ジョージアとかグルジアとか紀行(その4)怒りの暗闇ロード

足立真穂

「ジョージアに行ってきたよ」と周囲に伝えたときのこと。
『風と共に去りぬ』だね、と答えたあなたはビビアン・リー似の50代。そう、あの映画の舞台はアメリカ、ジョージア州のアトランタでした。
「桃源郷みたいなところだってね」というあなたは、コーカサス山脈のイメージからなのかワインの飲み過ぎなのか。ジョージアは未知の国のようで、イメージはあまり統一されていない。とはいえ、国全体が桃源郷とはいえないにしても、桃源郷のような場所には、行った。


(ため息が出る美しさ)

それは「スヴァネティ」と呼ばれる北西の地域だ。5000メートル級の山々が連なり、ジョージア最高峰の5201メートル、シュハラ山もこの地域にある。ヨーロッパで人が住んでいる地域としては最も標高が高いそうで、ユニークなその建造物は世界遺産となっている。

そんな、ザッツ・コーカサス山脈。
「景色がよくてすばらしいのでオススメ」というニアさん(クヴェヴリワインのメーカー。旅のガイドをお願いした)の言葉に従い、「せっかくだから行ってみよう」と思った私がスケジュール決定権を握っていたのが運のツキではあった。少なくとも2泊はしたほうがいい。そういわれた時に気づくべきだったのだ。
ニアさんとラマズさんのワイナリーを出発し、クタイシ(ジョージア第二の都市、トビリシから西に220キロ)のマーケットでスパイスを買い込んだり本屋をひやかしたり。車で昼すぎに出発し、途中の道には信号のかわりに牛が待っていたものの、しばらくは舗装された道路を走っていたし、時速50キロは優に出せていたと思う。


(車の行く手を阻む牛たち)

が、いつしか景色は変わり、断崖絶壁の間を縫うように車は走り始めた。延々と山と谷のあいだをくぐり抜ける危険なドライブ……ジョージアに関するガイドブックはといえば『地球の歩き方 ロシア』の20ページもあるかどうか。日本人にとっての観光地としてのプレゼンスの低さを感じる。それを含めたわずかな情報によれば、スヴァネティに向かう一本道は、古くはシルクロードの交易路で、トビリシから北オセチアまでを繋ぎ、コーカサス山脈を縦断する。帝政ロシアが、19世紀にスヴァネティ制圧のために礎を築き、軍用道路となっていたそうだ。事前にロクな情報を仕入れていないので、現地で驚愕するばかり。ただし、軍用道路とはいってもいまでは観光ドライブコースとして人気があり、往来も結構ある。


(断崖絶壁に、虹が映える)

似たようなことがあったな、と思い出したのは、ヒマラヤ山脈のそばのブータンだ。とんでもない深さの谷の向こうに、ブロッコリーの塊のごとき原生林の森を眺めながら、車の中で右に左に揺れながら、いつしか眠りに落ちていく。トンネルを抜けるとそこは……というのは狭い日本だから成り立つ名文だったようだ。そもそもジョージアといいブータンといい、インフラにお金をかけていないためかトンネルが非常に少なく、ひたすら山肌に道を走らせている。

名水が出るという滝で写真を撮り合っていたら、ガイド役であるニアさんが「スヴァネティは初めてだから愉しみ!」と教えてくれた時に、弾む声とは裏腹に少々不安を覚えないでもなかった。それでもひたすら、運転手のズーラさんに「がんばれ!」と覚えたてのジョージア語やら英語やら日本語やらで励ましつつ、山越えをすること数時間。これまたブータン同様、やはり時々頭をぶつけるから、おちおち寝てもいられない。とはいえ、太陽が落ちてからが、デンジャラス・ドライブの真骨頂となった。

午後8時を過ぎたジョージアの山中は桎梏の闇の世界に変貌する。日本の田舎というのは、道沿いになんとなく光があるものだが、なにしろ視界に光が一切入ってこない。ヘッドライトだけをたよりに、真ん中部分だけ舗装された道路を走るのはもはや運試し、綱渡り作業である。そもそも一部が舗装されていればいいほうで、時に道路に穴が開いており、そこにタイヤがぐっと食い込んで沈み込むのだからたまらない。時速は20キロ以下に落ち、しのびよる闇とともに不安は大きくなる。
が、目指していたスヴァネティ地方の中心の街、「メスティア」と書かれた表示が目に入り、一同に歓声があがった。目的地だとだれもが信じていた。何事にも終わりはあるのだ、と。

