冬至

イリナ・グリゴレ

12月21日、冬至。朝早く起きられなかった。娘たちは私のせいでまた保育園に遅れた。朝はいつも忙しい。長女は私に似て、夜型だ。今日も出発の時間ぎりぎりまで起きず、慌てた。朝ごはんはパンと牛乳またオートミール、次女のお気に入りだ。小さい手で娘が玄関のドアを開ける瞬間が好き。雪の光が眩しくて一瞬目が見えなくなる。写真のフラッシュのようだ。私の目の虹彩に残る。二人の娘の後ろ姿は幻のようだ。その時の私の頭の中のイメージはサイレントムービーだ。

見送った後にそば茶を入れる。今日も雪が積もった。夫の服に着替えて雪かきを始める。こうしていつも彼の身体を借りる。男の服を着るのが好きな私。彼の魂を盗んでいる気分だ。融雪溝に入れても全然流れない。かなりの力仕事。家に戻ってパン作る。発酵は気持ちいい。まずは茶碗でイーストと砂糖を混ぜる。そのあとで小麦粉を少し混ぜる。そば茶の残りのお湯を少し入れると5分で膨らむ。こうして膨らんだイーストをたくさんの小麦粉と混ぜて、お湯を加えたら粘土のように捏ねる。これは何と言っても幸せだ。手で温かい生地を触ると、この生地はこれから何でもなれるという無限の可能性を感じる。捏ねることも、丸めることも、私の手の細胞と合体させることだ。丸くなったら発酵の番だ。これも私流なのだ。祖母の形見の、石でできたブレッド・スタンプを押す。最後は祖母が織ったタオルを上にかけて待つ。このレシピは自分で考えて、一番この家に合うことが分かった。同じ場所に長く住むと、湿度と景色、光の落ちかたによって生きているイーストの状態が身体でわかってくる。私にとって、これにはもう一つの意味がある。パンを通して自分の先祖の身体をもう一度形にして食べることを繰り返し、わたしの身体に戻すのだ。

一瞬、お日さまのひかりが、五つの窓すべてから家に入った。外を見るとまた雪が積もっていた。また雪かきだ。なにも考えずに重い雪を運んでも5分でまた積もる。このまま雪かきをしなかったら、きっと一時間で家の二階までつもる。そんな気がした。

保育園へ迎えに行くとき、川の近くで、吹雪のなかからオオカミが見えた。日本のオオカミはいつ日本から消えたのか、という本を図書館の本棚で見たけれど、絵本と妖精の本を借りた。オオカミの本を借りればよかった。

知らない間にまた朝になってそば茶を飲んでいる私がいた。一瞬しか経ってないのに、気づかないうちに窓に置いたカリンが腐った。早めにジャムにすればよかった。悪いことした。ルーマニアの家でもよく窓においてあった。冬の寒い日に薪ストーブの上に置いて、焼いたらごちそうだった。

パンは発酵してはみ出そう。焼く準備。あ、娘たちの迎え。雪かき。オオカミの本を借りればよかった。何年もここに住んでいるが、初めてオオカミを見た。幻のだ。「日本ではオオカミは神様だよ」夫は言った。

スーパーの鏡に映っていた私の姿は違うものになっていた。たまに勝手に違う者になっている。自分の身体をコントロールできるようになりたい。今回は娘たちが殺した蜘蛛の子供みたいだった。夏の間に母蜘蛛はたくさんの虫を食べて、お腹がすごく大きくなっていた。いつのまにか子蜘蛛が産まれた。家の中を走っていた。ゲジゲジもいるからどのぐらい残っているのか。娘は間違えて殺したと泣き始めた。もっと観察して遊びたかったみたい。大丈夫と励ましてあげた。ルーマニアでは豚一匹を殺して、一冬かけて肉をたべる。今ごろなら豚の内蔵を綺麗にしてソーセージを作っていた。小さい頃は、殺されて焼いた豚の皮膚と耳を食べていた。一年間大きくした豚の命を家族でいただく儀礼はよく見られた。キリスト教以前の習慣だ。

