別腸日記(24)チキンより来たりてチキンに還らん

新井卓

顔を洗って爪を切り、やけに伸びてしまった髭はそのままにして、真昼の戸外に出る。成層圏の奥まで吸い込まれてしまいそうな青空に雲はなく、気流を確かめる術はないが、地上の風は強かった。多摩川の河川敷を、砂塵に巻かれながら、ゆっくり歩く。不意に街に戻ってきた蒸発者のごとく、所在なく、狐につままれたような気分がするのは、ひどい風邪で、五日間も寝付いてしまったからだ。

ふだんあまり集団で行動することがなく、インフルエンザをもらうのは久しぶりだったが、こんなに苦しいものか、と改めて驚いた。一番近い医院、それから二番目と回ってどちらも休診日だったから、町の総合病院まで朦朧としながらたどり着く。あまりにも足許が怪しかったのか、受付で「車いす、要りますか?」と心配されたが、別のインフルエンザ患者のサラリーマンが瀕死の体で運ばれていくのを見て(何でスーツを着ているんだろう?)、歩けます、と意地を張ってみせた。待合で呆然と座っていると、看護師がウイルスのテスト・キットを持ってきた。鼻腔を長い綿棒で拭って十五分くらいだろうか、診察室に呼ばれると、待ち構えていた医者は聴診器もへらも使わずに、A型ですね、と言った。一回飲むだけでよい、という薬、それに漢方と咳止めが処方された。

それから二日は熱で苦しく、飲みもの以外は何も食べることができなかった。ところが、わずかに熱が下がってくると無性に、フライド・チキンが食べたくなってきた。フライド・チキンといってもどれでもよいわけではなく、カーネルおじさんのニタニタ顔が目印の、ケンタッキー・フライド・チキンが食べたい。

意を決して町へでかけようかとも思ったが、手足にまったく力が入らない。咳もひどいから、これで外出したらバイオ・テロである──思い直して店に電話をかけ、宅配はやっていないのか、と聞くとやっていない、という。そうですか、じゃあいいです、と切ろうとすると「ウーバー・イーツなら届けられますよ、うちの店舗からじゃないですけど」と言う。Uber Eatsとは、個人タクシーをスマートフォンで呼ぶサービス、Uberが始めた事業で、お店に料理を注文すると、だれかが自転車に乗って出前してくれる仕組みで、日本にも最近進出したらしい。

さっそくアプリを入手して、登録を済ませ、注文してみる。わたしの注文はどうやら川向こうの店から届くらしく、難儀なことである。しばらくすると、スマートフォンの地図上に自転車のマークが現れ、彼か彼女か知らないが、出前の人の移動が逐一モニタされるようになった。暇なのでずっと見ていると、彼女か彼はあらぬ方向に走り出した。どうやら第三京浜の橋を渡ろうとしているらしかったが、そこは自転車では入れない──彼女か彼は、おそらく入り口のない高架を仰いで一旦絶望してから、2キロほど西、二子大橋の方へ引き返すのが見えた。可哀想に。しかし、そこからは破竹の勢いで県道を進み、わずか五、六分といったところで、玄関に人の気配が差した。

宅配してくれたのは、学生風の男性で、急いで走ったのか耳を真っ赤にして「遅くなってすみません」と言った。橋、間違えちゃったみたいですね、と言うと厭味と思ったのか、また謝った。あまりに申し訳なかったから、財布の小銭をチップにしたら、丁重すぎる御礼を言われ、余計に申し訳なくなった。いずれにしても、拍子抜けするほど簡単に、まだほんのりと温かいフライド・チキン4ピースにフライドポテトのセットがわたしの手中に収まった。

食前の薬を飲むのも忘れて、チキンに齧りつく。猛烈な塩気、そして手と口の周りにまといつくどぎつい油脂。わたしは胸肉の、肋骨の裏側にへばりついた薄い皮のところが好きで、そこには時々、レバーの破片がくっついていることがある。一方、ドラム・スティックはそんなに好きではない。小学校のころ、プールでマイコプラズマ肺炎に罹って入院して以来、体調を崩すといつも、このフライド・チキンが食べたくなった。

