『し あわせ』 小沼純一詩集

     目次

 おもて/うら(スパイラル)

し あわせ
てが み
なつば て
雨の部屋
J'AI SOIF――a E.
かえる
こよりこより
こんや く
さぼてんすき
はし
ぬけ みち
ふし
いき しに
ここ
ししゅう

 あいだ

し ほう
旅の記憶
月日から/へ 走り 散り

 うら/おもて(すな おんな)

すな おんな


おもて/うら(スパイラル)



し あわせ



ぬけていく音にあわせて
耳のかたち かえている
きこえる わ あたたのおかげ
てのひらたちが鱒《えい》みたい
ひるがえり よじれあい やってくるの

うすい眠りをおしひろげ あなた
ふと腿あわせると はねのいたっけ ね
さかなはさんでるのか
変温動物のつめたさがあるげれど なんて

ううん 飼ってなんかない
でも よかった あなた 見つけてくれた
性交からぬけおちた 接木のようたふれあい
が あたらしい進化となっておよぎつくわよ

毛布の裾はひたひたと濡れこみ
甲殻類のちぎれた足や海草のきれはしが
シーツの縫目にはさまったりしているわ
クリスタルのかごからこぼれた洋梨は
ほとんどおんなのくびれのままに流れてく
そう さっき あなたが盲目のまんま
あたしと間違って何時間も
撫でつけていた曲線よ あれ

あなた もう なかにいるの
あたしのなか に
空気を さ ひたすらに
吸う音ばかり よくわかる
おぼれてくみたいよ
し あわせ し あわせて
あたし あなたおいて 流れだし
はみだし て
なって なって てのひらに
まぎれ まじって いく いくのよ あっち



てが み

百葉箱からこぼれる汗 うけて さ つい
と しどけない猫ののびした とき よ
はいってたの てが
なかに うん みのなか かみのなか ううん ちがうわ
あいだ あなたの あたしの この あい だ
みちて
みちみちて
あなたを潤す
薫木をこがした
またたびのような
芳香はもう滲まない
から
そっくりと連弾するよう
熱帯の風に喚びこんでくる
神話の女が織りかえす紡糸の
したたりがおちてくる髪々のたば

はえぎわを舌のへりでたどるだけで
はてしのない愛撫にこのみをとかして
てがみをふらんさせていく歳月のままに
平仮名も声色もくらげのよう水にかえって
かえってよ かえってよ ねえ 卵みたいに
 読みとけなくなってしまうまで
ね 声もかぶれて かすれて
 とどいてる
とどいているわ
あなた みずにこだわってる あなた
あたし きたい きたい のよ
きたいばっかり
妖精みたいに ちらちらときらめいて
 たまらずに たまっても散らばって
くれない あなたの夕ベはくれずに
 なにもくれずに待っている
ね くりかえしばかり 世になかを反芻して
年かさ ねるのは きっと仕事
やめて やめて きたい
やめ つづけて さ
あいしてる あいしているわ
やぶけてくあなた あなたを
霧となって 時ふりながら
てもなくて



なつば て

いとおしいのはおわってく音
かわらないのはてのひら
と カリンバの調律をくずしてうたう
から だ から
釣ったさかなや
指先にふれる紙きれのはしに
びく っとうつろう
おんなのかげ とかげ

網戸になんか吊るしておいたら
いっちゃう
いっちゃうんだから あなたの おもいから
あいいろのストッキング
つりつりころがる水銀みたく
ぬけてったひとのぶんだけ 夜のなか
ひっそりよどんだ溜息すいこんで 育ってく
アロエ
カミーラ ペペロニヤ
南方の鉢のものたち
ほっといたまま
アルミ如露はあんまりみどりの
においで おいで おいで
おもい だけ 誘いにせかされちゃうのよね きっと

カンパリは夏の恋
なんてだらけ てないで
おんな友達
こめかみに引用したのはぎとって
ね え
いっちゃえば って言ってみたら
にん と笑って
そ したら もし かして
とおくから 音くりながら
なつ なつく
水枕



雨の部屋

寝台に雨が降りはじめて
部屋には
インク消しのにおいがきえました
タイプの配列は
あいかわらず
おぼえきれないままです
爪先はひえきっていますが
待っているのは
ことばたちのあいだのみずかきです
いきにとけこむはしりなど
せいぜいカレンダーのなかだけ
ときまっているようで
ひっかかる程度には
かみもこいも
区別できそうもありません
さめきらないぬるまゆをおもいだすには
あとどのくらい
かかるのでしょうか



J'AI SOIF――a E.

