水牛的読書日記 2021年7月

アサノタカオ

7月某日 東京の御茶ノ水へ。午後、用事の合間に湯島聖堂の散策路を歩く。ひさしぶりに「すだじい」に出会った。大好きなブナ科の広葉樹。かつて5年ほど暮らした香川の豊島にはスダジイの原生林があり、幼い娘を連れてよく散歩をしたのだ。木漏れ日を通す葉の茂みを見上げながらその「すだじい」の太い幹をさすっていると、たまらない懐かしさがこみあげてくる。
浅草方面に移動し、Readin’ Writin’ BOOKSTOREで『新編 激動の中を行く』(新泉社)と『シモーヌ Vol.4』(現代書館)の刊行記念トークイベント「フェミニズムと出版——「女性史」の可能性」に出席した。お客さんはオンライン参加が中心で、会場には関係者を含め数名。『新編 激動の中を行く』は、90歳を超えていまなお現役の女性史研究家であるもろさわようこさんが編者となり、与謝野晶子の女性論を一冊にまとめた本。『シモーヌ』は注目されるフェミニズムマガジンで、最新のVol.4では映画監督のアニエス・ヴァルダを特集している。今回のイベントでは、『新編 激動の中を行く』の編集協力者で信濃毎日新聞記者の河原千春さんと、『シモーヌ』編集長をつとめる現代書館の山田亜紀子さんが対談した。与謝野晶子、もろさわようこさん、アニエス・ヴァルダら、それぞれの時代と場所で女性解放の新しい道を切り開いた表現者の思想についていろいろな話を聞くことができて充実の時間だった。この三者に共通するのはつねに自分を新しくしようとするつよい意志、だろうか。社会を変えるためには、まず自分を変える。そして、表現者として決してひと所にとどまらない。トークでは、もろさわさんに対する河原さんの、アニエス・ヴァルダに対する山田さんのリスペクトと愛の気持ちがまっすぐ伝わってきて、それもよかった。帰りの夜道を歩きながら、もろさわさんの著作をもっと読みたいし、アニエス・ヴァルダの映画もみたいと思った。

7月某日 近所の書店で文芸誌『群像』2021年8月号を購入。おめあては小特集「ケア」。昼下がりの喫茶店に入り、丸尾宗一郎さんによる記事「ケアが語られる土壌を耕す 編集者・白石正明に聞く」を一気に読む。

《「看護師さんが何をやっているかを伝える本を作らなくちゃ」という意識があった。というのは、看護師さんって医療ヒエラルキー的には見下されやすいんですね》

白石正明さんのこの発言に、大きくうなずいた。白石さんがいまから約20年前に立ち上げ、編集を担当している医学書院の「シリーズ ケアをひらく」。およそ40冊の本のうちすでに何冊かは読んでいるが、求職中の時間のあるうちに読破しようと、まずは2001年刊行の武井麻子さん『感情と看護』(医学書院)を入手。このシリーズは出版の歴史に残る尊い仕事だと思う。自分も編集者としていつかこういう仕事をできるとよいのだけど、どうだろう……。

7月某日 引き続き医学書院の「シリーズ ケアをひらく」。小澤勲編『ケアってなんだろう』、向谷地生良さん『技法以前』、川口有美子さん『逝かない身体』、熊谷晋一郎さん『リハビリの夜』などの気になる未読本を次々と。読書が止まらない。シリーズのなかでは比較的新しい、昨年刊行された郡司ペギオ幸夫さん『やってくる』がおもしろい。というか、そこで語られる「何かがやってくる不思議な感じ」をめぐるさまざまなケーススタディが、どれも身に覚えがあって驚いた。夜な夜な魑魅魍魎の気配を感じ、知らない人に「よお、元気?」と声をかけてしまうことがあり、頻繁にデジャブを体験する。郡司先生、あなたもそうなのですか! 
日中は介護や福祉、ケアに関連する本を読んで勉強し、夜は韓国文学の時間。いま集中して読みつづけているのは、現代韓国文学を代表する作家のひとり、キム・ヨンスの小説。『夜は歌う』『ぼくは幽霊作家です』(橋本智保訳、新泉社)、『世界の果て、彼女』(呉永雅訳、クオン)、『ワンダーボーイ』(きむふな訳、クオン)。どれも翻訳がよい。僕は韓国語の読み書きはできないけれど、これらの本はまず日本語として読みやすいし、訳者がそれぞれの流儀で、原著の繊細な文学言語を慎重に日本語へと置き換えている配慮が随所から伝わってくる。自分は韓国文学のファンであり、韓国文学の翻訳者のファンでもあるのだと思う。最近はキム・ヨンスが聴いているという男性フォーク歌手、センガゲヨルム/Summer of Thoughtsの曲をネットで探してBGMとして流している。

