に向かって、ごめんなさいって謝っちゃうの。山と一緒になれないこの体で、ごめんなさいって。”
ある冬の朝、長谷川恒男の訃報を知った。遺体はね、奇跡的にすぐに見つかったんですよ。山で焼いてやりました。と彼の妻は疲れた声で語った。それ以来、私は、山の遭難事故のニュースを読むことをしなくなった。(95.12.16)


  恐怖という名の乗り物

今月は完全なオーバーワークとなっている。1週間に2曲もの協奏曲に続き、3日おきの本番で、両の腕は肩からはずれたままの感じはするし、夜半は手の痛みで目が覚める。スケジュールを過密にしたのは、まさに自分の責任だが、仕事の話が起こるときは、やってみたい、と思うのだから仕方がない。ところが本番ともなると、その緊張感で世界中の暗雲を一人で担いだつもりにもなり、ため息だけが周りで響く。
こういう時は、冬眠中の熊のごとく、外出禁止令を課し、人とも会わない。するとテンションは高まり続け、何やら超能力の波にラジオのつまみが合ってしまうようでやりきれない。真のベテランというランクにたどりつけば、それを楽しみににも変えられるだろうが、まだまだ未熟者である。長年この波が生む“恐怖”という怪獣とも遭遇してきたが、その闘いに、時には白旗をふりたくもなる。何といってもこの怪獣、この世に存在するどんな姿のものよりも恐ろしい。そして本番前夜の夜半の数時間は、姿なき怪獣との対決のために費やされるのだ。
この緊張という怪物を退治するために何かを始めなければ、と真剣に考える。例えばスカイダイビング。あるいはスピードに挑戦。“F1”とまでは言わずとも、少なくとも自転車よりも速い乗り物を、この身に体得させる。そう、私だって自転車には乗れる。「えー、岸子さんと車? それってすごく危ないかもしんない。緊張には緊張を? うーんじゃあ、あれは? ほら、遊園地のジェットコースター! 遊園地ならどこでもあるし、全国遊園地巡り!!」天衣無縫のわが友は、しゃべり続ける。「でもお、岸子さん結局、そういう緊張が好きでやめられないんじゃないの? 毎回同じようなこと言ってるけど、いつも終わるとケロッとしてるじゃない。終わったらまた飲みに行こうよ」友情は、恐怖より強し。(96.2.3)


  針の教え

私が人を教え始めたのは、今から15年ほど前の広島だった。今より暇な時間が多く、数人の先生たちとローテーションを組んでレッスンをしていた。その中に当時5歳の男の子がいた。色黒ではっきりした強い目がある日私をにらみつけこう言った。「こんなもんいつでもやめてやる、バァオリンなんちゅうもんはオナゴがするもんじゃあ」と怒っている。それだけの理由か、と聞くと、痛いんよここが、とアゴを指す。じゃあ今やめれば、というと敵はたじろぎ唸った。“今?”“そう、やめるんだったらこんなもん早い方が良い。今やめようよ”。返事がないのをみて、君、男の子なんだからやめるならやめる、やるんだったら続ける。どっちかだね。数分後、唸りをやめた彼は宣誓した。名を、中野穣太という。それからの彼は素晴らしく伸びた。
ある時、彼の左手首が鶴の首のように出ていた。治しておくように注意して次のレッスン。完全に治っている。子供の指の筋肉は弱いのでどうしても他に負担がかかり手首が出る。これを治すのは大変だ。“よく治したねえ”と感心すると「先生これみてん、穴があいとるじゃろ。お母さんが針持つんよ。痛いよこれが」。針、針ですか、と仰天し母親を見ると「はい。言っても無理だと思いまして手首の出る位置に」との答え。毎日4時間ひざまずいて針を持った偉大な母は、学校の休みになると彼を上京させ、私との10日間を過ごさせた。“先生、先生”と読んだこと見たこと分かったことのすべてを私に話していた彼は、途中で進路を変更し、京大・慶應の医学部に合格した。そして近ごろ、彼は京大の教授連の性格分析を話してくれる。
一昨年暮れ、20歳になった当時の子供たちは広島の地で“先生と飲む会”を果たした。ちょうど20年前、恩師斎藤先生の最後のレッスンが行われた広島の地で、師の体を支えながら食事に向かった。奇しくも同じ道で、酔った生徒の千鳥足を再び支えながら、教えることは教わることだと知った。(96.2.17)


