個人の自由

北村周一

きょうは、とってもタバコが吸いたい。
ともあれ、タバコを吸いたいと欲する。
欲したおもいが、体内を巡る。
この欲求はなかなか消えようとしない。
タバコとは、単価の安い、欲求(不満)解消の道具である。
火をつけて吸う。
咽や頭が痛くとも、隣人に迷惑だとわかっていても、
灰や燃えカスが危険だと知りつつも、
なにより喫煙タイムは無駄な時間だとわかっていても、
吸わずにいられない。
かくして、一本のタバコを吸いおえて、一気にもみ消すことの悦楽。
この瞬時に消せるところが素晴らしい。
道具たる所以でもある。
 
欲求がまずは芽生え、そしてその欲求を消し去る。
かかる数分の快楽は極めて効果が高いために、また大きな代償を払うことにもなる。
喫煙を個人の習慣や嗜好性とのみとらえ、
禁煙を個人の意志力の強弱と結びつけるこの国では、
世界を敵にまわす覚悟のある、タバコ農家と族政治家と企業人が、
いまもなお健在であることを気づかせる。

習慣的喫煙者の禁煙は難しい。
喫煙は二十歳になってから、と喫煙マナーが声高に叫ばれれば叫ばれるほど、
「高倉健」の孤高と反骨の姿は美しく力強くかがやく。
こどもが親からの独立を宣言するかのごとき喫煙のはじまりは、
企業によるイメージ広告の産物にすぎない。
数年後には、こどもは立派な喫煙者となり、
しかも最初のブランドにこだわる真面目なスモーカーに変身をとげる。

一方喫煙は、こどもだけでなくおとなにとってもデカダンをにおわせる。
禁煙イコール健康指向イメージになじめないおとなはいつの時代もそれなりにいる。
200種類を越える有害化学物質を体内に摂り込むことは、
自己の意志であるとはいえ、寿命を縮める姿勢はたしかに退廃的だ。
しかしながら、既成の価値・道徳に反する美を追い求めた芸術の傾向(辞林21)を、
デカダンスと呼ぶもうひとつの意味ととらえてみるなら、
今日の喫煙スタイルはいかにも格好悪い。

いま一本のタバコを止めることのできない者は、
いや、いま一本のタバコは我慢しよう、
我慢したとしてもその次の一本、
またその次の一本の欲求を空振りにすることはできるかと想像すると、
果てしない欲望の渦が身を取り囲み・・・・・、
この先いつかはその欲求に克てなくなるときが来るだろうことにおもい至り、
それならいまの我慢は何の役にも立たないではないか、
ならばこの一本を吸うことにしよう・・・・・・・。

おもうに、これからの先のことにおもいを巡らせることを中断してみたい。
いまひとときの我慢ですむからだ。
きょう一日の我慢ではなく、いま一本の欲求が通りすぎてゆくのを待つこと。
かくなるひかえめでやや地味な決断は、いささか説得力を欠くようにおもわれるけれど、
個の本来の姿勢に鑑みれば、少なからず能動的に生きているとはいえまいか。
 

*2000年8月に書いた文章を僅かばかり手直ししました。
18年の間に、タバコを取り巻く環境は、幾分変化したように感じているからです。