7月某日 日曜日の朝、詩集が届いた。封を開けて手に取った瞬間、「本ってこういうものだよ」と思わずつぶやいていた。隣にいた妻も「うん、こういうもの」と応えていた。写真、装丁、印刷、すべてが最高に美しい本。もちろん詩のことばも。兵庫・西宮のameen’s ovenでパンを焼きながら詩を書くミシマショウジさんの詩集『パンの心臓』(トランジスタ・プレス)。

《パン屋に爆弾を落とすな/パン屋を攻撃するな/そこには旧式の大きなオーブンがあり/そこには1週間ぶりに届いた小麦粉の袋があり/そこにはガタガタ音をたてて回るミキサーがあり……》

本書に収録されたミシマさんの詩「シリアのなんとか大統領」より。版元のトランジスタ・プレスの佐藤由美子さん、そして詩人のミシマさんは、自分が妻と営むスモールプレス、サウダージ・ブックスの活動を最初期から応援してくれる二人。そして、「本は個人的な小さな声を守るもの」という出版者としての魂をいまなお教えてくれる二人。詩を愛する二人。微力ながら、尊敬する先達がつくった本を読み手に届けていくために協力したい。サウダージ・ブックスのウェブショップで佐藤さんとミシマさんの本の販売をはじめることにした。

7月某日 所用で大阪へ。小田原から新幹線各駅停車の「こだま」に乗車。「のぞみ」や「ひかり」に乗るほど、急ぐ必要はない。新大阪から地下鉄御堂筋線、南海、近鉄と電車を乗り継いで河内長野の汐ノ宮駅へ。小さな駅を降りるとずっと向こうの山の中腹に赤い塔が見える。大阪府唯一の木造の五重塔、とのこと。まだ明る夕方に、看護師で臨床哲学者の西川勝さんと会う。ご自宅にうかがい、西川さんがかかわる認知症の人と家族の会・大阪府支部でおこなう「認知症移動支援ボランティア養成講座」のことなどを詳しく聞く。

《障害者の移動支援をめぐる制度の歴史を紐解ければ、当事者たちが声を上げたことによって障害者の移動支援は少しずつ制度化されてきました。他方で、認知症の高齢者はこうした障害者の移動支援サービスをほとんど使うことができず、家族に頼ることしかできない状況です》

これは、同講座の講師で社会学者の天田城介さんが認知症の人と家族の会・大阪府支部のウェブサイトに記していることば。なるほど、世の中にはこういう課題があるのか、とはじめて知る。認知症ケアについて資料を集めて学びつつ、西川さんのすすめで、障害者の行動支援・移動支援をおこなうガイドヘルパー養成のためのテキストにも目を通している。
翌日の午後は京都へ。ある人の結婚パーティで「ハンガリーの伝統的なダンスを一緒に踊りましょう」という愉快なお誘いを某所から受けたのだ。道中では、立岩真也さんの『介助の仕事』(ちくま新書)と『人間の条件 そんなものはない』(ポプラ社)を。夜、無事にハンガリーのダンスを踊り終えて蹴上の常宿に落ち着き、西川さんから渡された本を読む。認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ発行の『ただ、そこにいる人たち——小松理虔さん 表現未満、の旅』。レッツは、「障害福祉サービス」とひと言でまとめられない、アートとケアを横断するさまざまな活動を静岡・浜松でおこなうユニークな団体。いつか訪ねたいな、と思っている。本書の編集は千十一編集室の影山裕樹さんが担当。これはレッツが発行する報告書なのだけど、現代書館から商業出版として書籍化もされているらしい。

7月某日 ウェブ版『とつとつマガジン』の「身体のエッセイ」コーナーに寄稿した「幕なしのダンス」が公開された(https://note.com/totsutotsu_dance/n/n86acac1913fc)。先月6月下旬、京都の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」にてオンラインで開催された砂連尾理さんのダンスワークショップについての文章。ダンサーの砂連尾さんと「グレイス」の高齢の入居者とのモニター越しのかかわりをみていて、ふと思いついたことを記した。書き出しは「関東では新型コロナウイルス禍に「東京五輪禍」がかさなり、身動きしにくい憂鬱なステイホームがつづく」。まったく、やれやれだぜ。

7月某日 東京西荻窪の書店・忘日舎にて、自分が主宰する読書会&トーク「やわらかくひろげる——山尾三省『アニミズムという希望』とともに」第2回を開催。詩人・山尾三省が、1999年に琉球大学で環境問題をテーマにおこなった集中講義の記録をまとめた本の読書会。僕の方から、詩人があくまで「個」の視点、「孤」の視点から自然と人間との関係を見つめていることなどを話し、出席者の感想を聞いた。ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。