何か道理があるのだろうか、と思って、試みに「チキン」「風邪」と検索してみる。すると、風邪にはフライド・チキンがいいと力説する人々や、アメリカで風邪の民間療法として用いるチキン・スープの話が、次々と表示された。とりわけ骨付きのチキンから染みだすカルノシン、グルコサミン、コンドロイチンといったアミノ酸化合物に抗炎症作用があるとのことで「風邪にはチキン」には、いちおう栄養学的な根拠があるらしい。

ヒトとインフルエンザの歴史は長く、スペイン風邪やソ連風邪、と呼ばれた過去の大流行期には、何百万人もの人々がインフルエンザによって命を落とした。医療の発達したはずの現代にあっても、いつ致死性の高い新型インフルエンザが生まれるか、一触即発の状況がつづく。鳥からヒトへ、異種間を伝染する致命的な突然変異ウイルスは、一説によればヒトと家禽が濃厚に生活圏を共にするアジア、とりわけ中国南部で生まれるのだという。とすればインフルエンザとは、鳥たちを飼い慣らし、食べ利用するわたしたちのカルマそのものではないのか──インターネットのレシピを見ながら、二時間かけて煮込んだチキン・スープの湯気を肺一杯に吸い込みながら、ふと、そんなことを考えた。

伝統的チキン・スープのレシピ(アメリカ)

◆ベース・スープ用
・皮あり鶏肉(できれば骨付き)600g 皮に、フォークで穴を沢山あけておく
・オリーヴ油 大さじ2
・にんにく 1片 つぶす
・セロリ 2本 乱切り
・にんじん 2本 乱切り
・タマネギ 2個 スライス
・パセリ ひとつかみ
・ベイ・リーヴス 2枚
・黒胡椒(ホール)15粒くらい
・粗塩 小さじ2

◆仕上げ用
・長ネギ 2本 半分に割き1センチ幅で小口切り
・にんじん 2本 1センチ角のサイコロに
・れんこん 2株 1センチ角のサイコロに(※アメリカではあまり食べないが風邪に効く)
・パスタ(なんでもよいが、フェットチーネなど幅広いものがおすすめ) 半人前〜1人前
・パセリ 適宜
・あれば、ほか生のハーブ(ディル、タイム、セイジなどがおすすめ)
・レモン汁 半個分
・塩 適宜

◆手順/所要時間:一晩

1. 大きな厚手の鍋を温め、オリーヴ油をしく
2. 熱くなったところに、皮を下にして鶏肉を入れ、こんがりと焼き色がつくまでソテーする。ひっくり返して同様に、焼き色がついたら一度肉を取り出す(火が通っていなくてもよい)
3. 同じ鍋に、ベース・スープ用の残りの材料を入れて、野菜がしんなりするまで(汗をかくまで)中〜弱火でソテーする。ただし、色づくまでは炒めないこと。
4. チキンを鍋に戻して水を注ぎ、強火にかける。水の分量は、鍋の八分目くらいまでが目安。
5. 沸騰直前になったら極弱火にして、スープの表面がほとんど動かないくらいの状態をキープしながら1時間半、煮込む。蓋はせず、途中で水を足さないこと(スープが濁り、水っぽくなります)
6. 鶏肉をとりだし、あら熱が取れたら、骨と皮を外して捨て、冷蔵庫へ。
7. スープは細かい網で漉して、冷蔵庫へ。一晩寝かせる。
8. 翌日、スープが冷えて分離したら、上澄みに固まった油(鶏油)をとりだしボウルに置いておく。
9. チキンをフォークで割き、必要なら食べやすい大きさにカットする。
10. 鶏油大さじ2を鍋に温め、仕上げ用の野菜を、塩少々とともに軽くソテーする。炒めすぎて茶色くならないように。
11. スープを入れ、野菜がやわらかくなるまで弱火で煮る。パスタを固めにゆでておき、スープに加える。
12. 鶏肉をスープに戻し、鶏油を好みの量入れて塩で味を整える。
13. レモン汁を入れて火を止め、刻んだパセリ、ハーブを散らしていただく

※パスタのほか、米やキヌア、豆類などを入れてもよい。