『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』 藤本和子

目次    


生きのびることの意味
――はじめに

接続点

八百六十九の
いのちのはじまり

死のかたわらに

塩喰い共同体

ヴァージア

草の根から

あとがき

生きのびることの意味 はじめに

 わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う。アメリカ的な病ともいうべき物質主義と鬱病に、わたしたちはまだ一度も屈服したことはない。物はいくら所有したって足りない。貧困のどん底にあるような黒人たちのくらしの心を占めたのは物への欲求ではなく、何かべつのことだった。多くの黒人にとって、それは名付けようもないもの。指さして示して、ほら、これだ、ということができないもの。人びとはそれを宗教的偏見だとか、フードゥーとかヴードゥーとかいろいろにいうわけだけど。とにかく、わたしたちにはある種べつの知性を理解する能力がある。
 ただし体験を言語化する言葉が見つからないことはしばしばあるのだけれど。

 作家であり、運動家でもあるトニ・ケイド・バンバーラがこのように語ったのは、ジョージア州アトランタの真夏の真夜中だった。蚊に刺された脚に、不思議な妖猫ともいうべき細長いからだの白猫が擦り寄ってくる。トニはひどく汚れたガラス窓を拭いている。さっきまで使っていたゴム手袋ももう棄てて、いまは素手で雑巾とアンモニア水を武器に汚れたガラスとたたかっていた。真夏のアトランタの深夜に。十数年前に別れた夫が明日訪ねてくるから窓ぐらい拭いておきたい、ということだった。
 わたしは、そう、この言葉を聞くためにアトランタまできてしまったのだと思った。――「わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う」ただし「体験を言語化する言葉が見つからないことはしばしばあるのだけれど」。
 わたしがアトランタのトニ・ケイド・バンバーラに行きつくまでに、すでに三年がたっていた。北アメリカの黒人の女性を訪ね歩いて話を聞こうときめたのは、『砂漠の教室』を書き終えたときだった。そう考えた理由はいくつもあったと思う。個人的な交友の中に強く惹かれるものがあって、この人びとの世界をつくり上げているものの正体は何かと興味を抱いたということもあった。同時代の女性作家たち、とりわけトニ・モリスンやアリス・ウォーカーなどの作品には、作家個人の創造性や真摯な態度の向こうに、これらの作家を衝き動かしている世界が、集団的な記憶が、伝統が、たましいの遺産が見えると感じられた。これらの作家に書かせているものの正体は何だろうか、と思った。昔はただ「うまいなあ」と感心して聴いていたアリサ・フランクリンの古いレコードを取り出してかけてみたら、それはまったく新しい衝撃だった。アリサとトニ・モリスンは正真正銘の姉妹なのだ。ニーナ・シモンとアリス・ウォーカーはやはり姉妹だった。
 どういうことなのか。
 手がかりは、たとえば、トニ・ケイド・バンバーラの「この狂気を生きのびることができたわけは」という表現にかくされているかもしれない。
 いうまでもなく、「この狂気」とは、黒人の北アメリカにおける歴史的体験のことである。アフリカからの離散、奴隷、虐待、蔑視、貧困。「この狂気」を生きのびることを可能にしたものは何だったのか。その力はどこからやってきたのか。