でものこの時期に一番好きだったのは、イエス様が生まれるお知らせを、村の子供たちがその前の日の朝に行うことだ。24日の朝から子供たちだけで村の各家を回って、イエス様が生まれた喜びを大きな声で叫ぶ。各家の門はその朝だけは開いていた。喜びを家に入れるために。こういうのも今はあまり残っていないみたいだ。現在では各家の門は鍵で閉められていて、もう喜びを受けられない状態なのだ。

また雪が積もってきた。そろそろ夫の服に着替えて、雪かきをする。そういえば、車のライトをつけるのを忘れた。夕方なのに、雪の光で気づかなかった。私が見た幻はオオカミではなかったのか。昔、父はVHSでとても怖いホラー映画を借りていたので、仕事をしている間に、弟と隠れて見た。怖かった。黒いヒョウは突然、町に現れて町の人を殺し始める。壁を抜けることができて、一瞬液体になる。黒い液体だ、コールタールのようなものだ。アスファルトを固めるとき使われる。原発を作るときも使われるかも。急にコールタールの匂いを思い出して吐きそうになった。インタネットで見たニュースを思い出した。アルゼンチンの町では子犬がコールタールだらけになっていた。私はコールタール恐怖症だ。

私の身体のデキモノも、いくら手術でとってもまたできる。でも私が見たものはあのヒョウではなく、オオカミだったと信じたい。気配は優しかった。外に出たとき玄関に干している柿の一番下の一個が齧られていた。猫かな。洗濯物を干すのは忘れた。パンの生地がすごく膨らんだ。今日はいいパンができる。

12月21日。白神山地にオオカミはまだいるのか。
西目屋村まで行きたくなった。乳穂ヶ滝のところで探してみたい。西目屋村に住めばよかった。崖の近く、古い家を買って、自分で直し、家の前の田んぼを復活して。でも買わなかった。アトリエにしたかった。あの家に呼ばれたから。窓から覗くと、緑色の昭和のキッチンが見えた。後ろは岩木山とりんご畑だ。滝はもう凍ったかな。

でもあのキッチンでパンを焼くのは難しいだろう。あんな静かな人生はあるわけない。滝のところへ行ってみよう。今日は21日、雪かきを終えたら、あの方に会う予定だった。

あの方に会いに行ってたくさんお話した。私と話が合うひとはなかなかいないのでうれしかった。動物にも、女にも、男にも、ほかのたくさんの生き物になれる人と久しぶりに出会った。私がちょうど生まれ変わったばかりで、手からネバネバな透明な液体がテーブルに流れたので、生まれ変わったばかりということがばれそうだった。目を合わせるたびに部屋が違う空間に変わる。季節も、春、夏、秋になって2秒で冬に戻った。様々な人が部屋に入ってきた気がするが、私にしか見えなかった。初めて出会ったのは森の中のすごく暑い日だった。

寒くなったので、キッチンでそば茶を入れた。保育園に迎えに行くとき、車のラジオから世界の音楽という番組でアフリカの不思議な曲が流れていた。アフリカにオオカミいないだろうと一人で笑った。でもあのオオカミには前もどこかで会ったことがあると思う。どこだろう。思い出せない。そうだ。祖父母の庭に夕方に来ていたのだ。

家に帰って二階のストーブをつけようと思ったら、二階の窓から見えた。窓まで背が高いと昔話で聴いていたけど、確かそうだ。目を合わせる。怖くない。背の高いものは怖くない。さっきのオオカミは、あなただったのか。私にしか見えないが、どうも、トロールだ。家と私を守っているのかもしれない。たまに目を合わせるだけで十分。考えは伝わるから。家の前にこの優しいトロールが立ってから、飼っている金魚が何倍もの大きさになって水槽に入れなくなった。金魚というよりらんちゅうだがそれにしても大きすぎる。

私の理解者は一人いれば十分だ。今日も私の映画は拒否された。裸のシーンを入れればよかった。裸になったつもりで作ったのに、裸のシーンがない。女性の裸ですべて解決できる世の中ではない。女性の裸は神話的な空間だ。限られたものしか見てはいけない。

12月21日本当に短い日だった。残ったそば茶のかすに蜂蜜を混ぜて食べた。