別腸日記(19)橋の下の水(後編)

新井卓

芸術祭のプロジェクトとしてストリップ小屋「黄金劇場」を撮ろうと決めてから、都合のよい想像だけが走り出し、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』、あるいは写真家スーザン・メイセラスのショウ・ガールたちのドキュメント、そんな傑作が生まれるのではないか、不遜にもそんな風に妄想を膨らませていたらしい。ところが、実際はといえば、わたしは何もしなかったのである。
「黄金劇場」のドキュメントについてまとめた企画書を提出してほどなく、わたしは芸術祭事務局に呼び出された。かつての特殊飲食店(一階が飲み屋の体裁で、二階で売買春を行う)を改装して作られたオフィスの二階に上がると、表情を曇らせたディレクターが、この企画は難しい、と言った。地元商工会と鉄道会社、行政機関の協力によって立ち上がったこの芸術祭は、地元実行委員たちの了解が得られないと事が進まない。かつて「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」を組織して性風俗の追放を目指した、地元の商店主たちに言わせれば、ストリップ小屋を取材して「負の記憶を掘り起こす」などもってのほかである、とのことだった。
そのとき、そこで立ち去ることも、あるいはもっと怜悧に、批判を回避して目的を達成することも出来のではなかったか。ところがわたしは、ごく平凡なな企画へ──スタジオを訪れる人の肖像をダゲレオタイプ(銀板写真)で写すという、「町の写真館ごっこ」とおぼしきものへ──自ら変更を申し出た。
この瞬間、表現者として重大な選択の前に立たされていたのだと、今となっては思う。しかし、結局わたしは、表現者としての基本的な姿勢を捨て去り、長いあいだ、あるいはこれからもずっと、その余波に生きることになったのである。

ジェントリフィケーション(Gentrification)という英語に対応する日本語は、いまのところしっくりくるものがない。あえて訳するなら「ある地域の高級化」ということだろうか。ニューヨークのブルックリンや、ベルリンのミッテなどの旧東側地区では、かつて低所得者層の人々が暮らしていた場所にアーティストたちが移り住み(あるいは空き屋を不法占拠し)文化の発信地となった。そして、その結果治安が改善し、地価が上昇するに従いアーティストたちは去り、しばしば再開発計画を伴って、街区は高級化していった。こうして自然発生的に起こったジェントリフィケーションは、いつしか、行政や投資家たちによって意図的に仕組まれ、新たな利益を生むための方途となった。
こうした街々で、土地の名はあるときはきらびやかな象徴になり、またあるときは脱色されてその歴史から切りはなされていった。高級化されゆく土地の名と記憶がたどる命運は、その歴史と集積した文化がカネを呼ぶか、遠ざけるか、によって明確に分かれるだろう。
黄金町、日の出町、寿町、この街に残る瑞祥地名が、それぞれの街区にわだかまる陰りと痛みを帯びた記憶と感情を、新しい住人たちに呼び起こすことは、おそらくもうない。
「負の記憶」というとき、それは本来、そのような負の価値を帯びた歴史として(すくなくともその時代の、その集団にとって)、記憶されるべき集合的体験ということである。漂白され意図的に忘却されようとする歴史は、もはや記憶ですらなく、切除された身体の空き地にすぎない。その空隙から触知される不在は、なにか都合のわるいものであるには違いないが、結局それらの空き地は、草むす間もなく、新しい、安普請の、判で押したような特徴のない建築ですぐに埋め尽くされてゆく。