「わたしはね、それまで一所懸命探して、探して。わたしたちがこんな境遇におかれてなお、こうして生きのびてきたのはどんなことのおかげなのかと、それが知りたかった。長いこと、どうしてもわからなかった。でも、西アフリカの川岸で薪の束を頭にのせて運んでいた一人の細いからだの小さな女に会ってから、ようやくわかったの。
 あたしも薪束を頭にのせてみたい、といったの。やってごらんなさい、というから、地面に置いてある束を持ち上げようとしたのだけれど、びくともしない。頭にのせるどころではないわけ。そこでそこにいた白人の男性に持ち上げるだけやってもらって頭にのせよう、と思った。体重九十キロ、身長百九十センチの巨漢よ。彼はやってみたけど、やはり持ち上げることはできなかった。誰にも。女たちはその薪の束を頭にのせて、毎日八キロの道を歩くのだといったのよ――。
 しばらくして、わたしはそのことの意味がわかった。そう、そうだったのだ。だからこそ、わたしたちは生きのびたのだと。彼らは特別にすぐれているのだ。あの無惨な大西洋の連行の航海を生きのび、二百年の奴隷時代を生きのび、それからまたその後の百年を生きのびたのだから。それなら、あたしもきっとすぐれているのだ。個人としても、と思った。その時から、わたしはわたしの中にあるもののすべてと、気の遠くなるような連行の船旅と奴隷……の生活とその後の経験から残されたもののすべてとを結びつけて考えるようになったの」
 ここまで話してくれて、ユーニス・ロックハート=モスは喉をつまらせ、大粒の涙をぼろぼろこぼした。一九七九年の七月、中西部のミルウォーキーでだった。
 泣いてしまったことについて彼女は、「わたし、あのアフリカでの体験がどれほど深い意味をもっていたのか、忘れていたのね」といった。「あの瞬間はほんとに重要な意味をもっていたの。だって長いこと、とても長いこと、あの瞬間を求め、探していたのだから……誰だってそうだと思う。ポーランド人たちが集まってポーランドの踊りを踊るのだってそういうことだと思う」ユーニスは個人とそれを衝き動かす生命力の関係を、個人が生きのびる力と集団がもつ力との接続点が目の前にはっきり見えた瞬間のことを語っていたのだった。
 アフリカを訪ねた体験を、その接続点が見えた体験として語る黒人は多い。
 では離散からおよそ三百年、彼らを支え、生かせ続けたそれは、原初の形態からどのように姿を変えて、しかもなお息づいているのだろうか。
 それを知りたいと思ったのは、民俗学的な興味からではなかった。わたしは黒人が「生きのびる」という言葉を使うときには、肉体の維持のことだけをいっているのではないと感じていた。「生きのびる」とは、人間らしさを、人間としての尊厳を手放さずに生き続けることを意味している。敗北の最終地点は人間らしさを棄てさるところにあると。それは人間を家畜同様に、物と同じに扱う奴隷制の時代でもそうだった。『流れよ、ヨルダン河、流れよ――奴隷の築いた世界』Roll. Jordan, Roll : The World the Slaves Madeを著したユージン・ジノヴィージーは一つの「客観的な階級としての奴隷は、アメリカの文化全体を途方もなく豊かにすると同時に、一つの独立した黒人民族文化を創る基礎を築いた」という前提で、奴隷時代の文化をさまざまな面から検討している。もっとも苛酷な状況の中で、黒人は圧迫する目的で押しつけられたことがらに、自らの解釈を行なうことによってたえず逆転していたことが、生きのびる一つの力になっていた。
 その例としてたいへん意味深いのは、白人の主人たちが奴隷を所有しその制度を維持していくために安定した力関係が必要だと感じたとき、また奴隷制を正当化しなければならないと感じたとき、彼らはそのためのイデオロギーとして家長統治による家族制を思いついた。北アメリカ南部のこの家族制思想は絶対に相容れえない階級的葛藤と人種的葛藤を一気に整合させてしまおうとする意図から生まれ、人間が人間の存在そのものと労働を所有するという奴隷制の基礎原理を不完全ながらも偽装することになった。すなわち奴隷制度といわずに家族制度ということで、絶対支配と服従を正当化できると考えたのだった。このような関係には必ず残忍さがつきものである。にもかかわらず、アメリカ南部型の家長制度は、家長制というイデオロギーを持ち込むことによって、うかつにも結果としては奴隷の人間性を認めてしまったことになった。さもなければ、彼らの意図するところは、家長制度という相互に義務を負う関係の一形式として成立しないことになる。ジノヴィージーはそこで、

 かくして、奴隷は家長制度を、主人が意味したところの主義とは異なる主義として解釈する機会を得ることになった。それによって、その思想を、黒人にとって奴隷の身分であることは当然の条件であり、黒人は人種として劣る者であり、黒人奴隷たちにはいかなる権利もないという主張に対する抵抗の武器へとつくりなおしてしまった。
 そして、奴隷は家長制の精神を受け入れ、階級支配を正当とすることによって、奴隷制というものに暗に含まれている人間の非人間化《デヒューマニゼーション》に対抗するきわめて力強い防御の方法論を展開した。南部の家長制は階級搾取と人種主義を強化したという一面を持ちながらも、同時に、知らずして、その犠牲者に彼らが社会秩序について彼ら自身の解釈を形成する機会を与えてしまったことになる。奴隷たちは、屈従を保証する手段と見なされていた信仰をばねにして、彼ら自身の権利と、人間としての価値を発現させることによって、奴隷制の本質を拒否したのだった。

