バベットの料理と道元の料理(晩年通信その1)

室謙二

 私はいつも料理の本と、食べ物の本を読んできた。
 ティーンエージャーのころから料理が好きだったし、食べるのも、もちろん好きであった。三十年以上前に、友人の奥さんが「夫は食べ物に興味がないの。というより味の違いが分からないのよ。料理をする気力が失せるわ」と言っていて、そういう人もいるのかと驚いた。
 食べ物の本で、あれがおいしい、あれがおいしくない、とあげつらうのものには興味がない。妻に料理を作らせてイロイロと言っているのは、もっと気にいらない。自分でつくらなくてはだめだよ、というのが私のスタンスである。

 生まれて初めておぼえた料理は、タマゴ料理であった。中学生になったばかりころ、十三歳年上の兄が教えてくれた。
 フライパンを熱してオイルを落として、タマゴをひとつ割りいれた。「ケンジ、これで目玉焼きができる。もっとも火を強くしてこんがりとするか、黄身をどれだけ固くするか、適当なところで裏返すとか。あるいは水を落として蒸し焼きにするとか、またはこうやって」とお箸で黄身のところをクルクルとこわして、「こういうのもありだな」と言った。「もっとお箸を白身の外の方までクルクルしたら、ほら炒りタマゴになるだろ。同じ炒りタマゴだって、どれだけ火を通すか、どれだけかき回すかで、味がちがうのだよ」と教えてくれた。
 そのとおり、同じフライパンに同じオイルにタマゴひとつとお箸で、いろんなタマゴ料理ができて、そしていずれも、それぞれ味が違うのである。中学生の私はこのとに驚いた。それいらい私は食べるだけではなくて、料理人である。

 私の料理は早いしおいしい

 結婚いらい、料理は主に私の仕事である。妻が言うには「ケンジは料理が早いでしょ。それにおいしい。第一、料理が好きだから」と言って、たまにしか料理をしなかった。
 だから私は、食べ物の本と料理の本がすきなのである。それは私の友人みたいなものだ。そして「バベットの晩餐」(ちくま文庫)は、私の最も好きな本のひとつである。またその映画もある。重点の置きかたが違う。私は映画のほうが好きかもしれない。

 バベットは、パリの有名料理店の有名なシェフであった。父親と夫は一八七一年のパリ・コミューンで立ち上がり、反革命派にバリケードで撃ち殺された。家族を殺され、高級レストランのお客であったパペットの料理を愛した人たちはコミューン派に殺されで、パペットは人の紹介で、本ではノルウェーの田舎、映画ではデンマークになっている、の厳格なプロテスタント派の村に逃げてきた。家族もいないしシェフでもなく、彼女の有名な料理を食べる客もいない。そして過疎の村の、すでになくなった司祭の娘二人につかえて、単純な田舎料理と日々の生活で十四年がたった。
 そしてある日、パリから、バベットが買っていた宝くじがあたったという知らせが届く。そのお金を全部使って、厳格で禁欲的なプロテスタント一派の村人のために料理をするのがこの物語である。

 おいしいと感じることは罪である

 「目の前に置かれたものは何でも感謝して召し上がれ。神さまのおつくりになったものを頂いて、謙虚な気持ちで食べるのです。罪深い喜びなんぞは味わったりせずに」というM.F.K.フィッシャー夫人の追憶の言葉を、本間千枝子は「アメリカの食卓」(文春文庫)で引用している。また一九世紀末イギリスのウォルター・スコットの父親が、自分の子供が「何とおいしいスープ!そうですねお父様、ほんとうにおいしい!」と言ったことが気に入らず、おいしくもなかったスープにコップ一杯の水をつぎ込んだ。という話も引用している。おいしいと思うことは、感覚に溺れることは、厳格なプロテスタントには罪だったのである。「バベットの晩餐」にでてくるプロテスタントは、そのような人々であった。しかしバベットは村の伝統にのっとって、シンプルだが、味わいのある料理をつくりつづける。
 そして村のプロテスタント一派を始めた司祭の誕生百年記念がやってくる。そのときに作るバベットが作る特別料理、パリのレストランと同じ晩餐を、老人たちはおいしく感じないように食べようとする。おいしいと感じるのは、感覚に溺れるのは、罪なのだから。