頼まれてもいないのに
待ちたい
かみがすっかりしとってしまうけど
てさげの模様はういちゃったりしていても
やめきれない
きれないのだった

魚が育っていったり
ビー玉にひびがはいったり
手首が進化したり
気づくことも ままあった
でも
すぐだから
あと すこし なのだから

飲むかわりに腕をのばす
憎むかわりに腰をおとし
形容詞はそのままに

おきかえて
おきかえはしても
それだけではこころなしきがかりで
はずしてはぬぎ くみかえる
動詞からは音をぬき
からだへとかえしてやる
浮くみたい
楽になってるのに
どこか

のどがかわいた



かえる

お湯のなかでいとひいて
しろく しろおく
逆流っていうの
ほそさなら兎のみみ
とんがりかたは豚のみみ
両膝
はいりやすいくらいに
ひらいておくと
たちのぼってくる
ちがうな
屋根裏部屋のぶあつくなった
蜘蛛の巣みたいに
もあっとひろがって
お湯にはまたゆらされて
ちらちら
ういたり しずんだり
こうやって死んでく ころしてく
あなたのあとはいつもぬるまゆ
でいっぱいにしておくけど
こんなかんじで
きもちがいいのはもうネルのシーツくらい
なんだって
知らないんでしょ
しょうがないひとね
とっくにあなた かえっちゃってるけど
ほんとはね これみんな
かえしてみたい
かえるみたいにいっせいに
どう
そしてあなたに
ぜんぶ



こよりこより

ピアスのあな あなたのあと とじてく の
脈がきゅるきゅるよりこんできて
タップ・シューズみたい たかいのとひくいのきざんで
ねむっても うた うたってる

こよりこより
鼻のおくがつうんとふるえる
あってるのかしら 波長が さ
もよりのゆめから たより
たよりのあふれるひ かがみ
あなたのて つめたくはしって
おりようと思うのにのぼっちゃって
のびてのびてのびあがって
微熱のうるみ 暗算のなじみ
爪先のおろしかた忘れちゃう

見える 見えるの ね え
はじけたセーターにうた からまってるわ
みよりほだされた っていうんでしょ
こういうのかまいたちって
ちがった
仮名しばりって
うそ うそ かしら 起きるまで



こんや く

茴香《ういきょう》をはぎしりしてるのばっかり
おぼえてるけど あなた たち
ねむさ とっぷりこぼれそうで もそっ
もそっ と はいっては でて
のこってるのはいつだって複数形だったわ
ベッドがゆりいすみたいに湾曲して ゆれ
ゆれ ながら わたし くすりゆびで
ひっく ひっく ひっかいて それて ひっかいて
リアス式海岸 絨毯からひきよせ
群れなしてる雑魚かきまわしてた
つるつるとぬけたし つめたくって よかったけど
ワープロ組みの遺言状
餌にはすぎたかもしれないな と

お棺にはオルゴールをつけておいて ね
歯が唇ににじみだすと
潮水をぬき 早々と喪服を用意する
なんて さ 信じてなかったけど ほんとだったわ
ぬきあしにたたみロブスターよけ 抒情しちゃって
柄に手をかける と
なりだすの なっちゃうの おとめのい のり
後悔するでしょ 半音あがるくらい
漆のかぶれなおっちゃうくらい さ
あたし そしたら笑うの
みて みて って はしりぬけて
くる くる こんや
こんやくる あな あな あな た あなた たち
うふ あんよ ふとい の



