毎日の魚

イリナ・グリゴレ

マニ・コウル監督のUski Roti(私たちの毎日のパン)という映画を朝の4時に見た。1970年に撮影されたインドのニューウエーブ・シネマの名作である。最近、「時間」というものは「私」と関係なくどこか消えてしまうだけの繰り返しの中にある何か、もっと正しく言えば「ない」という感覚が強く、この映画もまさに私の感覚を正当化してしまった。このごろ朝4時か3時半に起きてシネマの名作を見る。今一番やりたいこと、高校生の時にやりたくてもできなかったことだ。朝4時に映画館が営業すればいいのに(今の映画館で見られる映画に興味ないけど)と思ったりしているが、結局のところスマートフォンの小さな画面で寝ている娘たちのつま先のそばで見ている。朝のこの時間、今の時期の青森県はまだ暗い。スマートフォンで見る映画の歴史に名を残す作品は、大スクリーンでの上映のために作られていたはずだが、今の世界ではこのような映画を大きなスクリーンで見られる場所はほとんどない。それでも、私は幸せ。ずっと見たかったから。こうやって暗く静かな「時間」の中、別の世界に入る。娘たちから隠れて、自分だけの時間を満喫する。映画をみて、論文を書いて、本を読む。この三つの行動はこれからも譲れない。

家族が起きだす時間が来ると、私はすでに一日が終わったように疲れている。罪悪感と戦いながらパジャマのままで簡単な朝ごはんを作り、牛乳を温めて、ピンク色に溢れる洋服に着替えさせ、娘たちの髪の毛にブラシを通し、ゴムを探して髪の毛をまとめる。髪の毛の時間だけすこし落ち着いて、その次は靴下を探す。現代の家族ではお揃いの靴下を見つけることがなかなか難しい。なぜかというと、私の精神状態を表すかのように、大人のも子供のもすべてバラバラになっているから。したがって、毎日家族全員は色が違う靴下を穿いている可能性は、毎朝朝日が昇るのと同じくらい高い。それでも楽しんでいる人がいる。次女はこれが当たり前だと思っているので、苦労してペアの靴下を大事にとっておいても、わざわざピンクと青にしたりして、色づかいのセンスはまるでデザイナーだ。二人の娘は毎日のファッションのこだわりが強い。色はピンクとキラキラ模様、それにふわふわスカートと、女の子らしいものがいいみたいだけど、3歳の次女は季節に関係なく着たいものを選ぶ。真冬に半袖とノースリーブを着ようとするので、10分以上交渉時間がかかる。ある朝、彼女はひとりで子供部屋のタンスに服を選びに行った。どかどかと階段から音が聞こえ、中履きの運動靴を右左あべこべに履いたまま、下半身はピンクのふわふわスカート、上半身は裸という新しいファッションを考えた。「着たいもの見つからなかった」と言いながら。皆を笑わせた。

着替えが終わった5歳の長女は、ゆっくり、ゆっくりテレビを見ながら朝ごはんを楽しんでいる。彼女も私に似ていて他の人の時間と違う時空間を生きている。「ゆっくり」と「早く」が真逆になっている。そして交渉が始まる。「いかない」と強く主張している娘たちに対して、私はおもちゃとスイーツを買う約束をしなくてはならない。靴の選び方にもこだわりがたくさんあって、毎日の気分に合わせている。次女は相変わらず右と左を履き間違え、そのまま平気で歩くので、私はむしろ感動する。でも彼女の才能はもっと深いのだ。天気予報が晴れでも彼女が執拗に雨靴を履こうとするとき、昼にはかならず天気が崩れて雨が降る。こういった感覚が大人になってからは失われたかのように皆は生きているが、最近やっとわかった。皆は隠しているだけ。私も母親になっても「しっかりしている大人」になかなかなれない。逆に、これから子供の感覚へ戻ってもいいのではないかと勝手に思う。