ただ、ニアさんは笑っていなかった。そして、スマホを取りだして電話をし始めた。なぜか不安は言語の壁を軽々と越えて理解でき、どう考えてもこれから泊まるはずの宿に「道に迷った」「どの道をいくのか」といったことを聞いている様子が垣間聞こえる。
そして、せっかく出会えたメスティアの町の光から離れようとしている! 「光が!」「ゲーテだね」などとハイパーで意味のない会話をしている間に、さらに路上の舗装面積の割合は容赦なく下がっていく。ワインとおいしい料理ですっかり忘れていたが、インフラが整っているとは決して言えないのだ。国土の端々まで道を直せる国というのは、お金持ちなのだ。
これから旅をされる方がいたら、これだけは言っておきたい。日本での走行距離と時間の関係は、まったくジョージアには当てはまらない。時速はタイヤの回転数で決まる。大原則として車は道路の上を走るのだから、舗装状態こそ決定要素なのである。

同時に、車内の前部座席の空気は重くなりつつあった。概してジョージア人は寡黙で一生懸命、客をとても大切にもてなす。つり銭をごまかされることも、モノを売りつけられることも、旅の間にただの一度もなかった。農業に従事している人が多いからだとも聞いたが、内向きな性格は日本人と似ている。その典型のような、真面目で一生懸命なニアさんとズーラさんは、私たちへの責任感で追い詰められつつあった。
そのうちに「これ、迷ってるよね」「そう思う」と、後部座席でぼそぼそ日本語で話し始めた私たちの不安もまた、ニアさんとズーラさんには伝わったように思う。車の数値盤とスマホだけが煌々と真っ暗闇に光り、そのまぶしさとともに高まる車中の緊張感。光に満ちたメスティアを離れて車で走ること数十分……。光で満ちた、といっても、平日の箱根宮ノ下くらいなので(その時なぜかそう思ったのを覚えている)それほどの光でもないわけだが、光り輝いて見えた。再び暗闇に引き戻され、なんの展望(光)さえないまま走るのは、心細いものだ。


(翌朝見た道路状況)

ガタン!
ついに、音を立てて車が止まった。よくない止まり方である。
左折して入った道は、細い下り坂で、しかも途中で降りはじめた雨でぬかるんでおり、タイヤを取られる。舗装割合はゼロ、というよりマイナス域である。舗装されていない道路の通りにくさといったら、数十年前の日本って大変だっただろうなとしみじみしたほどだ。「三丁目の夕日」というようなタイトルの映画があったけれど、昭和30年代の道路は未舗装で穴だらけだったと聞く。「昔はよかった」的なフィクションはその時代のインフラを確認してからの方がいいと思う。
そのまま、車はマイナス域を進まざるえない。なにしろ、ドアを開けて降りる道幅さえないのだ。車の底をがりがり言わせながら、ズーラさんのすらりとした細腕に命を宙ぶらりんにブラ下げて、そろりそろりと匍匐前進(車なのだが)。ついに私たちは、自家発電の微妙な電灯がぼんやり揺れる宿へと、到着したのだった。


(道幅を確認しながら運転するズーラさん。昼間はまだよかった)

到着した時刻は午後9時近く……そこから、私はニアさんと激論を交わすことになった。というのも、運転手のズーラさんは手前のメスティアの安宿に泊まるので、暗闇ぬかるみロードをこれからまた引き返すという。
疲れているのに雨の中を危ない。明日にも影響が出る。運転手の体調は万全であって欲しい。これが私の意見だ。対するニアさんの意見としては、宿は部屋数が限られている上に値段が高いから、運転手の常宿にズーラさんは行くことになっている。問題はない。
「それなら宿代はいくらなの?」と聞くと、私たちが相部屋で一人2500円(朝夕の食事付き)、ズーラさんの宿は1000円ほどだ、という。1500円のために危険をおかすのは無駄としか私には思えないのだが、ニアさんは譲らない。私も当然譲らず、議論は平行線をたどった。金銭感覚だけでなく、危険の閾値が違うのだから、折り合えるわけはない。