さぼてんすき

爪のさきくわえてななめによじると
雲母みたい 切りさいたつぼみみたい
かさなったエナメルの アコヤ貝の いろ
さぼてんのとげをつまんで つまんでぬいて
ぬいでつまんで きちきち
ひらこうとする と たわんで
やっぱりこれ 草の 植物の まがり いきもののしなり あなたみたい
いや ね でも それがすき
近視にのぞきこんでもう一回 やって
やって みる やってみる もう
一回
呼びこんで 呼びこんでみたい さぼてんの声
いそぎんちゃくのうた ネクトンのゆらぎ
爪のなか 地層みたいに埋めこんで秘めておく
孕んでるのにけっして産まないあなたの子みたいに
とっとく だいじに 内緒に とっとく
はやく背骨をとかしたい せつせつと退化したい
ありあまるとげをはやして そのぶん宙を狭くして お邪魔して
ことばみたいにとぷとぷと水をたたえて メキシコの荒野から
百科辞典をうらがえして
コスタリカのフジツボに 宮古のウニに セネガルのカポックに
いっしょに べつべつに 知らないまんま
自閉しよ 自閉しょっ と
まだまだ ある とげ あるよ とげ やって やって やってみ
やってみる さす さして さ くねって ね すき
だから すき さぼてんすき



はし

たわむのはきっとにおい
まんなかで透けているのはパラフィンのみみ
くだもののつつみきれない不器用さ
三角定規のはしにたまりこむきず
きづいても つけ つけてる そう
くすりゆび ゆびきりのため
らったほご れ
電話線をむしってく
しごっ しごってくりかえしてく指紋のゆれ
きっとアレルギーを付点によせる音符たち
はた かえす 高音の湿度



ぬけ みち

かみからぬの ぬのからはだへ
おもいの ひとの てのひらの
おとこのぬけてゆくとき めきを
くち つたえ
くちず たえずに つた つた つたへ
えだのばし ことの はの
まき にじみ しだれながら ぬれている
ぬいている タオルケットをたごまらせる
きっと明日 いえきっとおわりまで いついちゃう
多肉植物のなまあたたか
はだ か からだ に
ありがはう



ふし

かみからぬの ぬのからはだへ
かえってゆく
ふりだしはいたたまれない

めをさましてこえをひろう
みをおこしてあじをひろげる
かったるさにもうらぎきれない
ことの はの よじれ

あめを待つきのこは
ひたすらにかゆい
草や木とはくらべられない
とだえもなしに

くちた木からふしをぬいて
こだまたちをにがしてやる
ふしあなは
ひろがるばかり
くちずさみもからのなか
はずれ はずれて
おともなく
ふし そしてまた
ふしあわせ

せめてものなぐさめに
いつからか
やさいがうたっている



いき しに

ふかづめがすきなの
かゆいのか いたいのか まだわかんない
ふく ぷくと
やどかりのおしりみたいな

ゆび みつめながら
みつめながらよりめになって とおく
うたをよんでしまう

いけだとか こいだとか
また
いえだとか
どうしからめいしへ
めいしからどうしへ
なんどとなく
うらがえりながら
ほんやくしをひびにおとして
いき しに
およいでいくうた



ここ

…ここ……
……………………え…………
………ここ…………
………………………ちがう…………
ここ…………
…………うん…………
……………………ここ……
そこ…………
……………ここ……………
…………だめ…………
………………………………ここ:………
……いや…………
…………ここ…………
………………いっ…………
…ここ…………
………………………そう…………
…………………ここ…………
……そんな……………..
…………………………………ここ…
ん…………
………………ここ…………
………………くっ…………
ここ…………………
………………………………かも…………
……………ここ…………
あつ………………
:……………………………ここ…………
…………………ちょっと…………
……………………………………ここ…………
………………もう………
……………………ここ………
……………あと………
……………………ここ……
………う…………こ
こ……………
…あぁ…………
………………………………ここ
…………や………
………ここ…………
やめ………
…………………ここ…………
…………ぜんぶ…………
……ここ……
………………いい…………
…ね…………



ししゅう

でるんだってね
すごいんだって
しみついちゃうって
一度でね
忘れられなくなっちゃうってよ
たまらないかしら
たまるかもよ そこに
そこのほうに
たつかしら
やっぱり そう
いいかもよ もしかして
まさか でも
なれたらね わかんない
進化したりすれば わかんない
けっこう
いけるようになったら
ふふ
もう わたしたち ひと
じゃないのかも




