灰いろの水のはじまり(その2)

北村周一

絵は、大なり小なり、一本の絵具のチューブからはじまると考えられています。
むろんその前に、準備しなければならないことはいくつもあります。
たとえば木枠、そのサイズ、材質、組立て方など、さらにキャンバスも同じことがいえます。
筆や刷毛の形状も、悩ましいところです。
でもここでは、キャンバスを中心とした、絵具と絵との関係についてのみ、思考を巡らしてみたいと思います。

哲学用語ですが、三段論法という推論の形式があります。
 「植物は生物なり」(大前提)
 「松は植物なり」(小前提)
 「ゆえに松は生物なり」(結論)
この論法を援用してみることにしましょう。
材料は、絵具と筆とパレットと、そして画布の四つです。

まずは、絵筆(の絵具)は絵(の絵具)なり
ところで、パレット(の絵具)は絵筆(の絵具)なり
ゆえに、パレット(の絵具)は絵(の絵具)なり
ということになります。
絵筆に付着した絵具は、たしかに画布上の痕跡となりうるし、
パレットの上に絞り出された数々の絵具は、絵筆によって画布に運ばれます。
したがってパレット上の絵具は、画布上の絵具に相違ありません。

しかしこの推論はどこかおかしい。
チューブから絞り出された絵具は、解油などとともに、絵筆によってパレット上で調合されることになります。このときの絵具は、すでにチューブの中の絵具とは異なります。
さらに画布上で、さまざまな技法織りなしたのちの絵具の痕跡は、パレットの上の絵具とは、似て非なるものといわねばなりません。

閑話休題
キャンバスそれ自体をパレットにしてしまうアイデアが、この論法では、台無しです。
絵となるべき大きなキャンバスと、手許に置かれたパレット代わりの、比較的小さなキャンバスとを、同一の視点で鑑みることには無理があるのかもしれません。
それでは、えがくべき大きなキャンバスを視野から外して、小さなキャンバスが、パレットでありながら、そのまま絵になるような作法はあるのかないのか、試してみたくなりました。

とはいえ、パレットである以上、絵となるためのなにがしかの起爆剤が必要ではないかと思い当たりました。
パレット代わりのキャンバスが、いつかは絵になるように仕向ける方法、すなわちパレットの上の出来事が、一枚の絵となるまでに飛躍する方途を考えてみたのでした。(つづく)