 ジノヴィージーの主張を日記や証言が裏付けている。白人の奴隷所有者たちの多くが日誌を残していった。彼らはしばしば「奴隷は子どものようなものである。わたしには彼らの面倒を見る責任がある。責任はひどく重く、わたしは夜もよく眠れぬほどいろいろ心配しなければならない」と書き、そのように心を砕く主人に対して奴隷は「子どもが父にするように服従すべきである」、それで何もかもうまく運び、「子どものような黒人たち」もしあわせになるのだと書き残していった。
 いっぽう、奴隷制が廃止されることになった時を境にして、かつての奴隷たちからの証言を聞き書として記したものもかなり多くある。ニューディール政策時代にも連邦政府が援助して記録されたこともあった。かつて奴隷であった者たちが、自らを、人間ではない、労働する動物、主人の意志のままに動くのが当然であるだけの立場にある者として語っている例に会うことはない。彼らの証言はつねに、置かれた状況と自らの人間性の衝突について語り、人間らしさを失わずに生きのびる細い道について語っているのである。
 奴隷の男たちは男としての責任感や誇りを奪われ、精神的に去勢され、だから解放後の百年も、彼らは家族や家庭に対する責任の自覚が持てない、だからスラムには母子家庭が多いなどと勝手に解釈して問題になったのは議会の「モイニハン報告」で、これは現在のスラムの現象から遡行して過去を推測し、しかも奴隷制の時代の法律と歴史的な現実をうかつにも同一視してしまった例だが、それ以前にも、奴隷には家族はなかったという神話(あるいは俗説)はあった。主人たちの気の向くままに売り買いされ、夫と妻、母と子、父と子はいつも切り離されていたのだから、と。奴隷同士の結婚も禁じられていたのだからと。だがそのような条件のもとでなお、彼らは家族というものを守ろうとした。脱走した奴隷についての調査はほとんどの場合、彼らが家族をどれほど大切に考えていたか、そしてそれが脱走の動機になっていることを明らかにしているとジノヴィージーは書いている。売られて別れ別れになった子どもたち、親たち、妻や夫を探し求めて、数多くの奴隷が脱走した。脱走の理由としては、主人による残虐な処罰を恨んでという理由が、家族に再会するためというのに続いていたという。
 彼らは条件が許せば核家族的な形態も維持した。今日でも、黒人同士、他人を「シスター」「ブラザー」と呼びかけることはいくらでもある。これは、親はよそへ売られて、子どもはそれまでいたプランテーションや農場に残していかなければならなかった場合、仲間の奴隷に、「子どもをなんとかよろしく頼む」といって去って行ったのだが、残された子どもらは、共同体の家族のどれかに加えられて、育てられた。そうした子どもらは、ともに育てられた子どもたちと、たがいに「シスター」「ブラザー」と呼び合っていたという歴史的な背景がある、ということである。単なる人種的な同胞意識だけで今日でもそのような表現を使っているわけではない。むしろ奴隷時代に家族という集団を守ろうとした黒人の努力は、解放後の家族の形態の基礎をさえ作ったようで、それが現在にいたっても生きている。大家族制、とはいっても、実際の用語は extended family で、日本語の大家族制が血縁、地縁を軸にした排他的なイメージさえおびた暮らしの形態とそれに伴う精神のありようを連想させるのに対して、extended family は文字通り家族の単位の範囲を大きく広げ開いた感じがある。ただし一般的に使われる学術用語としてはそうとはいえないだろう。文化人類学などでいう場合には、血縁を前提としていることがほとんどなのだから。ただ一九七〇年代においてすらいまだに、黒人共同体における extended family は血縁も地縁も超えるものだったのである。人種さえ超えるいきおいでもある。わたしだって、わたしのむすめだって、いざとなれば抱き込んでくれるだろうとさえ思える。
 明らかに、奴隷の時代の彼らが求め守ろうとしていたのは、日本語でいう「家」としての家族ではなかった。個が殉ずるものとしての「家」ではなかった。日本語の「家」にはそういう背景があるから、わたしたちはべつの結びつきを意味するとき、「マイホーム」とか「ニューファミリー」とかいわなければならない。「大家族」もまずいから、コミューンという。
 奴隷の身分にあった彼らが守ろうとしたのは、愛情の絆とたがいのいのちだった。しかもそれは開かれ広がりうる性格をそなえたものだった。
 労働についても、彼らは彼らなりの解釈をもっていた。奴隷のそれなら、労働も労働の成果も、奴隷を所有する主人にすべて帰属するのが筋だし、奴隷の生命を維持するための最小限のものを投げ返してやればよいのだと主人側は考えていた。(泥や土を食べた奴隷がいた、という記録があるから、最小限の物も投げ返さなかった場合もある。)けれども奴隷は彼らなりの労働倫理の体系をつくっていった。それはカトリックやプロテスタントのキリスト教の労働倫理とはまったく違っていた。黒人にとって労働は罰でもなかったし、救済への道でもなかった。彼らは必要なら仮病もつかったし、サボタージュもやったし、ストライキもやった。白人には自らを「怠惰な人種」と呼ばせ、それを逆手にとることによって一つの主体性を獲得したとさえいえる。彼らは自らを怠け者として歌にまで歌った。『流れよ、ヨルダン河』からの孫引きだが、