同じ部屋になったニアさんと私は、寒いのでカーテンを閉めて暖房をつけ、ベッドに座ってガンガンやり合っていた。さらなる事件が起きたのはその時だ。
私の頭の上にカーテンが桟ごと落ちてきたのだ。
こう書くと現実とは思えないのだが、事実だ。「ギャッ。痛っ」と叫んで手に掴んだのはカーテンと、カーテンレールの役割を担っていたと思われる木造の桟。疲れている上にご飯はまだ用意されておらず空腹、寒くて狭い部屋で激論の真っ最中での私にふりかかったカーテン(と桟)……不機嫌は最高潮!

「なんだこれは!」
握った桟をよく見ると、特大の釘がいくつか刺さっているではないか。天井への打ち付けが甘く、カーテンの重さを支えられなかったのだ。聞けば宿の主人が手作りで建てた建物だそうな。これが頭に刺さっていたらどうなっていたことか。
頭にきた私は、主人に直接文句を伝えることにし、キッチンと食堂の入った、主人一家が住む隣接の管理棟へズンズンと向かった。ところが手抜き工事をしたご主人は留守で、30前後の奥さんがいるだけ。その奥さんは私たちのご飯を作っているわけだが、中断させて英語でガンガン文句をいう羽目になった。怒りというのも言語の壁を越えるのだ。そんな私に、ポカンと何も打ち返せない奥さんとオロオロするニアさん。
ただ、「痛いじゃないか」「きちんと直してくれ」としか文句の言いようもなく、ポカンと言葉を失っている人に怒るのもバカらしいというもの。怒り続ければ食事はさらに先延ばしになるという厳然たる事実もあった。
同時にどこかで既視感もあった。怒られて思考停止になっている人を、いつぞやの旅で見たことがある。記憶をたどればそれもブータンであった。ブータンのホテルでぞんざいな荷物の扱いを上司に怒られたベルボーイは、客の荷物をどすんと置いて逆ギレして去って行った。仕事上の注意を人格の否定ととらえて、感情的になってしまったのだろう。国が違えば「サービス」の概念も違うし、人前で注意されることを侮辱ととる人もいる。なにより、大前提としてだれもがお金のために働いているわけではない。問題点はきちんと指摘すべきだと私は考える。けれど、カーテンの件が悪意からではないことはわかる。そもそも、これから2泊はする山中の宿だというのに、これ以上文句を言い続けるのは得策なのか?

いつしか、おとなしくて優しいズーラさんがカーテンを直す作業に入っている(入らされている)という事の次第に気付き、すっかり怒りがおさまった私は方針を転換することにした。「起こってしまったことはしょうがない。それなら」路線だ。そこで、以下の提案とともに、水に流すことにした。
提案1:ズーラさんの労働力を宿の修繕に提供したのだから、まずズーラさんの部屋は無償で提供すべきだ。
提案2:お腹が空いたので早くご飯をつくってほしい。
提案3:普段怒ることがあまりないので、エネルギーを非常に使ってしまった。あしたの朝食は時間通りに(滞在中、朝食の時間を守らない宿が多かった)、また多めにすべきである。

そして、交渉成立! 素晴らしい。提案1により、ニアさんとの議論にも終止符が打たれた。次の日の朝、山の空をぼんやり眺めていたらニアさんが「ズーラさんが楽になってよかった」と言い、私は「疲労と空腹で言い過ぎてしまった気がする」と返したことは、解決とみなしてよいだろう。
対応としてなにが正解だったかはいまだわからないのだが、翌日の朝食はとてもおいしく、充実していた。


(パンケーキ付き!)

素晴らしいスヴァネティの景色と暮らしを紹介するつもりだったが、旅の記憶というのは、こういう事の方が残る。とはいえ、この地方は、私が見たジョージアの景色の中で最も印象的で、ぜひ再訪したいと願う場所だ。その美しさと、この辺境の地のミステリーについては次回に書きたいと思う。


(シュハラ山をのぞむ)