 あいだ



し ほう

きみはものをしらない もののなをおぼえていない
種類のちがういくつもの樹々や鳥のなまえが
なにか
のメタルフォールになる
などと信じてはいない
そう 正当化しようとする
きみは 世のあふれを卑小化したい
のかもしれない
いいや
いい わけ
はあるだろう いま
きみがふれている女のくちびる
そのひだのひとつひとつがしゅうしゅくしひらいてゆく
その さま その わた しへの あじわ い
きみ のみ をよぎる ふる え
それはなづけられなどしない

など無意味なのだ と

しっている
きみは

がつらなってゆく比喩
にうんざりしているのだ
しっている
きみは
こうして喉を吊ってゆく

こんなに日々 いろいろなものにふれているはずなのに
ことばがない
でてくるのはありきたりの専門用語か使い古された語彙
きっと
よこぎった女に欲情しても

その程度のことばでしかふれてはいない
女たちはうんざりしている
みちの ことばの てのひらの かん
しょく を まっている

まっていても駄目
はじめても無理
わかっているのは
ちがう
わかるのは
はじまってしまってから
はじまってしまってからわかる
ことしか
わからない

    *

し が し らしきものがかいてみたい
と 何度となく はじめてみる
モデルがほしくて 枕元の
ししゅうを次々となでてみる

一行の ひとつの
比喩がつかめずに
先にすすめなくなっている
迷ってしまう 一篇のなかで
しわがふえているのに
気づいている

詩の断片にきみはついていけない
あこがれながら
こばんでしまう

異国の友からのてが
みを 何度となくよみ かえすように
ひとのし ほうはひと
つ とはかぎらない

きみのよみたいものは
まだかかれていない
の かもしれない
きみはてのひらでさがしながら
ゆびさきでいつからか
かいている

    *

そう かたみわけもらった
きみの本のなかに
何枚かのメモがのこっていてね
たいがいは古本屋で買いこんだもの
に書いてあった
誰のものともわからぬ文字を
石碑を調べるようによみとこうとしていた
きみは本とではなく
きっと前にそれを読んだ
見知らぬひとと
つながりたかったのだろう
そして その作業に疲れると
ひたすらにでんわにすがるのだったろう

     * *

ふれたものから
つぎつぎとやく
やくものは やくひとは かぎりない

ひとみから
きっとした気高いかお 大きな まばたきのない
ひとみから
こぼれおちる
インク

が つきすぎたのだろうか
尖筆に 表面張力で しづくがインクのしづくが
ゆれうごくたまのまま ブルーブラックの 液の
右上にはスタンドのけいこうとうの光を反射して
世をうつし あやうい均衡を保ちながら ふるふると
いつまでも こうやって いつまでも みていられるなら
いつしか 髪までがしろくなりぬけおちてしまう
かも しれぬと ふと想いのよぎる そこにおちたのは
ながれながれて わかるだろうか きみよ
いま かかれているのが インクのしみが通過してゆくのが
きみなのだと わかっているだろう よごれてゆくのではない
このよごれこそが しみこそがきみであるのだと

この
あとを
アスファルトにのこっていた
あとを 路面がつるつるとなるまで
なでつけている てのひらを、
ディスプレイに一本
また一本と あ
ざやかな色の線がグラフを織ってゆく
それをはじめてみたときの、
そして馴れきってしまったときの
はじめておろした
ハンカチの融通のなさ、
を おもいだしながら
でも
いうことばがなく さわることで
あみ ぬける
けんしょうえん ろっかんしんけいつう
あしのつり
ぬけてゆく
きみはそうして
間接話法にもおちることなく
きみがぬける
うらおもてのないさかなのように
こなふいたような色のさびをおとして
ひとをまた外字にたよらせ



旅の記憶

バルセロナ
そうじゃない きっと
アンダルシア地方のどこか
うまく区別もつかない
ただ 写真でみた風景なのだが
いちめんの
きいろい きいろい ひ まわり
のなかを きみがおどる
およいでゆく
のが うつっていた
おなじいろというだけで
車窓からみえたポントルソンの
なのはなの咲きみだれる
遠景に

知っているよ
きみは みずからのわきばらに弓をあて
弱音器のついたハーモニックスをたてていたのだ
その音がたかくなればなるほど
脚はゆっくりとほそくなり
つまさきだって
おとなしいどうぶつたちをよびよせる
ふつうには官能しないものたちを

