続・パンとサーカス、または回想のTOKYO1964

北村周一

 旅に出でよ食べに出でよの号令の下 つりの駄賃で見る格闘技

トーチ片手に、東海道をひた走る、聖火ランナーの一群を、沿道に見送った興奮を、いまだわすれずにいる。
昭和39年、もう10月になっていただろうか。
当時小学6年生のわれわれは、授業の一環として、ヒノマルの小旗手に手にふりながら、若き聖火ランナーたちに声援を送った。
秋の日差しの中、走者たちの一群は、神々しいばかりにかがやいて見えた。
国道一号線を、清水駅方向からやって来て、興津駅方向へ走り去ってゆく光景は、一生の宝物のように思えた。
東京オリンピックは、すでに始まっていたのである。
待望の東海道新幹線も開通していたし、あとは10月10日の開会式を待つだけだった。
われわれは熱狂して、テレビの前に陣取った。
15日間毎日である。
オリンピック放映中は、通常の授業がないので、教室でテレビ観戦に明け暮れた。
記念切手も、全シリーズ2シートずつ手に入れた。
記念絵葉書も全シリーズ収集した。

とはいえ、2週間は短い。
あっという間に、オリンピックの季節は過ぎ去り、ほどなく教室も日常を取り戻した。
と思っていたら、学校の運動会の練習が始まると、様子ががらりと変わった。
目に焼き付いた、オリンピックの光景が、フラッシュバックするらしく、今までとは打って変わって、本格的になったのである。
国旗掲揚のあり方も、行進の仕方も、鼓笛隊の動作一般も、それらしく改められた。
それは、中学になってもつづいた。

東京オリンピックが終わってしばらくして、近所に私設の体育館が出来上がり、それを記念して、体操の五輪選手が招待された。
むろん日本選手だけだったが、あのオリンピックの名演技が見られると思って、そのお披露目会には、関係者やその家族がいっぱい集まった。
選手たちは、黙々と演技を披露していた。
男女を通じて、テレビの画面で見知っていた選手は、残念ながら遠藤選手だけだった。
その遠藤選手は健闘していたけれど、ほかの選手は、子どもの目にも、疲れているようにしか見えなかった。失敗が多かったのである。
間近で、五輪選手のほんものの演技をながめながら、だんだん切なくなってしまった。
こうやって、日本中を行脚しているのかもしれないと思ったからである。

最近になって、パンとサーカス、という言葉を知った。
パンはともかく、サーカスは一般に、曲芸とか、見世物とか訳されるけれど、この場合は少し違うらしい。むしろ、サーキットに近いらしい。
つまり円形の闘技場、そこで営まれるさまざまな競技、すなわちスポーツ観戦をいうらしい。

 日の出づるくにのまぼろし夢うつつ民を惑わすパンとサーカス
 理念なきその場しのぎのいましめに疲れ果てつつ梅雨入りを待つ