別腸日記(26)花冷え

新井卓

春は好きな季節ではない。冬の凍土に封じこめられた、いろいろの情動と記憶とが生々しく、地表を求めて蠢くのを感じてしまうから。
凄烈に咲き誇る桜の樹下で飲み交わすことも、わたしにはうまくできない。花冷えとは今時分の地上の冷えのことなのか、それとも、決してわたしたちの心を温めはしない花叢の、非情な清浄さを言うのだろうか。友だちにさよならを言って、花を一杯に戴いた、そのあまりにも彼岸めいた空間から出て足早に路地を折れ、適当な赤提灯に逃げ込む。すると心底ほっと人心地がするのは、一体どうしてか。

すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。(徒然草, 第137段)

流れていく車窓に桜たちを、マゼンタの霞のように垣間見る時節。その霞は心の中にも煙っており、そのゆっくりとした爆発をみぞおちに抱えて行くあてはどこにもない。
記憶のなかの桜を──それは決まって夜桜なのだが──はっとするほど鮮明に、思い浮かべることができる。風のない晩、街灯に照らされて深々と息づく花の一群れや、氷雨混じりの辻風に巻かれて、ざらざらと花弁を散らす桜。それらの記憶は映像というよりも、場所ごとに異なった空気の密度、または樹々の四囲にほつれてひろがる音のように空間全体に行き渡っており、目を閉じてそこに這入ってゆき、匂いや、浅い春の空気の冷えを感じることさえできる。
一本の桜は、地下深く無限に分岐する根毛をつうじて地上の全ての桜たちと一つであり、かつまた、一本の草のように地上に立ちあがるヒトの神経叢につながっており、記憶のなかの桜に結ばれている──春の夜、そんな妄想を振り払うことができずにいる。