とうもろこし畑に寝ころんでりゃ 黒人どもは しあわせ
夕食を告げるあのつの笛が吹かれりゃ 黒人どもはしあわせ
夜がくりゃ もっとしあわせ
見ろよ おてんと様が傾いた!
牛もでっかい鈴を振り鳴らし
露もおりたから
蛙もでたぞ

「おれたちゃ……」と彼らは歌わず、「黒人(nigger)どもは」と自分たちを客体化して、その「黒人ども」は労働が神聖であったり、神から下された天罰だとは考えていないぞと歌っている(彼らは彼らが奴隷であるのは罪の深さに対する神の罰なのだ、黒人は呪われた者なのだという観念に本気で同意したことは一度もなかったようなのだ。黒人のキリスト教が変質して、死後の救済などをさかんに歌うようになった時代にも、そう考えたことはなかった)。それなら、彼らは働くことをひたすら忌み嫌ったのかといえば、そうではない。主人が与える食糧は量も栄養も不足していた。奴隷は子どもらの空腹を癒し、丈夫に育てるために、真夜中に狩りに出かけた。小屋の傍らの空地にはびっしりと野菜などを植えた。にわとりも飼った。衣服の布地も織った。そういう作業は一日の労働が終わってからしたのだった。いつ眠ったのだろうか、彼らは?

 苦難の中に人間らしさを失わずに生きのびるには、持続する意志がなければならない。それを支えてきたものは何か。奴隷であった時代にも、白人たちは黒人を怠け者、運命論者、無感動に蝕まれた者などと呼んだ。いまもそのような態度は根深く残っている。日本からもちょっと出かけて行ってあちこちで白人たちの話を聞いたりして、そのようなことを受け売りで信じたり、意見として発表したりする。直接の交わりを持たない日本人は、それをまた受け売りで信じたりしている。彼らが真にそのような呼び名にふさわしい者たちであるなら、まさしく「狂気」を生きのびることはできなかっただろうことには注意を向けることもなく。
 表面的には否定的な、負の性格を持つように見える態度ですら、両義性をおびている。正の性格を、エネルギーをかくし持っている。フロレスタン・フェルナンデスという学者はブラジルの黒人について、彼らの無感動に見える生活態度について、次のように述べているという。

 無感動とは潜在的な起動力をひめた状態と見ることもできる。最後まで身体の力を抜いたままでいるというテクニックを使うのだというあらかじめの選択として。……つまり黒人やムラトーに許された唯一の抵抗の形式を意識的に意志的に使うわけである。黒人とムラトーの極端な無感動は個人的な自己主張の方法として現れたのだが、同時にそれは集団的抵抗の手段でもあるという意味合いをひめていた。(『流れよ、ヨルダン河』)

 宿命論は究極的な解放、最終的な勝利への希望を放棄しないための手段であり、決定的な瞬間には屈服を否定しさるものだ、ということである。降伏するかのように見える行為のまさにその中に起爆力がひそんでいる、ということである。
 彼らは「与えられた」キリスト教を自らの解釈でヨーロッパ流のキリスト教とは大変かけ離れたものに変質させた。いや、むしろキリスト教という偽装の中にアフリカニズムをどんどん投げ込んだ。イエスの神学的な意味も、救済のヴィジョンも、「あの世」に対する思想も、「この世」に対する思想も、罪や罰に対する考えも、彼らは彼らなりの解釈を持っていた。根本にあったのは、頑固なまでの生の肯定だった。生を基本的によろこびあるものと考える文明の遺産を受け継いでやってきた人びとだった。
 このようにして彼らは人間として生きのびる意志を持続させた。ということは、きわめてあからさまに、厳密な意味では「奴隷」という言葉そのものが成立しない状況をつくり出したということである。「奴隷」とはある人間の集団を、その肉体と精神の両方をもって、所有し管理すること、人間を意志を持たない「モノ」化することを意味するのだから、意志を持ち続けた「奴隷」の集団は用語そのものに真っ向から挑戦していたとさえいえる。もちろん、このようにいうことは、奴隷の時代の残虐を帳消しにしてしまうものではない。
 人間らしく生きるためのたたかいは、奴隷制が廃止されてから始まったのではなかった。むしろたたかいの基盤は奴隷制という最悪の時代に形づくられたとさえいえる。しかも奴隷制そのものが法的に廃止されたところで、彼らの生活はよくはならなかった。極度の貧困、虐待、蔑視は続いた。南部から北部の都市へ流れて行く過程で崩壊し失われていったくらしの思想もあった。試練と苦難が続いた。それでもなお、彼らは生きのびた。なまなましい傷跡も見えるが、彼ら自身のものである特有の世界も残った。

