別腸日記(11)冬の客(後編)

新井卓

岩手は気仙のにごり酒「雪っこ」は、気仙沼で長年続く酔仙酒造の製品で、人々に親しまれてきた。2011年3月11日の大震災と津波で工場、倉庫ともども完全に破壊された会社は、驚異的な早さで翌年初夏、隣町の大船渡に再建された。だから「雪っこ」は、岩手の人々にとって特別な酒である。震災後、さらに足繁く通うことになった遠野で酔仙酒造の酒を見かけるたび、奮い起つような心持で、一升瓶を掴まないわけにはいかなかった。

「雪っこ」や東北一帯で飲まれるどぶろくに、なにか普通でない迫力があるとすれば、それはひとつに、東北における米の来歴から来るのかもしれない。

東北の歴史は飢饉の歴史である。のどかな里を歩けばそこかしこに飢饉の碑が見え、記録された死者の数にただ瞠目するばかりである。遠野の民俗学者・佐々木喜善は、度重なる凶作にあえぐ郷里を復興するため民俗学を志したというから、『遠野物語』の鮮烈な民話の背後には飢餓の記憶が深く根を下ろしている(※)。飢えて命を落とす、ということが体感からも社会的風景からも遠ざかったいま、飢饉とはいったい何であるか、ほんとうに理解することは難しい。

東北で稲作が本格化するのは、蝦夷征討ののち、当地に封建制が敷かれて以来のこと、と言われている。太宰治の『津軽』は約五年に一度、「豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回」もつづく凶作の歴史に触れているが、ほんらい亜熱帯の植物である稲を寒冷な土地で作らせること、そのこと自体に、おそらく今日の東北の有り様と決して無関係ではない、強力な支配の構造が透けて見える気がしてならない。

いつも泊めていただく住田町の藤井家や、遠野早池峰でごちそうになる米には、一箸口に運んだ瞬間、山あいの風が抜けるような清冽な甘さがある。たくさんの白飯を頬張って咀嚼するとき襲われる高揚感と、食後におとずれる強烈な気怠さには、どこかしらドラッグに似た強烈な精神作用がある、と思うのは私だけだろうか。
遠野で、住田町で、冬の朝、さよならを言うときかならず持たせてくれる米袋はずっしりと重たい。それを川崎の家に持ち帰って、まずは粥を炊くことにしている。白米一合をざるにあけて冷水で撫でるように研ぎ、五合の煮立った湯に投げ入れる。一度か二度底をさらうように返したら、以降は絶対にかき混ぜない。中火で十分後、一合の差し水をしてさらに二分。火を止めて数分蒸らせば、濁りのない、さらりと透きとおった粥になる。刻んだ青唐辛子を味噌に漬けた南蛮味噌でもいいし、たくあんや梅干しを囓ってもおいしいけれど、じつは粥の味だけで十分である。
遠野の言い伝えでは、人は死ぬとみな早池峰山に帰るという。もし明日死ぬならば、この澄んだ粥を一口すすって、早池峯に昇っていきたいものだ、と、意地汚い酒飲みの柄にもなく、考えてみたりする。

※写真家/民俗学者の内藤正敏さんに、キツネに化かされる話は必ず「蛋白質」と関係している、と教えていただいたことがある。宴席から土産の弁当を提げて帰る道すがら、キツネの怪しい術によってなぜか、蛋白質豊富な食べもの──塩鮭やイワナの煮付けなど──が奪われる。道中忽然と消えたごちそうは、キツネが食べてしまったのだ、そういえば家人も苦笑いするほかない。飢えや抑えがたい欲の鋭い刃先をまるめてくれる存在、それが妖怪なのかもしれない。