人嫌い

越川道夫

映画監督などという商売をしていて言うのもなんだが、人間があまり好きだとは言えない。もちろん自分も人間の端くれではあるので、自分のことも含めて。子供はまだしも、大人の姿を目の中になるべくなら入れたくない。だから、朝起きて、顔を洗っても、鏡で自分の顔を見ない。もう見ないことが習慣になっているので、わざと避けるのでなく、そもそも見ない。一度も自分の姿を見ない日もあれば、例えば出先のガラスに写る姿を見て初めて、ハハァ、今日オレハコノヨウナ姿ヲシテイルノカ、と思う日もある。毎日自宅を出て、二駅ほど離れたところにある仕事場に歩いていく。コンクリートで固められた川とも言えないような東京の川沿いを歩いていくのだが、その時、もなるべく人間の姿が目に入らないように歩いている。要するに空を見上げているか、それとも下を、地面を見ているか。地面を見ていれば、そこには植物が生えている。道端に、コンクリートやアスファルトの割れ目に。そこし前まで、ナズナが繁茂していたところに、カラスノエンドウが覆い繁って、それもすぐに実をつけて終わるだろう。オオイヌノフグリは、まだ咲いている。虎杖が立ち上がったと思うまもなく、雨のたびにぐんぐんと背を伸ばして、サツキやツツジの生垣を突き抜けている。晩春である。
村田了阿という人の書いた「花鳥日記」を識ったのは、若い頃に偶然読んだ石川淳の短編小説の中だったと思う。「雅歌」だったか。了阿は江戸後期の俳人であり博学多識とあるが、詳しくは知らない。「雅歌」の主人公は、「花鳥日記」のその肉筆の原本を渇望し、その原本が手に入るとしたならば、「ふだんほしくてたまらない金銭も入らず、しゃれた服装もいらず、酒とたばこは…これはちょっとつらいが、ウソをついて、絶対にいらないということにして、まして婦女子ごときもの、櫻子1からnまで全部ひっくるめて、西の海にさらりとして、何もかもなげうって、ただこればかりの、うすっぺらな花鳥日記一冊ととりかえる。」と言う。その「花鳥日記」は、『近世文藝叢書 日記十一』で活字では読むことができるのだが、本文二段組みでわずか4ページほどの日記である。
 
◯正月
四日、朝報春鳥鳴く、
六日、朝またしきりに鳴く、
二十二日、晝過より春雨長のどかに降りて、雪も消えあたたかになりければ、廿四日の朝、比叡のふもと山王下の御寺の竹園にて鶯しきりに鳴く、
 
といった具合であり、「一年十二ヶ月、日日ときどきの花に鳥、木、蟲などの消息がきはめて清潔にうつされている他には、このみぢかい日記の中には他の何もない。感想とか詠嘆とか、歌とか句とか、よごれっぽいものは微塵もまじへずに、あたかも花や鳥が、自然みづからがこれを書いたというふようすで、立ちすがた。みごとである。」と石川淳は書いている。
原本が欲しいとは思わないが、わたしもまた『近世文藝叢書 日記十一』のわずか4ページの「花鳥日記」を事あるごとに読み返している。読み返して、「花や鳥が、自然みづからが」書いた文というものを夢想して、ひとり震える。あの大きな地震の後で、わたしは、もう動物や虫、植物か子供のことしか描くものはない、人間のましてや大人のことなど描くことはできない、と真剣に考えていた。それは今もさほど変わっていない。人の色恋沙汰を描きながら、どこかあの路地に溜まる野良猫たちの恋のことを、自分は書いている気がしてならない。
 
それでも買い物をしなければならず、駅前のスーパーに立ち寄る。疫病が流行し、いくつかの店は自治体の要請でシャッターを下ろしている。国家は金勘定はしても、町で暮らすわたしたちと向き合っているとはとても思えない。人の心が次第に荒んでいくのを感じるが、この国の権力を持ったものたちはもともと人の心の荒んだ部分を弄び、心の荒みを糧にして権力の座に居座り続けているように見える。道端で子供に当たった当たらないで親子と犬を連れた初老の男が口論している。思いもかけないような怒号が町中に響き渡る。自分の思ったように進めない自転車の男が、目の前歩く人に罵声を浴びせる。
買い物を終えて、また川の方へ降りると、ギシギシが赤い小さな花をつけている。群れて咲いていたセイヨウタンポポが、全て綿毛を散らしていいる。芽生え、立ち上がり、花をこぼれるまで咲かせて、実をつけ、そして枯れる。白鷺がコンクリートの川底から小さなナマズを捕らえ、食べていた。