ちあう、ちあう

イリナ・グリゴレ

ヴァルター・ベンヤミンのエッセイを読み始めると、2歳の娘は私の手から本を取って、ページをめくり始めた。翻訳することについて読むところだったが、彼女の動きに集中している顔を夢中になって観察し続けた。最近では、本棚からいろんな本を出して読むふりをしている。「これはすごい」というリアクションをしたり、ずっと文字を見続ける時もあったり、写真だけ見て本を床に置いたりする。絵本を渡すと「ちあう、ちあう」(違う)と大きな声で言って、邪魔しないようにとアピールする。彼女にとっては文字と言葉は、日本語であっても英語であっても大人とは違うものだ。目で写真を撮っているように、一枚、一枚のページを見ている。ベンヤミンがいう理想的な翻訳に近いかもしれない。彼女にとって読むことはまだ言語化することではないので、すべて違う、すべて同じような言葉が「見える」。

子供が新しい言葉を作る能力はすごい。長女もそうだった。いまだになにを意味するのかわからない言葉がたくさんある。例えば「シャバデイ」という言葉を長女は1歳半から使っているが、まだ意味を掴めていない。次女も5月に「モモイ」という言葉をずっと使っていたが「鯉のぼり」のことを指していたことがはっきりした。こうしてみると人間は幼い時からイゾラドかもしれない。たくさんの習慣と言葉が心の中にこもり、通訳と解釈は常に難しくなる。

『悲しき熱帯』では、先住民たちが自分の身を綺麗な花とビーズを使って飾るシーンが私には印象的だった。母親になって自分の娘たちが同じ行動をするのを見た。次女は素裸になって過ごすことに加えて、飲み物と食べものをもらうときに一つの儀式を通さないとなにも始まらない。それは「クラ」に似ているともいえる。「クラ」とはトロブリアンド諸島で行われる交易のこと。娘は牛乳を欲しがっているが、最初にコップを渡そうとすると、「ちあう」と言って、受け取ろうとしない。大体三回ぐらいこの動作を繰り返し、最終的に満足した顔でもらって飲んでいる。

まだ解釈できない習慣がたくさんあるなか、踊りと歌が大好きな娘たちをみて、21世紀の人類学のことを考えてしまう。人間の一人一人の身体は島であると感じる。各島の環境と植物、動物、細かいところ、細胞まで解釈も翻訳もできない、言葉で押し付けることのできない生き物の本質の現れを探る。例えば、日本語で翻訳されても翻訳しきれない本、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリの『千のプラトー』、一つの全体としての身体を翻訳しきれない。翻訳をするのではなく、「一つの言語」から「一つの言語」へではなく、子供の感覚に戻るといいかもしれない、いつか、お互いに言葉だけではなく、イメージなど、もっと様々なコミュニケーションができるかもしれない。『不思議の国のアリス』のティーパーティーを思い出してみよう。参加者はお互いに話し合っているけれど、お互いになにを喋っているかわからない。言葉だけで足りないのだ。

娘たちを観察して思った。もしかたら人間とは「イヤイヤ期」がまだ終わってないのではないか? 昔見た『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』という映画では、たくさん詰まった言いきれない言葉が溢れるまでのパフォーマンスが描かれていた。最後は主人公が川に落ちて子供のように泣いているシーンだった。人間の身体に詰まっている感覚、感動、愛情の塊は「言葉」だけでは伝えにくい。私たちの日常の中では、「言いつくせないもの」でお互いの「コミュニケーション」の壁を破けない日々を生きている。

「人類学」の最初の授業では、丹野正先生が狩猟採集民アカ・ピグミーのところにいらっしゃった最初の日のことについてお話ししてくださった。荷物も水も食べものも持っていかなかった。もちろん、言葉も知らないまま、ただ彼らの近くに座って待っていた。すると、夕方になると、一人の女性がその日男性たちが狩りをした肉を丹野先生のところへ持ってきたのだ。言葉の先に人間は「分かち合う」ことをする。このイメージは私の頭からずっと離れなかった。子どもも「笑う」こととか、踊ることを分かち合おうとする。はじめて会う人にも持っている食べものなどをあげようとする。

ベンヤミンの言葉も翻訳されて、解釈され続けている。彼が「アウラ」と呼ぶものは非常に興味深い。なぜ「アウラ」という言葉を選んだのか、少し分かる気がする。彼の遊び心が現れている。「アウラ」は、あるイメージを直接的に読んでいる側に伝える。彼の書き方は非常にパフォーマティブだ。この意味でベンヤミンは「言葉」から「言葉」にではなく、「言葉」から「イメージ」への道を提案したのだ。

そういえば祖母に久しぶりに会った時、最近みた夢について家族で語り合った。皆の夢のイメージがリアルすぎて、祖母の家の小さな部屋にいくつものプロジェクターがあって、それらが投影されているような気がしていた。