そろりそろり

吉田純子

新橋で飲むのが好きだ。おとなりの銀座とはちょっと違い、世の中の流れや人の顔色をうかがう必要のない、ゆるやかな時間が流れている。

なかでも、烏森神社の参道に並ぶお店は格別にいい。人懐こいイラン人の店員が迎えてくれるビストロ。5人ほどしか入りそうにない、カウンターのみのしっぽり居酒屋。狭い入り口からは想像もつかないほど、ソファがゆったりとしつらえられた昔ながらのバー。

いずれも少し割高だが、清潔で、背伸びした大人の時間が過ごせる。「最近、焦ってない?」「頑張り方、間違えてるんじゃないの?」などと、ちょっと立ち止まり、酒のグラスを媒介に、いまの自分と対話することができる。

その一角にある「菊姫」という店が、昨年5月に亡くなった音楽家の冨田勲さんは好きだった。飲むならここ、と完全に決めていた。

名前のとおり、石川県の銘酒「菊姫」しか置いていない。純米吟醸、ひやおろし、山廃純米。ありとあらゆる種類の「菊姫」を飲み比べることができる。お酒と一緒に運ばれてくるのが、やはり石川、大野川の汲み水。濃い緑色の瓶に入れ、氷を張った木桶とともに運ばれてくる。この水の、五臓六腑への浸透性は驚くほど高い。お酒と一緒にくいくいと飲み干せる。酒を翌日に残さない。同郷の名サポーターとでも呼ぶべきか。

ここの名物のひとつが「にごり」である。冨田さんと行く時は、誰でもまずそれをいただく「しきたり」があった。理由はないが、何となく定着していた「しきたり」である。にごりだから当然だが、白い糟が下に沈殿し、上は澄み切って透明になっている。冨田さんと飲むときは、とにかく瓶を揺らさないように気を付けて、「そろりそろり」を合言葉に、その上澄みだけをまず、静かにいただく。「ああ、おいしい」。シンセサイザーをいじっているときとはまた別の、子供のようなあどけない表情になった。

しかし、当然のことではあるが、飲み続けると、沈殿した糟がゆっくりと混じってくる。底のあたりになってくると真っ白で、さすがに舌がざらざらしてくる。「そろりそろり」の上澄みに、ゆっくりと糟が混じり、味が刻々と変わってゆく。この贅沢な時間の流れを、冨田さんはとても大切に味わっていた。

ある時、レコード会社の冨田さんの担当プロデューサーと2人だけで、「菊姫」のカウンターに座ったことがあった。「とりあえず、にごり」と頼んだら、いつもの女将が寄ってきた。てきぱきと接客をしつつ、よく笑い、人肌感のある気配りができる。新橋の女将はこうでなくちゃいけない。冨田さんもお気に入りだった女将である。

「あれねえ、ほんとのにごりの飲み方じゃないのよ。上澄みは確かに美味しいかもしれないけど、その下のどろどろのところを飲まされるあなたたちがいつも気の毒で。にごりってのは本来、よく振って飲むものなの。でもね、センセイが『そろりそろり』って言うもんだから。あなたたちも大変よね」
いかにも「鬼の居ぬ間に」という感じのヒソヒソ口調に、厨房の料理人までが噴き出した。
「じゃあ、きょうは振っちゃいますか!」。我々は盛大に瓶を振り回し、罪悪感までも振り払い、女将がいうところの「本来のにごり」を存分に堪能した。むろん、瓶の最後の一滴まで。

でも、その後も冨田さんが同席するときは、やっぱり我々は厳粛に「そろりそろり」をやった。ざらざらした残り糟まで、できるかぎり飲み(舐め)干した。冨田さんの「そろりそろり」の時間を守ることは、私たちにとって、とても大切で幸福なミッションだった。「振るほうが正しいのに」などと、ヤボなことを言う人はこの店には誰ひとりいなかった。

お酒を誰かと飲んでいて楽しいのは、その人だけの時間の流れ、そしてその人と自分との「違い」が見えてくるときだ。仕事や家庭では、そういうものが何らかの関係のひずみになったりするものだが、良き酒飲みこそは、そうした違いをいとおしみ、酒の肴にする。誰かの時間を大切にすることは、自分の時間をも丁寧に愛すること。良き酒飲みと過ごす時だけは、ゆっくりと倦んでゆく酒場の空気が桃源郷に感じられる。

いまは、「にごり」はとことん振ってから飲んでいる。冨田さんも、肩をすくめながら許してくれているだろうと思う。