7月某日 愛媛の松山へ。早朝の鎌倉方面からJRの特急「踊り子」や新幹線「こだま」を乗り継いでゆっくり西へ行くつもりが、東海道線の事故があり、あわただしくルート変更。新横浜から「のぞみ」で岡山へむかい、特急「しおかぜ」に乗り換えて瀬戸内海を渡って四国入り。鞄には、東松照明写真集『新編 太陽の鉛筆』(赤々舎)など写真集と写真論の本がぎっしりとつまっている。今回の松山行きは来年2022年2月、サウダージ・ブックスより刊行予定の宮脇慎太郎写真集の打合せをおこなうため。写真家の宮脇慎太郎、アートディレクションとデザインをお願いした大池翼さん、松山の松栄印刷所の桝田屋昭子さん、高松了吾さん、いずれも四国在住の本作りの仲間と一堂に会し、来るべき写真集の仕様や用紙について議論。夕方早めに解散。コロナ禍の中でも会わなければならない人と会わなければならない時であれば、可能な対策をとった上で会いに行く。人間はコロナ禍のみを生きているわけではなく、「人生」を生きているのだから。自分の人生から、「会わなければならない人」を抜きにすることはやはりできない。心配や不安は残るとしても。いまのところそんなふうに考えている。
翌朝は、松山駅前の宿からタクシーで松山観光港に向かい、クルーズフェリーで広島へ。瀬戸内海汽船の「シーパセオ号」に乗船。鉄人28号のようないかつい色合いと質感の船体は趣味じゃないが、座席も設備もきれいで快適だ。客は少ない。天気が良く、デッキに上がれば嘘のような青い空、青い海、青い影。ひさしぶりに、贅沢な瀬戸内旅の時間をあじわった。広島港から路面電車に乗り換えて、市内の本と器の店READAN DEATへ。買い物をしてレジへ商品を持っていくと、「去年も、Tシャツを買ってくださいましたよね」と店主の清政光博さんに言われた。そう年に1回、夏にこのお店で服を買うのが恒例になっている。購入したのは、HOLY’S 保里尚美さんの働くセーターTシャツ「a sweater」。かっこよくて一目惚れ。ほしかった植本一子さんの本『個人的な三ヶ月』も買うことができて満足。
READAN DEATでは、広島在住の画家のnakabanさんと待ち合わせをしていた。県内の福山にある本屋UNLEARNのギャラリーで「nakaban装画展」を開催しているので、一緒に訪ねることにしたのだ。これは、サウダージ・ブックスから刊行した拙著『読むことの風』の刊行記念として、装画・本文イラストに使用したnakabanさんの「コップの絵」のシリーズを展示するという企画。電車の車内でnakabanさんと近況を語り合う。コロナ禍の中で犠牲になっていることのひとつは、人間の多様なものの見方・認識ではないか、という話をした。世界を唯一のものとして世界化して押し付ける言論にはなんであっても抗いたい。本屋UNLEARNの店主の田中典晶さんが、JRの福山駅まで親切にも銀色の自動車で迎えに来てくれた。2キロをほど走って閑静な住宅地や学校の敷地を抜け、坂道を上がり眺めの良い丘の上へ。そこに立つ古い木造の洋館をリノベーションし、カフェやエステなども入る複合施設の一角にUNLEARNがある。本屋さんも展示スペースも想像以上にすてきな場所だった。自分は朝早くからの長旅のつかれもあり、やや休憩モード。木のぬくもりを感じる店内で心地よい静かな時間の流れをぼんやり感じながらおしゃべりしているうちに、あっというまに時間切れに。田中さんが本好きのお客さんと制作したというZine『本と暮らし』の創刊準備号をいただいた。

《もともと私が本屋をやろうと思ったことの理由の一つに、安心して孤独になれる場所をつくりたいということがあった。日々の身がすり減るような生活の中では、その人が「自分になる」うえで、安心して一人になれる時間というのが欠かせないはずである》

「本屋のレジに座りながら」と題したエッセイのなかで、田中さんが記す一節に深く共感した。本作りの仕事をするものとして、自分もまた、書物を通じて何よりもそうした「一人になれる時間」を届けたいと願っているからだ。帰りも、田中さんに車で福山駅まで送ってもらう。夕方の駅の構内であわただしくnakabanさんとも別れ、九州・山陽新幹線「さくら」に乗車。ゆったりとしたシートに腰を沈め、車内では植本一子さん『個人的な三ヶ月』を読み耽る。ジャンルとしては日記文学、というのだろうか。植本さんが家族とその周辺にいる人々との関わり合いの日々を記録することばは、主食のようにからだ全体にしみわたる滋味がある。ここのところ『かなわない』(タバブックス)をはじめとする植本さんの別の著作も読み返しているのだが、彼女のことばは、コロナの渦中にいるいまの自分にとって、ソウルフードならぬ「ソウルワード」となりつつある。主食が本来、うまい・まずいといった美食的な価値判断とは関係ないように、文章表現が巧みであるとかそうでないとかいうことを越えて、ことばが直接こころの糧となる。そう感じるのは、なぜだろう。新幹線が途中停車した岡山駅で、車窓越しに巨大な火の玉が燃え上がるような真っ赤な落日をみた。