絃をはじく
そのまさつのねつがおこるたびに
音たちがふかしてゆく
花粉のようにちったり すなのようにおちたり
きみをまえにしてぼくはきみがおもいだせる

    (補歌)

みえるものなど伝わりはしない
モン―サン―ミシェルのひとだかりも
みたことのない種のひつじも
朱色のアタッシェ・ケースに漢字で
春夏秋冬とかいてあるのをもった不思議なおとこも
古来 神木として崇められたやどりぎも
マレ―ジョリスのぺーパー・バックを読んでる婦人も
朽ちはてた教会 カードの使えない口臭いや公衆電話
ひとっこひとりいない昼過ぎの駅
トイレから出られなくなったアメリカ女性
ハラマキにパスポートをいれてるオーストラリア・ギャル
あまりに凡庸に あきあきとひろがる平地
かわりやすい一日の天気 猫をもちあるいてる老婦人
なれなれしい田舎おじさん メーデーのすずらん
吸血鬼のかっこをしてるこども

ぼくがもちかえれるのは それだけだ



月日から/へ 走り 散り
    ――野見祐二に

風がびろうどになびいていたのか
それともアスファルトにむせていたのか
走っているものにわかるのはつねに
汗のように揮発する その跡形ばかり

ぬけおちてゆく言葉
あふれゆくイマージュ
眼のはしに満ち欠ける
愛しくも憎い月日
ちりぢりの睡りをひいて
いつしかわたしも砂へと

ディスプレイに点滅する
カーソルのひとときの
あわいをすりぬけて
きっとそこに辿りつく

(褶曲した道
骨の透けた書物
たれさがってゆく文字
隙間のひろがるアステリスク
ページからはみでる改行)

ぬけおちてゆく言葉
あふれゆくイマージュ
眼のはしに満ち欠ける
愛しくも憎い月日
ちりぢりの睡りをひいて
いつしかわたしも砂へと




 うら/おもて(すな おんな)




S ionpeut risquer une proposition en apparence aussi absurde,
le texte sera encore plus vierge apres le passage du traducteur,
et l'hymen, signe de virginite, plus jaloux de lui-meme apres
l'autre hymen, le contrat passe et la consommation du mariage.
Jacques Derrida
<Des tours de Babe1>





はじめて、だったの?
――もう一度、ためしてみたら。わたしは、いつも、おなじなの。



いつかね、いなくなるのよ
はじめはね、とってもよろこぶの。
まさに宝物だってかんじでね。けっして手放さない。
嘘ではないのよ。
信じることだってできる。
ねえ、
うごかないで。
うごかないで、いられる?
いまの、このままでいられるのなら、
どこもいかなくてすむわ。
でも、多分、ひとはかならずどこかへいってしまう。





――カポックって、しやべるんでしょう?
唐突に言うのだった。なに? ぼくは、すぐ目のまえにある鉢植えがカポックという植物であるのも、知らなかった。
――どこかねえ、たしかアフリカ、……セネガルだったかしら、民話があるらしいのよ、知らない? カポックが口をきくって。
あなたは、夜ひとりでこのカポックとしゃべってるんじゃないの。
――このこはね、丈夫なのよ、とっても。二か月ふらっと旅にでて、かえってきてみるとね、まだこんなにはなかったんだけど、ほかのはいっせいに枯れてしまってたのに、カポックだけが、なんともなくて。あいかわらずあおあおとしてるの。
あなたは猫のあごをするように、一枚の葉を柄のあたりからゆっくりとひとさしゆびでなであげる。





飼いうさぎは冬眠しないのだろうか。
なんとなく立ち寄った市立公園の入口には、あまりにありきたりなお茶屋があって、おでんだのとうもろこしだのとべたべた窓に貼りつけてある。ビールやジュースもあるのだが、さすがに冬場は客がないのだろう、ただ立看板と、犬みたいに首輪をつけ、ひもでつながれているうさぎが一匹いるだけだった。うさぎはふとっていた。
ぼくはしゃがみこんでこのうさぎをなでたり、つっついたりしていた。
ひとの気配がして、あなたがとなりにしゃがんでいた。
ぼくがなでるのをやめると、ちょっと間をおいて、あなたがなでるのだった。
何度もそんなことをつづけた。交互に、なにも言わずに。ぼくたちは顔さえも見合わさなかった。そのうち両方で手をださなくなったまま、ただ見ているのだった。
――いきましょうか
膝がしびれていた。ふと、うさぎどしなの、と問いかけようとしたのだったが、あなたは先に歩きだしていた。



