別腸日記(16)遼菜府の思い出 後編

新井卓

中国東北料理専門店「遼菜府」は川崎は高津駅近く、府中街道沿いにあった。「あった」というのはつまり、もうない、ということである。
十年ほどまえ妙に小綺麗に作り替えられた高津駅を階下に降り、岡本太郎が描いた「高津」の装飾文字(ちなみに敏子さんが代筆したものにちがいない、とわたしは踏んでいる)を横目に改札をくぐり、通りを左へ。

この高津、という町には通いたくなるような店がとても少ない。昔、労働者たちを目当てに営業していた個人商店がどんどん潰れて、そこに大手のチェーンやコンビニが入り込む。そうやって町は、コピー・アンド・ペーストで出来た奥行きのない風景に浸食されていくのだが、この国では、どこでも同じ病気にかかっているのだろう。だから「遼菜府」は、そのなかにあって、ちょっとした避難所の様子を呈していた。

店を切り盛りする女将は、大連(ダーリェン)からやってきたという。40前半くらいだったろうか、大柄で天然パーマの髪をうしろで適当に束ねており、浅黒い顔はいつもにこやかで、ゆったりした雰囲気からか、常連のサラリーマンたちの中には「お母さん」と呼ぶ人も少なくなかった。
最初は生地を包丁で削って湯がく「刀削麺」を売りにしていたのが、猪八戒そっくりのシェフが仕事を怠けるとかで(とはいえ腕はかなりよかった)、あるとき彼をクビにして、新たに二十歳の料理人を大連で見つけて連れて帰ってきた。見るからに初々しい、真面目そうな青年は額に汗して鍋をふるったが、味は前任者の足許にも及ばなかった。みるみる客足が遠のき、常連といっても冷たいもので、女将が通りがかった馴染みの客に声をかけても、顔も向けず素通りしていくのには、心が痛んだ。それならとことんつきあってやろう、とよく分からない義侠心を燃やして、わたしはそれまでにも増して店に通い詰めた。その頃から北京のギャラリーと仕事をするようになり、「遼菜府」の料理が、日本風に調整されていない生粋の東北料理だったことを改めて知った。

東北料理は、韓国、ロシアに国境を接する中国東北地域で供される料理で、ラムや羊肉を好み、パクチーと多量のにんにく、唐辛子を使った激辛のレシピが多い。格別に寒い冬、羊の油は身体をあたためるために必須なのだ、と、北京で学生時代を過ごした画家、ヤン・シャオミンさんから聞いたことがある。
料理を運んでくる度に、女将が「これ味どう?」と聞くので、初めは塩っぱすぎる、とか肉に対して火が強すぎる、とか知ったような風で意見していたのが、そのうちに青年はめきめきと腕を上げ、半年もするとほとんど前のシェフに遜色のない料理人に成長していた。ちなみに、ここのギョウザは皮が手作りで、ココナツ・ファインと自家製ラー油、香酢、揚げネギで作ったほんのり甘いタレとよく合うので、つい老酒が進んでしまう。

2011年3月11日、震災が来た。
女将は「節電」のため店内を減灯し、注文がないときは厨房の電気も落としたので、その暗がりで、くにに置いてきた家族とスマートフォンごしに団らんする青年の顔だけが照らされていたのを覚えている。震災の自粛ムードから少し回復して常連がふたたび戻ってきた翌年、北京で「反日デモ」があって、それがテレビで連日、大きく宣伝された。わたしはその頃、ちょうど北京にいたのだが、わたし自身はおろか、地元の人に聞いても知らないほど小規模のデモで、どこの街区もいたって平静だった。本当かどうかは知らないが、デモの参加者はどこかからお金もらってるらしいよ、と誰かがわたしに耳打ちした。
帰国して「遼菜府」を訪れると、そのありさまに驚かされた。いまだ律儀に「節電」をつづける薄暗い店内には一人の客もおらず、頭上のテレビでは民放のワイドショーがやはり「反日デモ」を喧伝している。テレビは消音になっていて、それを、客席に腰掛けた女将が放心して眺めていた。
客たちの横柄な注文にもにこやかに応え、道ですれ違えばわざわざ自転車を降りて挨拶をしてくれる彼女に対して、人々はなんと冷たい仕打ちができるのだろうか、プロパガンダまがいのテレビを鵜呑みにして──腸が煮えくりかえって居ても立ってもいられなかったが、わたし一人頑固に通いつづけたところで、店というものはどうにもならないのだった。その後「遼菜府」に前のような客足が戻ることはなかった。

これまでいくつかの危機を乗り越えてきた女将は、このとき、心を決めたのかもしれない。
翌年末、ドイツや関西への仕事で忙しく、しばらくぶりに店を訪ねると思いの外店内が賑わっていた。よく見れば客たちがみな黄色に赤字で「遼菜府」と染め抜いたTシャツを身につけている。隣の客に何ごとか、と訊けば、店にある材料がなくなりしだい金輪際閉店するので、みんなで食べて飲んでいるのだ、という。不意のことに、頭を殴られたような気がした──なんてこった、自分はそんなにこの店が好きだったのか……。
女将が、わたしたちの卓にもTシャツを持ってきた。タートルネックのセーターの上にTシャツを重ね着しながら、大連、帰るんですか? と訊くと、そうだ、という。どこかさっぱりしたような顔で、何か肩の荷が下りたかのような表情だった。──大連のどこなのよ? おれ、今度お母さんに会いに行くからさ。客の一人が大声で言ったが、女将は笑顔を返すばかりだった。
折しも大陸から、大寒波が接近しつつあった。
かつて旅大と呼ばれ、渤海に突き出した半島の街から、どのような巡りあわせで彼女はやってきたのだろう。遠くから──ダーリェン/ダルニーは〈遠いところ〉の意ではなかったのか──彼女へと連綿とつづく人の歴史の端緒を、わたしたちは不寛容にも追いたて、そして永遠に失ったのである。