  *

「写真館」を営むあいだ、計画の甘さとは裏腹に、多種多様な人々がスタジオを訪れた。いまでも思い出す人のなかに、リョウジさん、という人がいる。リョウジさんは岩手は宮古の漁師で、冬の間は関東に出稼ぎに来ているらしかった。毎日決まった時間、おそらく道路工事の現場からの帰り道なのだろう、かれは「写真館」にやってくる。四十と少しくらいだろうか、小柄ながら筋骨隆々とした身体、そして砂埃のせいなのか、真っ赤な眼の彼の風体に初めはぎょっとさせられたが、リョウジさんは細々と気を遣うやさしい男だった。
わたしは彼がやってくる時間になると、電熱器で茶を沸かし、それとなく待ち構えていた。リョウジさんはおかわりを入れて二杯、お茶を飲んで帰ってゆく。なぜ彼がわたしのところに来るのかはよくわからなかったが、次第に彼の口から、宮古に残してきた家族、とりわけ娘のことや、好きな歌、あこがれのプレジャー・ボートについて語られるようになった。プレジャー・ボートは金持ちが釣りや水上スキーに使う瀟洒なもので、いつだったかリョウジさんは、そのカタログを持って「写真館」にやってきた。スキャナとプリンターで大きく引き延ばしてほしい、という。頼まれるまま1メートル幅に出力すると、無邪気な男の欲望が具現化されたようで、なんだか気恥ずかしいような気持ちになった。いくら、と聞くので、どうせ芸術祭が企業から借りた機材なので、タダでいい、と言うと、目を丸くして頭を下げた。

暮れから正月になり、松の内が明けるころ、しばらくぶりにリュウジさんの訪問があった。見れば両腕で細長い段ボール箱を抱えている。それは上等な鮭を丸干しした鮭トバだった。「新幹線でニオイがして恥ずかしかったよお。だから、ずっと(デッキに)立ったまま帰ってきたんだよ。これ、少しずつ食べて。全部食べたらお腹がこんなになっから。」といって、バツの悪そうな顔を見せ、リョウジさんは自分のお腹をまるく撫でた。
お礼を言って、ここはお茶ではなくて熱燗で、とすすめた途端、彼の表情が変わった。「それはだめだ!」といって身を固くする様子に何かただならないものを感じて、わたしはそれ以上勧めずに、いつものように、電熱器にアルミの急須を掛けた。その横に、スルメと、カッターナイフでトバを小さく刻んだものを置いて、何かを言いたそうなリョウジさんの顔を見た。
トバと一緒に抱えてきた紙袋から、彼は丸めた画用紙を取りだして広げた。「これ、ほんとに悪いんだけど、また大きくしてくれませんか。」見れば、娘さんの絵で、リョウジさんと見える人物や魚、太陽などが、クレヨンでぐりぐりと描かれていた。この絵を大きく引き延ばすにあたって、周りに、例のプレジャー・ボートの写真を、縁取りのようにたくさん並べてほしい、という。いい趣味とはとてもいえないが、再び垣間見た彼の欲望が、何か眩しいような、うらやましいものに思えて仕方がなかった。

リョウジさんは、どういうわけかその後、一度も、お茶を飲みに来なかった。芸術祭の終わりとともに、程なくしてわたしは「写真館」を去った。娘さんの絵と、プレジャー・ボートのカタログを預かったまま、あっというまに三年がすぎ、やがてあの3月11日を迎えた。テレビの前で息を止めて映像に食い入るあいだ、遠野や福島の知己の人々の顔とともに、忘れかけていたリュウジさんの顔が浮かんだ。
いつか絵を返さなくては、と思い、また足繁く遠野や釜石を訪れるたび、ふと宮古を訪ねてみようか、といつも考えたのに、身体が動かない。手元にリュウジさんの携帯の番号があっても、どうしても、電話することができなかった。わたしは怖かったのだ、とても。

いま、黄金町から少し離れたところに、スタジオを構えている。なぜ、横浜へ戻ってきたのか、自分でもよくわからない。
正午、無人の旧米軍根岸住宅につづく坂道から、熱風が吹き下ろしてくる。高架の下を走る運河に沢山のくらげが浮かんでおり、同じ方向へ、おそらくは海の方角へ、漂ってゆく。黄金劇場は、もうない。なくなったもの、二度と会うことのない人々、どこか遠いところで、なくしたものたちが勝手に会話をはじめている。息を潜め、じっと耳を澄ませる。