 わたしはその世界のことをおしえてもらいたいと思った。苦境にあって人間らしさを手放さずに生きのびることの意味を。訪ねて行き、彼らが自分史と共同体の歴史を掘り起こすとき、耳をすませていたいと思った。わたしが会って話を聞かせてもらったのは、二つの例外を除いて、ぜんぶ女性だった。例外はミシシッピー州ジャクソンのELF(緊急土地基金)という黒人の土地所有を支援する組織の活動家の話を聞いたときと、やはりジャクソンで、泊めてもらっていた女性の家へやってきた四人の男性に夜遅くまで話を聞かせてもらったときだった。この四人はいずれもシカゴの黒人ゲットーや、低所得者用の集合住宅のある地域で育ち成人した人びとで、もう都市のスラムや低所得者用にしつらえられた劣悪な生活条件を見て暮らすのはご免だといって、ミシシッピーへ帰ってきた三十代と四十代の男たちだった。デルタ地方に黒人の衣類縫製会社をおこし、その金で黒人のための文化センターをつくりたいのだといっていた。「このままでは、おれたちの子どもがだめになる」と。
「黒人《ブラックス》は眠らないんだよ。知ってるかい。ついうとうとしようものなら、白いシーツを被ったやつらがついそこまできていても気がつかない。おれたちは眠らない民族だ。眠ってしまうと殺される」
 四人のうちの一人は、繰り返しそういって、大きな声で笑っていた。部屋の中でも帽子を脱がない。白いシーツを被ったク・クラックス団がきたら、無帽で迎えるのはいやなのかもしれない。
 ともかく、わたしが話をきかせてもらったのはこの二つの例を除いて、あとはすべて女たちからだった。「男には興味はないのか」と問う男たちもいたし、「おれたちの女たちから、おまえは何を探ろうというのか」という男もいた。そうかと思うと、「女たちから話を聞くっていうあんたのやりかたは正しい。黒人の女たちこそ、この国の黒人の経験について語ることができるのだ。もっともひどい試練をくぐりぬけてきているのだからね」という男たちもいた。
 黒人であり女であるとは、この世でもっとも低い場所に押しこまれていることなのだ、白人から圧迫され、黒人の男たちから圧迫され、つまり黒人であり女であるということは「この世のらば[らばに傍点]」であるということだと、ゾラ・ニール・ハーストンの小説『彼らの眼は神を見つめていた』 Their Eyes Were Watching God に登場するナニーという名の、かつて奴隷であった老婆はいっている。この「この世のらば[らばに傍点]」という表現は、いまでも黒人の女たちに共感をもって使われている。繰り返しこの言葉が発せられるのを、わたしは聞いた。ヌトザケ・シャンゲという若い詩人・劇作家・演出家の処女作舞踏詩《コレオ・ポエトリー》『死ぬことを考えた黒い女たちのために』の中では、一人の女が「生きていること 女であること 黒人であることは形而上のジレンマであって/わたしとしてもまだ解決できていない/わかりますか」といっている。
 けれども、なんとしなやかな「らば」たちであることか。いのちの力をあふれさせた、うつくしい「らば」たちであることか。彼女らのしなやかさと力強さと美しさの源泉は何か。このことについて知るためにとりわけ大切だと思われるのは、彼女らの歴史体験の総計を、黒人共同体の白人社会に対する対応に限って見る態度とはっきり訣別すること、白人からの圧迫の程度という尺度にのみ頼らないこと。黒人は北アメリカに無惨に連行されてからこのかた、ただひたすら白人に対応するだけで時間をやりすごしてきたのではないということは、強調しなければならないことなのだ。彼らはアフリカ大陸からもってきた文化を、あらゆる手段を使って生かし続けようとしたし、今アメリカの南部に残る「南部文化」と呼ばれるものは、白人がひとりでつくり上げたものではなく、黒人の集団的な想像力がはっきりとその形成に力を与えてきた。リリアン・ヘルマンが南部で育った彼女の母親は「黒人女性たちによってその感性を養われた」と語っているのは、差別者と被差別者という図式では捉ええない関係について、またさらに黒人の文化や世界観が実体的なものであり、完結性をそなえている事実に触れていることなのだ。スカーレット・オハラの台所にいた女たちは、実体ではなくて、マーガレット・ミッチェルの頭の中にいた――。
 聞き書の作業の過程で大変力を貸してくれた黒人女性の一人は、彼女がそうと公言しなければわからないほど、皮膚の色は白く、わたしたちは皮膚の色とは一体何なのかということについて話し合ったが、彼女はこの問題はとことんまで煮つめて考えられていないもので、それはあまりにも問題が複雑なのだからと前置きして、しかし「断言するけど、あたしは黒人なの。なぜ自分は黒人だといわずに、白人として通してしまわないのか、とたずねる白人もいる。黒人であるとは、精神的な範疇であり、心理的な範疇であり、同時に社会的事実だということが、そういう人には全く理解できていないわけよ」といった。
 わたしたちは「皮膚が黒いばかりに差別されて」などと不用意に決まり文句を使うのだが、アフリカ系アメリカ人と、またブラックスと自らを呼称する人々を結んでいるのは皮膚の色だけではなく、それを超えたものですらある歴史体験の共有と、体験の意味をさぐろうとするこころの作用なのだ。経済的身分や社会的身分が白人と同等になれば、あるいは褐色の皮膚を白く漂白してしまえば、アフリカ系アメリカ人やブラックスと自称する人びとが消えてしまうわけではないということ。作家のトニ・モリスンは「黒人の文化遺産を、精神の遺産を守れ。われわれはアメリカにおける異族であるなら、異族であり続けよう。それを諦めてしまうことは、われわれの存在の根を根こそぎにすることだ。そのようなことがあってよいのか」と問うている。そして女たちはそれぞれ、それぞれにふさわしいやりかたで、その存在の根について考えているのだ。生活の真只中にあることがらを通して。女であるとは、黒人の女であるとは、どういうことなのかという問を通して。