あなたはつねにあたらしい処女としてそのくるしげな声をあげる。繰りかえされる。幾度となく。果てしなく。ひとはいつまでたってもあなたに触れることなどできない。快楽と虚しさは、いつだって一緒。あなたのなかにはいりこんでいる、まさにそのみじかいあいだだけが、かろうじてあなたにあとをつけつづけられる時間だ。しかしひとはなぜこんなにあとをのこすのにこだわるのだろう。



部屋にはいると受話器をはずすの
留守番電話をきいて、かけなおすだけ



バスのなかで眠るのはつかれる。
あまり乗客はいなかった。
知りあいのおとこに孫の習いごとの自慢話をとめどなくする初老のバアサンをときどき憎むように睨みつける若いおんながまえに座っていて、そのうるさいふたりづれが降りてしまってからは、ぼくの視線をときどき気にしてはいるようだったが、いつしかふうっ、と、ごく一瞬、ふかくねむりこんでしまうのだった。何度も何度も。みじかいスカートからながれでる脛はごく自然にハイヒールヘとながれこんでいるのだが、その眠りのすきまに膝がひらく。蝶の花にとまって口器をのばす、とじた翅のわずかにちからのぬけ、ひらくのをおもわせて。また目覚めると、膝のうえ、すこしばかりずれたバッグの位置を神経質そうに直す、そのくりかえしから目がはなせなかった。



大きな、洗面器をふせたようなサボテンの脇に、すこし錆びついた音叉がおいてある。



くちずさんでいるのがきこえていた。
外の風とくべつできないくらい。
ああ、うたっているな。
ね、それ、なんのうた?
――なに?
うた、うたってたでしょ
――ううん



いつもはファックスを送るためだけに降りてくる、一階下の総務部のフロアから、ちょっとしたはずみで一段また一段と、普段はあることさえ忘れているような別の会社のフロアヘと、足を進ませてしまっていた。ビルの、かわりばえのしない階段だというのに、壁のしみや螢光灯の光度のちがいが妙に気になったりする。おそるおそるというかんじなのに、というか、だから、というのか、なにげなく急《せ》いて、ヴェストのまま大通りにむかって、そして、大通りを歩きはじめている。
陽はまだかたむきかけてもいない。




あなたは逃げたりしない。去っていったりしない。ここに来れば、いつだって、迎えてくれるのだろう。なんだろう。不満のような、物足りなさのようなかんじが、猫のように影をおとしてゆく。



高台のマンション。こがね色がかったカーテンのうしろに隠れたままの一面のアルミサッシを通すと、ヴェランダのむこうにはかなりひろい市立公園が見下ろせた。人工的にかなりきっちりと整えられた並木道につながっているのは再開発中の旧工場跡地のはずなのだが、その記憶をとどめるものはほとんど残ってなどいない。そのむこう、更にとおく目をやると、やっと都心のビル街とその下にひろがる歓楽街にいきあたる。もちろんそのネオンはせいぜい豆電球ていどにしかとどいてこない。
カーテンを通してとはいえ、ここには陽の光だ。
けっして狭くはないこのフロアは、しかし、およそ並みのフラワー・ショップでみかけるような観葉植物ならほとんどすべてが、しかも無造作に置かれている。どちらかといえば目立たないいくつもの、大きさもかたちもさまざまな鉢の、ながくのびたれさがっている葉の蔭にかくれているのは、壁にうめこまれたデッキにつながる木目のスピーカーとテレヴィの媚びた動物が見上げるような位置のコンソール。そしてそんな部屋のまんなかに、簡素なセミ・ダブルのベツド。



