何だかわからないけれども上手の何か

西荻なな

景色が見える、と思うことがある。
たとえるなら、麓を霧に覆われて山を登っているいま、その頂上を見ることはできないけれども、目を閉じた時にぼんやりと山全体の輪郭が思い浮かぶ、登頂した後に眼下に広がる風景をすでにどことなく感じられるように思われる、そんな感覚だ。先験的に知っている、と科学や哲学の文脈で言い表されるものがそれだろうか。いまここに実現していない未来が、まだリアリティをもって感じられるわけではなくとも、おぼろげながら、まるで夢を見た後の残像のように、その光景が心の中にある。全貌が眼前に姿を現してはいなくとも、でもこの先に、確かにそれが見えるとわかるから、根拠のない自分なりの確かさを頼りに、一歩一歩山道を歩いて行くのだし、歩いていける。刻々と移り変わる山肌の景色にハッとしながら地道に歩いて行く。

人生はおしなべてそのようなもの、と言えてしまうのかもしれないけれども、まだ知らない道が残されている手前から、人生はこういうものだ、と語りたいのではなくて、私が思うのは、「いまここ」を超えるものを、常に思い描いていたいということだ。「いまここ」の時間軸、価値軸に引っ張られないもう一つの軸をもつということ。細切れの時間軸と既存の価値観に絡め取られそうになった時に、もう一度そちらに、未来側に自分を置き直すことだ。日々の自分の姿を鏡の中に覗き込むように、アジャストメントを繰り返してゆく。
思い描く風景と、いまここにあるものとの間にイメージの齟齬はないだろうか。
あるいは、思い描く風景を共有できる誰かがいるだろうか。
共有できる誰かがいないならば、共有できる誰かを育てることはできるだろうか。
その問い直しの積み重ねの先には、時に大きな変革だって含まれるだろうと思う。たとえば、どこに身を置くのか、誰と仕事をするのか、といった座の組み直しのようなもの、などと書くとビジネスライクに響いてしまって、ことの本質からずれてしまう気もする。

「どう作るのか」のより実際的な話よりも、「いかに作るのか」において、より景色が見えることの大切さを思う。確かに見えると思われるその先の風景を逆照射しながら、「いまここ」における地歩を固めてゆくということは、今日と明日の歩みの中に、未来の風景の要素のようなものを一振り、振りかけてみることだ。そうして一つひとつ着実に、ここにはない何かを含んだものを作っていくことができるならば、思いがけない形で人の心に伝わったり、大きな森ができ上がったりしていくのではないだろうか。見える、と思っていたその風景のイメージを颯爽と超えていくような、もっと見たこともないようなものが生まれるような、魔法が偶然にも入り込んでしまうような土壌をどうやったら作れるのか。

と考えているところで、小林秀雄と数学者・岡潔の対談集『人間の建設』を読み返していたら、ふと気になるフレーズが2、3飛び込んできた。
岡が言う「数学が情緒だ」という話におよその見当はついたが、その内容というのはこういうことかと小林が問う。「数学者は、数学者を超える存在のなかで数学をやっているわけでしょう。そういう、いわば上手の存在、あるいはリアリティ、そういうものがあるとお考えでしょう」、ならば「数学者はリアリティに近づかなければならない。それが何だかわからないけれども、そこに近づきたいというわけでしょう」と。ここでいうリアリティは「真理」に近いものだろうか。
返す岡は、「いや、リアリティはあるけれども見えていない。見えない山を少しずつ探していくのが数学者で、物理学者とは違って、むしろ自然をクリエイトする立場に立っている」というようなことを言う。
「自分の存在を超えるような上手の何か」、この小林の表現が実にしっくりくるとともに、「それは見えていないけれどもクリエイトするのだ」という岡の返しにも、すとんと落ちるものがある。その火や電気を絶やさないためのものを小林は「記憶」と呼び、岡は「情緒」と呼んでいる。何か大きく超えていくもの、上手の何か。その風景を忘れないようにしたい。