トマトの汁が残した跡

イリナ・グリゴレ

町に引っ越してからは、金曜日の午後になると学校が終わった後に駅で切符を買って、家族で列車に乗って故郷に帰っていた。駅のイメージと匂いが私の身体に今でも残っている。音と声が響く大きな建物に、秋と冬の人の汗と熱で煙のようなものが見え、駅だけ薄い霧にかかっているようだった。国は革命で自由主義になったけれど、風景は何年経っても社会主義のままだった。今でも、あの雰囲気が私の身体にあって、古い雑巾の匂いのように消えない。あの雰囲気と背景を生きた人たちは一生身体から消えないだろう。服の雰囲気にも現れるだろう。

遠く離れていても、今でも普段着の時は子供のときに来ていた服の組み合わせを無意識に着ている。パジャマの上にワンピース、その上に長袖のセーターを着る。ちょうどこの季節、寒くなっとき家で着ていた組み合わせだ。色は三着ともちがっている。東ヨーロッパの田舎に行くとみる配色。なぜなのか、すこし考えてみると、東ヨーロッパの人々の身体の感覚につながった。

子供のとき、一度だけ自分で色鮮やかな布を縫ってスカートを作ってみたが、結局はバラバラな色の服ばかり着ていた。服もあまりなかった時代だった。春の復活際の前とお正月だけは新しい服と靴を買ってもらうけれど、基本的には近所と親戚からのお下がりを着る。様々なサイズと色の服をお下がりでもらうので、組み合わせがすごいことになる。髪はいつも短く切られていた。女の子なのに。いつも長い髪の毛に憧れていたが、あるときシラミを学校でうつされ、それからずっと髪の毛は短いままだった。そのころの写真はあまり残っていないが、見ると今の自分とは別人のようだ。あの時、自分という感覚がまったくなかった。鏡をみても私が誰かわからないぐらい自分というものが嫌になっていた。

自分はだれか、身体はどこまでなのかわからないまま大きくなった。暗闇の中で人間が自分の感覚を無くすのとおなじように、社会主義の国の人々では自分を無くす。暗い中、自分が動いているかどうかわからない。歴史に残らない人々の人生はあの駅の霧のようだ。そして人工的に作られた町から、田舎へ帰る列車はどれだけ私を助けたのか。

列車が停まる村の駅で、乗り降りする人を窓から観察していた。その路線は、首都ブカレストと私の家族が住んでいたブルガリア国境の町の間にできた初めての鉄道だった。村の駅で降りる人々は、私たちとおなじように町の工場などで働く若い家族だ。私たちは、金曜日に団地から広い農家に戻り、実家の畑仕事を手伝い、月曜日の朝にまた工場と学校に戻るのだった。

平日は、工場の仕事を終えるとテレビの前に座り何時間もアメリカの映画をVHSで繰り返しみる。革命後に激しいインフレになった時、父はタンス預金で車を買うのを諦めて、VHSのビデオデッキを買ってきた。レンタルショップも近くにできたので、ずっとアメリカの映画を見ていた。たまにビデオに録画していた民謡のコンサートとMTVのヒットソングをかけ、同じ工場で働く近所の団地に住んでいる夫婦とホームパーティーをした。田舎で作ったワインをポリタンクに詰めて団地の自宅に持ち帰り、ちょうど次の金曜日までに飲み切っていた。お風呂のお湯は切れていたし、冬場はヒーターが壊れていた。そこは社会主義のときとおなじだったけれども、VHSのおかげで「自由主義」を満喫していた。

でも、週末になってあの列車に乗ると、町を出た後に広がる畑と森の景色が安心を与えてくれた。人が本当に町に固まって住んでいいのかと疑うぐらい森は広く、季節ごとに色が変わって綺麗だった。人の身体というものは、無理矢理に大勢の人々が町というところに住むようにできていないのかもしれない。

だれでも孤独の暗みを感じていた。別々の村から人が集まっていて、文化のないところに閉じ込められていた。身体は小さくなって、大きくなって、バラバラになる。統合失調症になるような感覚だった。

暗闇のなかでは、身体の感覚は薄くなるが、味を感じる。苦味を感じることができる。私が一番苦しかった時、顔が暗くなって、口の中に苦い味が広がった。でも私は田舎に戻るととても明るい子なのに、あの場所にいた時はものすごく暗かった。

あのときの私は、統合失調症になる直前だったと思う。自分の身体を少しずつ失っていた。不思議な暗いベールに囲まれていた。週末が終わるとまた列車で町に戻る。もう二度と戻れないと毎回思っていたのに。あの町の工場は部品と機械ではなく今で言えば巨大資本主義ミルクの工房だった。私と周りの人の純粋さと生きる喜びを吸い取っていた。私は本来の純粋さに帰りたい。この身体で毎日新しい世界を観察できるチャンスがだれにでもあると思ったから、逃げる決断をしたのだ。

町の駅に列車が到着しても私の家族を含めて、何人かはすぐに降りない。夜間は引き込み線まで回送するために、列車は町の端っこまで移動していく。そこが私たちの住んでいる団地に近いのだ。ホームのない引き込み線を降りて放置されている太いパイプの間を通ると、団地がみえる。回送運転に時間がかかるので駅から歩くのと結局は変わらないが、田舎から持って帰ってきたワインや野菜などの荷物がものすごく重いので、少しでも負担を減らすためずっと列車が動くまで待つのだった。私にとって、あの列車が一回切り返すのを待つのは、厳粛な儀礼のようであって、私たちをあの暗闇に入るために準備させるように感じた。レールのきしむ音とゆっくり、ゆっくり戻る動き。さっきまで前向きの椅子に座っていたから、ゆっくりゆっくり、椅子ごと世界が戻る感覚。映画の一コマのように。ギリギリまで袋に入れられたピーマンが袋から落ち、トマトの潰れた汁も列車の床に跡を残しながら逆方向に動く。窓から夕焼けの光が入って、世界は逆戻り。そんな20分間だった。私はあの列車の茶色いビニールの座席に入った光とともに溶けてしまう。今になって、あの列車の床に逆戻りしていた潰れたトマトの汁のように何回も跡を残しながらフィルムを逆に戻すことができると思うようになった。

夢の中で、きらきら光るエメラルドグリーンの海が現れた。私と何人か岩を登って上から海を見通す。綺麗だ。海の中に光るイカがたくさん泳いでいる。私の身体はあの海まで届く気がした。あの海と同じように広く広がって、背景の一部になっているが、突然、私は一緒に来ていた人の背中にくっついて、おんぶされる。私という細胞の集合がちいさな子供になっていた。夢のなかでも、あの瞬間に私の身体の感覚がはっきりした。そうか、自分は他の人の身体に触れると自分の身体に戻れるのだと気づいた。

暗闇の中で、どこにあるのかわからない状態の時に、触られることによって、自分の身体の感覚が戻る。不思議にこの感覚が今の世界では一番欠けている。夜中に夢からさめて娘たちの小さな身体を触ると、温かいなと思った。この感覚があの暗やみの中に生きていた若い自分が何回も助けられたものだ。初恋の相手の手が私の手を触る瞬間、私が泣く時に親友の手が私の背中を触る瞬間、父が暴れる時私が気絶して母が私の顔をずっと触る手、朝まで飲みすぎで吐いている父の背中をなでる弟の手、祖母と手を繋いで村の修道院まで日曜日の礼拝に行った。人間ってお互いに触ることによって自分の身体の確認をする。細胞の交換が行われるに違いない。孤独を感じたとき、子供と手を繋いで歩く。この感覚にいつも戻れる自分がいる。