  白馬の騎士

今から8年前、私に甥っ子ができた。人見知りも知らないこの子の名は太樹という。そして私を岸子さん、と名前で呼ぶ。ある日子守を頼まれた私は、下北沢に太樹を連れてゆくことにした。当時4歳の太樹にとって電車での移動は珍しいらしく、すっかり興奮しながら「岸子さん、いつもはもっと遠くでバイオリンするんでしょ?」と聞く。そう、飛行機や新幹線に乗って、“旅”するの。下北沢で好物のワンタンを食べ夕食の買い物を済ませ帰宅すると、彼は得意気に胸を張った。太ちゃんね、今日下北沢に旅したんだよ、と。日常の場から離れることが旅、という当たり前のことを子供から教えられた。
旅は私の日常であり、送られてくる切符の時間と場所に動かされる。そしてその日の部屋はホールの楽屋となる。練習から解放される時間は移動中だけで、もちろんそれは、私の一番好きな時間帯である。だれにも拘束されない車中に身を置くと、元来白昼夢に浸る私は、必ず銀河鉄道を想起する。
いつぞやその夢見心地を破り、酔っ払いがからんできた。熊本から八代へ向かう最終列車の中だった。空席ばかりの車中で、男は強引に私の隣を空けるように命じ、席に置いてあった楽器のケースをこずいて動かした。酒のにおいと共に男はからみ始めた。ああ、うるさい、どうしてくれよう、と思い始めた途端、後ろの席から助け舟が動いた。本物のヤクザのお兄さんだった。今までふらついていた酔っ払いの肢体は宙に浮き、しばらくすると次の駅のホームに、ゴロンと降ろされた。無言で現れ、無言でコトを済ませた総身黒ずくめの白馬の騎士は私に、大変でしたねと声をかけて去ってしまった。いまだにその人の声が忘れられない私なのだ。旅は人の価値観を変えてしまうところに面白さがあるようだ。(96.3.2)


  冬の旅

この冬、東京は雪も少なく、ただ冷たいばかりだった。2月上旬に予定されていた北海道の公演旅行のため、私の暦は昨秋から“楽しみ”が消え去り、窓外に揺れる竹林の動きで、日々の風の強さを知るだけのものとなった。思い冬を引きずったまま、2月某日札幌を皮切りに釧路―弟子屈―湧別を、7泊8日で動く。北国の冬の移動はゆとりはあるが、一両編成の電車に立ち詰めであったり、バスに揺られて数時間であったりもする。着いた先の悩みは、室内の乾燥から楽器を守ること、食事の確保である。
レストランもない街並みを抜けてホールに向かえど「オーケストラ会員のお弁当の仕込み」で、“準備中”の喫茶店。演奏会直前の食事は、思考と指とを鈍らせる。そして、ちょうどその時間帯に運ばれてくるお弁当を横目に、最終日なぞはさすがに舞台上で目が回った。
海外も含み、津々浦々と回ったが、演奏家の舞台裏とは、おおむねこのようなものである。
しかし、平均的なこの旅は、作曲家柴田南雄先生と武満徹さんの死によって、この冬を忘れられないものとした。
この旅の初日、東京では柴田先生の告別式が行われていた。そして帰宅の翌日、武満さんの訃報を手にした。柴田南雄先生は昨秋、病を押して響ホールへお越しいただき、先生のお人柄と作品から多くの恩恵を授かった。そして武満さんには、来年の企画をお願いしていた。お二人とも、数々の偉業を残され、この地上から姿を消された。きっと今ごろ“まだやり残しがあるのになあ”とおっしゃりながら、そろそろ神様と楽しいおしゃべりを始めていらっしゃることだろう。
窓外の竹林に、今夜はぼたん雪が落ちている。これが忘れ雪となるのだろうか。春もそこまで来ているようだ。(96.3.16)


  グランドセントラル・ステーション

今年の初め、ニューヨークでのレコーディングの話が入った。急な話ではあるし、飛行機で15時間もかけて行くことはない。小田急沿線でなら、と断ると、伊勢原のホールが取れました、と言ってきた。
その時ふと、25年前、ニューヨークで地下鉄を乗り違え、スラム街をさ迷い、飛び乗ったバスでは小銭がないと、降ろされ、ニューヨークという大都市に半日余りのまれたことを思い出した。当時18歳の小娘は、1ドル365円で計算すること、郊外の下宿から迷わずに、学校やオーディション会場へ向かうこと、が精いっぱいであった。オーディションの結果は、人もうらやむようなものとなるらしいが、当の本人は、往路の心配で疲労困ぱいの状態であった。映画“恋に落ちて”で、ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープが劇的な再会を果たす、あの同じ路線の同じ車中で、25年前、私は空腹を抱え、情けなさに泣いていたのだ。
果たして、人生の夢とは何なのであろうか。バイオリンがもっと上手になりたい、という一心は、バイオリニスト、ソリスト、といったことにつながってしまった。そして25年前の漠とした夢物語は、以来、それを維持することによって手元に確かにある。しかし、バイオリンを持たない残り半分の“私”は何ものにも振り回されず、自意識により以上に惑わされず、起きる事柄を、私なりに不器用にとらえてこれただろうか。
夢や希望、という言葉が甘さや美しさをもたらすことはもうない。ただあるのは、今現在、自分に課している仕事を確実に終わらせ、他者とのかかわりにおいて、どれほどの自由性を得られるか、ということだ。
今までにもいろいろな岐路はあったようだが、その選択は“私”が行い、結果はそれ以上でも、それ以下でもないようである。人生とはつまるところ、“私”という実験の場ではないか、と近ごろ考える。(96.3.30)



「『岸子頌』響ホールの数住岸子」1998年6月1日発行より(初出「リビング北九州」) 




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