――ねえ、あなたが好きだよ
――ええ、わたしもわたしが好きよ



バーで、ふたりの男友達と飲んでいたの。わたしをまんなかにしてね。もちろんカウンターだったわ。いちいちひとの顔をみなくたってすむし、気が楽だからね。それでね、ごくさりげなくひとりがわたしの膝に手をのばしてきたわけ。すーっとゆびのはらを、どちらかっていえばミニだったかなスカート、ずつづちょっとでちゃう腿のとこ、すべらせてくの。いつまでもいつまでもあきもせけてる。しばらくするともうひとりも手をのせてきた。もうかたっぽのほう。てのひらでひふをくるむようにして、ゆっくりとなでつけてゆくのよ。わたし、すこし膝をひらいて、ふたりすきなようにさせていた。ふたりの手がかちあってしまわないようにしただけだったけど、脚がよってきたんで、なんとはなしに、ひとが身をそわせてるって、両方とも、おもったかもしれない。それはそれでいいの。ただ、でもね、たしかに、けっこうわたし酔ってたけど、かんじてないわけじゃなかった。まひしてなんかいなかった。わたしはさわられてる。かんじてる。でも、このひとたちはなんなの、なにしてるの、どうなの、ねえぇ、なにかをかんじてるっていうの? わたしはなにもしてない。それとも、この腿でさわってるとでも? わかってないね、って言いたい? そう、いいのよ、わからないの。



あなたはなに、与えてくれる? そう、与えてくれるといえば、たしかにそうかもしれない。いつまでも与えつづけてくれるとさえ。でもさそれでもって、なにかが変わるわけではないとしたら。どうにかなることしか期待できないのが、そもそも、まずしい?
あきること、そしてそれとも、なれること?

わかっている? わたし、かならず処女のいたみをかんじるのよ、その度に。けっして慣れのこない、ひきちぎってくるようなのを、ね。ようやくぬけきると、あまりにもなつかしい、ひとの、あつさにゆったりとどうかしてゆく……あ、まだ、まだいってしまわないな、いるんだな、いてくれるんだな、って。




ときどき、こういう植物たちが枯れたり、くさったり、
葉がおちたりするのが、いいな、と。




椰子の芽って食べたことある? ときどき贅沢したいなってときに行っていた店でね、或る日、メイン・ディッシュのまえ、手持ち無沙汰にワインなどかたむけていたら、さりげなくシェフがね、すいていたせいもあるだろうけど、自分から、どうぞって、小皿に出してくれたのがそれだった。たまねぎのあかちゃんみたいなのと一緒でさ。ピックルスみたいにヴィネガーに漬けてあるんだけど、外側がちょっとかたくて、あれ、たけのこみたいとか思って噛んでみると、でも、きゅるっと中の芯がでてくると舌の感触はなかなかチーズで、やわらかくって、弾力があるの。結局その一度だけだったんだけどね、お店もなくなっちゃったし。ただ、メインより、ずっと、なんだな。



砂なの、ぬけてしまえば。
また、粒がざらざらとあとをふさいでしまう。
でも、ほんとうはそのたびにちがう。
さっきのあそこにあったつぶつぶがもうどこかにながれてしまったように、みわけがっかなくなってしまったように。
わたし、いつもおなじじゃない。どう?
ねえ、あなたたちはいつだって勝手に呼ばれるのよ。
誰でもない、誰かが呼んでるのに、かならず、あなたたちは、それも誰かに特定しちゃうの。
それがわからなければ、ずっと、ふしあわせなままよ。



なぜ、きたの?




空調の音/全身からふきだしてくる汗をてのひらが交叉して、ちょうど夏の浜でオイルを塗りあっている恋人たちのように/つまさきがひえはじめて/植物たちが、いる、と感じる/くちがいっぱいにひらかれ、でも、声はぬけている/うえしたの歯にほそいひとすじのだえきがいとをはる/にくをはたくにぶい音/にくたいこ/ひとのほねのかたち/ほねにそった肉/シーツがかたがわによりこみ、たごまって、たれさがる/アカンサスの鉢にかかっているかもしれない/ひたすらに、だれかがでんわをかけているような気がして/どろがついてしまうだろうか/そこで、うごかない/くびがにんぎょうのようにふられる/すばやい、のではなく、おちるように、おとすように、いっぽうからいっぽう、いっぽうからいっぽう/いきいきしてる



――ねえ おわれてる?
――そんなこと、ない
――おわれる?
――おわれないよ
――たぶんね
――たぶん
――ずっと?
――わかんない
――わかんない





思潮社 1989年8月1日発行  





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