 わたしはそれを知りたいと思った。彼女らが自らの体験を語るのに耳をすますことができれば、いくらかでもわかるかもしれない、そしておそらく、彼女らが個の歴史を掘り起こす声の中から、「知る」だけではなく、学ぶことができるだろうという確信のようなものさえあった。彼女らは、また、個的な体験を、めんめんと過去に遡る生の軌跡や、魂から魂へ残された血のような英知の遺産に結びつけて、それとの関係において捉えることもできる人びとだろうという確信もあった。それはその通りだった。そのような彼女らの語り声は、わたしたちの背の向こうで、いつか声を与えよと待っている日本の女たちの生を掘りおこし、彼女らの名を回復しようとするわたしたち自身に力を貸してくれるかもしれない。
 おおやけの場でも、彼女らはその仕事を始めている。それは痛みと、また一つの力を意識するところから出発した。アフリカ系アメリカ人の、とひと纏めにされていた歴史から、黒い女たちの歴史を引き出してみること。彼女らは彼女らについてつくり上げられてきたステロタイプに、そのイメージに長いこと傷ついてきた。そして一方には、自らの過去や経験を名付けることがなされていないのではないか、いや、なされていたとしても、それをそのような歴史の追求として明らかにしていないのではないかという焦燥があった。黒人女性作家のアンソロジーが六〇年以降いくつか編まれたが、『おおはんごん草』と『真夜中の鳥たち』を編集したメアリ・ヘレン・ワシントンの、「(このアンロジーは)黒人の女たちの伝説をたたえ、夢を神話に織ることで、わたしたち自身の過去を回復し、またそれを名付けることを可能にした」という序文の言葉にもそういうことが背景としてあった。黒人の女であるということはどのようなことなのか、それを名付け、それについて語る言語を探しているのだ。

