透明袋に入っていた金魚

イリナ・グリゴレ

18歳になった頃の自分を思い出すと、今でも理解できないことがたくさんある。高校時代は同級生たちと離れて過ごした気がする。いつも自分と周りの子との距離をとって生きていた。人のことより本が好きだったから。ちょうどそのときガブリエル・ガルシア=マルケスの小説とロルカの詩集を友達の母親から借りて繰り返し読んでいた。授業中もずっと読んで、家に帰っても、夜遅くまで読んで、朝起きたらまた読み続ける。

すると、読めば読むほど自分の言葉を失う現象に気づかされた。たとえば、文学の授業では読んだ本について分析したり、説明したり、クラスの前で議論するが、私はそれが一切できなかった。読んでいるうちにトランスのような状態になって、ただただ本の世界に入ってしまう。今にしてみれば、高校生にしか体験できないことを味わえなかったし、周りとのコミュニケーションもうまくいかなかった。高校を卒業する直前に同じクラスにいた子から「あなたと友達になりたかったがどうにもならなかった」といわれた時などは、初めてその子を見た気がして、自分の冷たさにびっくりした。私はこんな冷たい人ではないはずだと思ったが、周りから見ればそうだったに違いない。

あのころから、自分は周りの世界にとても敏感だった。住んでいた団地のドアから入る光、匂い、音の影響を受けすぎたのか、微細な感覚の持ち主だった。本の影響もあった。映画もたくさん見ていたから身体感覚は何倍も鋭くなって不思議な夢を見続けるという感覚が続いていた。自分の内面の世界にとても疲れていたので、周りとの交流に興味がないというより、余裕がなかった。私の見た目もすごかった。当時はあまり個性が認められなかったが、私だけはジプシーに憧れていたので、ジプシーの女性のファッションを真似て、長い、色鮮やかなスカートに髪の毛をいつも二つに分けて三つ編みにしていた。エミール・クストリッツァの映画をいつも見ていたが、いくら映画を見てもそれについて話す相手がいなかったので、自分の頭の中でいろんなシーンを見直して楽しんでいた。どうやって自分を表現したらいいのか、まだ検討していた途中で、一人ぼっちだった。自分の家族と周りにアートに興味がある人はほとんどいなかった。感じていたことを表現する方法は見つからないままだった。

18歳の誕生日を迎えた時、父は私は望んでいたビデオカメラを買ってきてくれた。カメラといっても、古いVHSのカメラなので、撮った映像をどうやって編集するのかわからない。撮りっぱなしのテープをどこかにおいておくだけだった。今のようにどこでもなんでも映像が取れたら、私も自分の表現の道をもっと磨いていたはずだ。やっと、今の時代はあの時に私が望んでいた世界になってきた。どこでも映像を撮れる。すぐ編集できるし、自由に表現できるからだ。

ルーマニアの社会主義の独裁政治に台無しにされた後の地方の小さな町で生きた私を思い出すと、あまりにも可哀そうに思う。ポスト社会主義を生きる自分がいたことに対して複雑な気持ちになる。チャウシェスクの独裁時代を生きていた私の親と比べてまだましだとは思っても、やはり、あのくらい、ねばねばしたトランジションの時代を思い出すと気持ちが悪くなる。まず父の働いている工場が潰れた。新しい仕事をするようになると、ビジネスができる人とできない人の差がものすごくできて、いろんな意味で貧しかった。これでもミドルクラスだ。団地の前のゴミ置き場で食べ物を探す小さな子供たちを毎日団地の窓から見ていた。これって、資本主義だと思いながら、なにもしてあげられないままただただ見ていた。小学校の先生だった母のクラスにそんな子がたくさんいて、ごみ集会所の前で目を合わせると「先生、他の子に言わないでください」と可哀そうな声で言った。母は一生懸命私たちの小さくなった服を集めて、生徒たちにあげていた。町という人の集まりとはこういう格差を生み出す場所なのだ。

18歳の誕生日の過ごし方も個性的だった。町から離れたところ、周りになにもない畑の真ん中に一本の大きな樫の木があるのを知っていたので、あの木の下で一人ワインを飲みたいと親に言った。父は私を連れていってくれて、私がワインを飲み終わるまで何かの儀式のように車の中で待っていた。あの木のようにまっすぐに、なにがあっても一人で自分の道を進もう、という願いからだったのだが、周りの友達はどの子も18歳の誕生日にはパーティーをやっていたので、私の行いは白い目で見られた。

あの日にもらったVHSのカメラで様々な映像を撮った。編集できる機会がなかったので、自分で撮ったイメージを見ることができず、どこかにしまってあった。とてもシュールな映画を撮り始めたことを、なんとなく覚えている。生きた金魚を水が入った透明のプラスチック製容器に入れ、同じ高校の同級生の男子友達に、団地と工場だらけの町を歩かせるという映像だった。今にしてみれば、とても不思議なもので、なぜあの時その映像を撮りたかったのもわからない。日本に来てしばらくして、共通の友達から連絡があった。彼がひどい交通事故で亡くなったという不幸な知らせだった。涙がとまらなかった。

彼と交わした言葉より、あの日ずっと魂のように金魚を手にとって団地と工場だらけの町を歩いている映像が私の頭から離れない。私が最初に撮った映像はそれだったので、彼が今はこの世にいないとは思い難い。彼はあの映像のなかにずっといる。彼の身体がもう存在しなくても、私と彼しか知らない映像の中にいるので、時空間を通して彼は永遠にいる。こうしてみると、映像とはすごい力がある気がする。

今の時代は映像を誰でも、どこでも撮れるので、この強大アーカイブが様々な時空間で残される。私も最近では毎日のように動画を撮りたくなる。動いているイメージは生きていると感じるからだ。ものと人間の本質が現れている気がする。カメラは私の身体の一部になっている。私はこの世界をもっと詳しく、細かく見たい。カメラは私の観察の助けになる気もする。なんとなく、世界はいい方向に向かっていると感じる時もある。

アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』という映画を久しぶりに見た。世界の終わりがくるので自分の家族を7年の間、家に閉じ込める男性の話がある。ある女性聖人が近くに生きていたイタリアの温泉街で、男性はろうそくの火が消えないまま温泉を渡ったら世界が救われると信じて何度もやろうとしていたが周りから止められた。彼はイカれた人間だと思われているが、本質として世界を助けようとした。彼はイエスの言葉をよく理解し、一人で自分を救うということはできない、周りの人を一緒に救わないと世界は救われないと信じていたのだ。タルコフスキー監督自身、映像は祈りだと言いながら映画を作っていた。彼は思想家なのだ。『ノスタルジア』のメッセージは明らかだ、人類を救うには種のように小さくても信念が必要だ。

最近見た夢の中で、私がある古い建物の階段を上がっていたら、誰かが突然私の手を取って上まで上がるのを手伝ってくれた。

18歳の時の自分に戻れるとしたら、私と友達になろうとした子の話を聞いて、一緒に何か楽しいことをし、一緒に笑うだろう。今の時代では100歳まで生きると言われるので、私は18歳でやりたくて出来なかったことを60歳頃からやる。たとえば、人とともに本格的に踊り始めるし、人とともに映画を作る。これからは、自分の身体が透明になるまで世界に開いていく。