娘たちが遅れて出かけたあと、家の状態を観察し、限られた「時間」の中で優先順を頭で決める。原稿を書くことから始めると、お迎えの時間があっという間に来てしまう。休息の時に、洗面台の上をふきながら自分の姿を鏡でみる。髪の毛が癖毛で一本一本違う方へ向いて、目の下真っ黒、パジャマのままで色が白っぽい。現代のお母さんの像だ。これから着替えて化粧するなんて、時間の無駄だ。でもそれだけではない、自分の靴下も娘と同じように毎日左右が違っている。鮮やかな色の靴下が好みだったころから残っているもので、ネオンピンクとネオングリーンの組み合わせなど、毎日足元が賑やかだ。昼ご飯は食べる時間があまりないので、最近では茹で卵にはまっている。お腹がいっぱいになると気づいたから。それで足りないなら、卵かけごはんにする。スーパーに晩ご飯の新鮮な野菜とお魚、肉など買いにいくときは、パジャマの上に黒いコートを着て、違う色の靴下もブーツで隠す。こんな私、自分でも人間の範囲に入らないと思う時があるが、本当に世間の人たちは皆しっかりしているのかと疑い始めた。自分がこうなったのは本当の自分を受け止めたからだ。もう、無理しないと決めた。隠すのはもう嫌だ。今の自分がそのままの自分だ。

娘たちを迎えに行くときはさすがに黒いパンツに着替えて、部屋着のままの上半身はコートで隠し、軽く化粧して、少し芝居の準備をする。でもこれだけでも疲れて、家に帰ったらもう晩酌したくなる、まだ昼過ぎなのに。世間の人々は疲れないのか?と独り言を言い始める。それはそうだよね。大人とは、次女みたいにお風呂から出たばかりの裸のままで、台所に置いてある砂糖の入れ物に手をすっぽり入れて、口に砂糖を繰り返し運び、繰り返すうち小さな身体は砂糖だらけになって、子豚の砂糖漬丸焼きみたいになれない生き物だ。娘たちは大人と子供の違いが分かっていて、今のうちにいたずらをたくさんしておこうという哲学だろうが。子供は人間以外のものにもなれる。ある日、娘たちは子猫ごっこをしはじめたが、長女はそういう気分ではなかったようで、次女に「もう猫やめよう、猫じゃないもん、人間だ!」と言った。次女はその現実を受け入れるのは難しかったらしく、激しく泣き始めた。「人間嫌だ!人間は絶対嫌だ!こわーい!」と5分くらいの間さめざめと泣き続けていた。

私は毎晩のように海の夢を見る。ゴッホは海を描いていないが、ゴッホのように青い色の海を見たり、津波の来る夢を見たり、不思議な空間の中にいる。先日、長女の一つ年上の男の子の友達の家にいった。一緒に遊んだら娘は落ち着いて、純粋な愛、小さな愛の始まりを感じた。人間とはただお互いに愛されたいだけなのではないかと思った。なにか、大事なことを思い出したような気がした。神社の庭で遊んだいたら、キジのつがいも現れて、寒かった私は急に暖かくなった。男の子は誰かが捨てたカキの殻を見つけて長女に説明した「昔はここは海だった、そして今は人間が住んでいる、この貝はあの時からあるよ」。私は最近魚を毎日食べたくなる理由が分かった気がした。その日にたまたまスーパーで見つけた県産の小さめの天然真鯛を買わずにはいられなかった。鱗はキラキラしていて、娘たちの笑顔を思い出させた。あまりにも美しい鯛だったから幻かと思った。私を待っていたかのように、人間だらけのスーパーに置いてあった。自分でさばくから低価格で買って家に持って帰った。なぜか、魚を裁くことが大好きな私。この時間には自分は自分にうそをついていないし、すべて並行に並んでいる気がする。人生は間違っていないと思う時間になる。私もあの鯛のように鱗がキラキラして空間という海の中に泳いでいるのだ。私も鯛になっている。今日の靴下は緑と肌色だ。肌色は何色とでも合う。

映画Uski Rotiに登場するインドの村に住む女性は、毎朝のようにバスの運転手である夫にロティ(ナンに似ている)を届けるためにバスを待っている。夫は町に女ができていて一週間のうちに火曜日しか家に帰らない。彼女はコートを直したり、帰る時にやさしくマッサージしたりして、抗うこともなく毎朝パンを焼き、遠く離れているバス停まで歩いて行く。映画の一つ一つのシーンがとても美しく、インドの独得な時空間と景色、自然の一部としての人間の在り方が表現され、感動を与える。時間は彼女の内面的な時間に変わり、見る側には分からないことがたくさんあっても説明されないまま終わる。女性の人生とは何か、深く考えさせる映画であり、彼女の間違っていない生き方に共感できた。孤独を感じることは人間である限りだれでもできるが、この映画の通り、皆が自分の時空間を生きていることは確かなのだ。