 料理の本でもう一つ好きなものは、道元の「典座教訓(てんぞきょうくん)」(講談社学術文庫)で、道元は一二〇〇年から四年間の中国留学で、僧院の典座(料理担当僧侶)の役割を知る。もともと、ブッダも弟子たちも、料理は作らなかった。托鉢で人々から食べ物をもらって、飢えをしのいだのである。二十年以上まえに、ラオスのルアンプラバンに行ったことがある。夜明け前から人びとは起きて料理をする。そのうち僧侶たちが列をなして現れる。人びとは料理したものを持ち、家のまえの通りで待っている。
 私もまたそこであった中年の男性と話をして、次の日の夜明け前からいっしょに料理をした。その食べ物を持って人びとの列に加わって、僧たちを待っていた。
 ルアンプラバンであった十四歳の学生僧は、ぼくはいつもお腹がすいていると言っていた。私が、もし人びとが僧たちに食べ物をくれなかったらどうするか?と聞いたら、「私たちは死ぬだろう」と言っていた。料理をするオプションは、そのとき十四歳の青年僧にはなかった。インド仏教である。しかし仏教が中国にやってきて、僧院の中で仏教と料理が結びつく。そして典座があらわれた。

 料理は禅の修行

 道元は二十三歳であった。中国に着いたがまだ船の中にいるときに、阿育王寺(あしょうかおうじ)の典座が、日本からの椎茸を買いに来た。道元はその典座を自室に招き、お茶を飲んで話をする。今日は二十数キロ離れた僧院に帰らずに、ここに泊まっていかないかと道元はすすめる。「阿育王山のような大寺には、何人もの典座がいるでしょう。あなたが料理しなくても困らないはずです」という道元に、典座は「これは老年になってはじめて得た典座の職である、修行である。他人に任せることはできない」と言う。
 道元は、修行は座禅をして公案の意味を知ることだと思っているのだが、典座は大笑いして、「外国の好人、いまだ弁道を了得せず、いまだ文字を知得せず」と言うのであった。「仏教修行というものを理解していない」、「文字の意味がわかっていない」と言われて、若い道元は、典座が重要な修行らしいと知ったのだった。

 「典座経典」には仏教とはなにか、典座の意味、役割、典座の仕事、コメの洗い方から食材の切り方、食器類の整理の仕方などが書かれている。僧院というコミュニティのために、おいしくて修行をたすける料理をすること。ここでは料理が仏教である。それを道元は学んだのである。道元は別の著作(赴粥飯法(ふしゅくはんぽう))で維摩経を引用して、食と法(教え)は等であると言っている。
 もっとも「典座教訓」は読みにくい。その中の仏教についての記述などは、道元の他の著作と同じように難しい。「典座経典」の料理と教えを知りたいなら、水上勉の「土を喰う日々」のほうがいいね。水上勉が「典座経典」を引用しながら、軽井沢で畑を耕し料理をする生活が描かれている。オリジナルを読むより、ずっとわかりやすい。私は「土を喰う日々」を台所に持ち込み、読みながら料理したので、この本には、食べ物の跡がアチラコチラについている。

 コミュニティと宇宙の中の料理

 典座は僧院というコミュニティの中の料理人だが、道元が典座であったことはない。もっとも十代になってすぐに寺に入ったので、料理の準備と料理と洗い物とか食器をしまうとかはしただろう。その経験が「典座教訓」のなかに読み取れる。仏教という宗教と、料理と僧院の思想的な問題だけではなく、そこには細かく台所の手続きがかかれている。
 でもこんなに道元に細く指示されたら、このとおりやるのは面倒くさいだろうなと思う。私は「典座教訓」を読みながら、料理はいい加減にやる。
 バベットにもどれば、司祭の誕生百年記念のディナーを、彼女は本格的におこなう。村人たちはその過程を見て、パリ有名料理店の料理を食べることを恐れてしまう。感覚に溺れてしまうのは罪だからね。それで食事の前に、料理の味を感じないようにしようと誓うのだった。
 ところがバベットの作った料理を食べ始めると、誓いを忘れてしまう。テーブルの村人たちはおいしさを味わい、いがみ合っていた村人たちは愛を思い出し、和気あいあいとなっていく。典座のバベットは台所で料理を次々に送り出し、宝くじの賞金で買った高価なワインも、テーブルに送っていく。

 食事が終わると村人たちは外に出て、夜空の星の下で輪になって踊るのであった。というのは映画の「バベットの晩餐」(1987年)の終わりかただが、小説の方ではバベットがパリ・コミューンでバリケードの上に立ち、男たちに弾を込めて銃を渡す。血の海のなかに足を浸して歩いていく。バリケード派は彼女の家族であって、そのバリケード派が撃ったのは、バベットのレストランの金持ちのお客であったという回想になる。
 私は映画の終わりのほうが好きだな。バベットの晩餐に満足した村人たちが外に出て、夜空の星の下で輪になって踊る。その中心に井戸がある。そうやって大地の水から、天の星までがつながる。ともに味わいのあるものを食べることは、人びとを結びつけ、コミュニティを作る。愛を思い出し、ともに歩んできた歴史を思いだして、神が身近にいることを感じる。
 この井戸と夜空の星と、満足した村人たちの踊りのシーンには、宇宙の中の宗教と料理とコミュニティと愛が統合されている。

(映画「バベットの晩餐」は、1987年アカデミー外国映画賞を受賞。)