 わたしは会って話を聞かせてもらう相手については、彼女たちの職業やタイプなどからその範囲を定めておくことはいっさいしなかった。もちろん、アンケートのように質問事項を全部用意しておいて順番に質問するというようなこともしなかった。わたしには会う女性の種類をあらかじめ決め、問を用意しておくことなど、まるで無意味に思われた。訪ね歩いて会う女たちが、そのあとに会うべき女たちへの道を指し示してくれるだろう、それが正しい方法だと感じられたし、質問の内容についても、わたしがちゃんと耳をすますことさえできれば、話をしてくれる女たち自身が、そのあとにたずねるべき問へ連れていってくれるだろうと考えた。たずねたいことは色々あった。けれども、それらをはじめから押しつけ、言葉を引き出そうとするのは、わたし[わたしに傍点]の関心という箱の中に彼女らの声を押し込めることだから避けたかった。これまでに行ったこともないような場所へ行くことが望ましかったし、彼女らが異質の広がりの中へわたしを放り出してくれることを待っていた。そこでほんとうにわたしは耳をすますことができるかどうか。それこそがテストであったはずだ。異質の広がりの中で、異質な世界に対する真の敬意と理解への努力を身につけることができるかどうか。そのことがテストであったはずだ。会話の録音テープを聴いてみると、そういう点で無惨に失敗しているものもあることがわかる。わたしが予想している方向へ相手を無理矢理押し戻そうとするような質問には、うんざりしてしまう。時には、一回きりの、決して再生できないジャムセッションのように、何もかもが有機的な関係の中で自然に運んでいったこともある。
 耳をすますことは難しいことだ。
 けれども、それはわたしたちを微妙に変えてしまう。ニューヨーク州のイサカに住んでいて、ミルウォーキーまで行って十人ほどの女性に会った一九七九年の七月。帰りの飛行機の中で、わたしはわたしが二週間前のわたしとは少し違っていることを感じていた。話を聞かしてくれた女たちとの時間は、はっきりと一つの力を持ってわたしに作用していた。それが何だったかを正確に説明することは難しい。わたし自身にもあまりはっきりわからない。ただそこには以前とわずかばかり違う自分がいて、それは間違いなくあれらの女たちとの語り合いによって引き起こされたもので、この先は視界をこれまでよりも少し広くとって暮らしていけるのではないかという予感と、女たちの言葉や表情への感動と、その感動が吹き込んでくれるエネルギーが混じり合って、背筋をのばしていたくなるような気分があったというようなことだ。

 訪ねて話を聞かせてもらった女たちの数は四十人をこえた。わたしの手元に六十本の録音テープと覚え書のノートが残った。「あなたにこうやって話をして、ほんとにおもしろかった。これまでに言葉にしてみなかったことや、考えてみなかったことのいくつかを、きょう話しているうちに言葉にすることができたのはよかった。テープの写しをちょうだいね」といった女たちも多かった。
 それまでは会ったこともない見ず知らずの女たち、しかもほとんどは他人から話を聞き出されることを商売や仕事にしてはいない。わたしのような者を信頼して、こころを開き、体験を話してくれる寛容さには、いつも驚かずにはいられなかったし、そのような彼女らのとてつもない親切にむくいることが宿題として残されている。彼女らを利用したり傷つけたりせず、こちらの都合で彼女らの全体像を歪曲せずに描くことはできるのだろうか。わたしには荷が勝ちすぎると思わないわけではない。彼女らを理想化したり、ロマンチックな目で眺めることではなく、つねに正と負のエネルギーや衝動が引き合っている共同体の中で毎日を生きている女たちの像を、その動態のうちにとらえることはできるか。話を聞かせてもらって、そのことを聞き書として伝えようとする者の責任は何か。開かれたこころを裏切らないとは? しかも、トニ・ケイド・バンバーラが語ったように、「黒人社会にあることを言葉でいおうとしたって、半分も表現できないと思う。実際に生起することなのに、それを描写できる言語がないわけ。社会科学の対象になるべきことがらなのに用語がない。そういう現象はぼんやりした目には映らないし、偏見のある目にも見えてこない。詩人だって、うまく表現できないようなことがらなの。新しい言語が必要なのよ」――という状況もあるのだから。けれども同時に、彼女らは、ひとりひとりが語り手でありうる伝統に支えられてもいる。バンバーラがそのことも指摘していた。

 語ること、自分は創造する者だという態度でなく、わたしは代弁者なのだ、自分を超えた場所で代弁するのだという伝統がある。一般に浸透したものとして。ビリー・ホリデーもそうだったもの。彼女は彼女のストーリーの主人公を生み出し、その女について語ったものだった。自分から離したところで。男のブルーズシンガーもやはりその伝統で歌ってきたのだから。

 息づかいが伝わるような報告が書けたら、と思う。もとより無理かもしれない。投げられた球をかかえて右往左往するだけかもしれない。
 わたしはいま、この序章をそろそろ結ばなければというときに、ジョージア州アトランタ在住の百四歳の女性アニー・アレグザンダーに会った暑い夜のことを思い出している。暗い居間で、真夜中まで起きていて話をしてくれたアニーは彼女の父と母が奴隷であったことを語った。彼女は両親が自由の身になって生まれた四人きようだいの長女だった。一八七六年に生まれた。奴隷解放宣言があってから、十一年後だ。

 わたしは四人きょうだいの一番上で、わたしの母も父もごく平凡なひとたちでした。奴隷制が廃止されてから間もなくのことで、なにもかも貧しさそのものでした。全くうまくいってなかったのですよ。奴隷の身分から自由になったばかりで、人びとはまだ家や色々な物を手に入れるようなところまではいってなくて。暮らしは大変でした。父はあまり頑強でなくて、死んでしまいました。わたしが五歳ぐらいのときに。祖母が母から子どもを二人引き取って育ててくれました。そして仕事といえば……黒人にはあまり仕事をくれなくて、でも働いて暮らしをなんとか立てたのでした。学校などもなくて、あるのはただ空白、空白、空白ばかりで。死に物狂いで、一所懸命生きるよりなかった。それでもようやくどうにか教会を建てたり、色々なグループがつくられたりしてね。そうやって、なんとかへたばらずにいて。それから北のボストンやニューハンプシャーから、家もなく無一物で放り出された奴隷を気の毒に思った人びとがやってきて助けてくれたのです。彼ら(奴隷所有者)は何も与えなかった。ただ放り出しただけで。彼ら自身がすでにあらゆるものを使い果たしていたから、与えるものなど何ひとつ残っていなかった。戦争が南部をすっかり食い潰してしまったから。北からやってきた人びとに、色々貰ったのです。
 わたしの母は十二歳になるまで奴隷でした。自由になったとき、十二歳だったのです。わたしの祖母と祖父は本物の奴隷だったのですよ。だからね、ほんとに至難な出発だったのです。
 父が自由になったのは三十歳の頃でしょう。そのくらいだと思います。そして両親は若い時に結婚したのだと思います。

 アニーは明晰に、きわめて正確な英語で話す。もう耳も遠くなってしまったし、目もほとんど見えない、昔は上手にものを考えることができたし、記憶もはっきりしていたのに、いまでは、なんだか突然記憶も思考もどこかへ姿を消してしまい、あなたに話しても役に立つかどうか心配なのだ、といった。その彼女はほとんど休まず、こちらが心配になって何度もやめようとしたのにもかかわらず、夜の八時から十二時半頃まで話をしてくれた。途中で一度質問のあいだにうとうとしただけだった。ボランティアの看護婦の女性が同席していて、そのアニーを大声で起こした。小柄な細いアニーは軽くびくりとして目を覚まし、また話し続けた。もう、お疲れだからやめましょう、というと、いいえ、やめてはいけないと。そのようなアニーをつくったのはアニーの祖母のようだった。奴隷(アニーは「本物の奴隷でしたよ」といったのだが)の身から自由になり、苦難の中で孫二人を育て、アトランタに現在のスペルマン・カレッジ、当時の「女子聖書学校」が創立されると、第一回生として入学した女性である。

 奴隷の身分から解放されたとき、祖母は六十歳か七十歳でした。だからずいぶんつらい目に会ってきた女だったのでしょうが、北からきた人たちがしようとしていたことの意味を理解すると、そのことを喜び、学校へ行くようになったのです。聖書を読めるようになりましたよ。……祖母はわたしもその人たちのところで教育を受けなくてはいけないと、熱心にすすめたのです。

 アニーは「スペルマン」の学生寮の食堂で働きながら勉強した。「お皿を洗ったり、鍋の汚れをこすり落としたり、そんな雑用をしながらね」。彼女は住みこみの子守りや、洗濯女や料理人などをしながら生きてきた。九十九歳になるまで働いた。いまは労働はしないが、自分の家に独りで住み、身のまわりのことは全部する。庭に薔薇を植え、その世話をする。見事な花が咲く。もう何も思い出せない、といいながら、むかし諳んじた詩がある、といった。三年生の読本にあったバラードだと。

わたしを谷へいかしめよ
その美しき花を見るために
そこでわたしはまなぶだろう
つつましく 育ち 大きくなることを

 辞して、車をスタートさせるまで、アニーは見えぬ目でわたしを見送ってくれた。扉の上半分のガラスに、アニーの顔が浮き上がるようにあって、その像《イメジ》は夢の中のそれのよう。


晶文社 1982年10月30日発行




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