待ちながら

北村周一

房総に生まれ、房総に育った抽象画家、通称キネさんは、釣りの名人でもある。
ことに川釣り。鮎漁解禁ともなると、絵筆を釣り竿に替えて、関東近郊の川へいそいそと出かける。どういうわけか、絵描きさんには太公望が多い。趣味としての魚釣りは、性格的に気の短いひとに向いているといわれるけれど、関係があるのだろうか。
キネさんは、無類の酒好きとしても知られている。とりわけ日本酒に目がない。休肝日など、どこ吹くかぜといった具合で毎晩でも召し上がる。
日が暮れるころになると、キネさん、顔つきが変わる。満面に笑みを浮かべて、つき合ってくれそうなひとに声を掛ける。断るのが、もったいないような誘い方なのだ。とはいえ、だれでもよいというわけでもなさそうで、臨機応変、飲む相手はそれなりに選んでいたのかもしれない。
もう30年も前のことだけれど、つまり1989年の2月、川崎のとあるギャラリーで、キネさんの個展が開かれていた。JR川崎駅からほどちかいところにあるオフィス・ビルの一角。ぼくはそこで、展覧会の企画や編集のしごとをしていた。
キネさんとは、年の差20歳ほどの開きがあったが、なんとなくウマが合ったのだろう、キネさん50代半ば、ぼく30代半ば。夜な夜な飲み歩くことと相成ったしだいである。
一大歓楽街を有する川崎駅周辺は、若干のキケンな雰囲気をまといつつも、労働者の町ということもあって、飲んだり、食べたり、遊んだりするには打ってつけの場所だった。
そしてキネさんはといえば、展覧会の会期中3週間のあいだ、なんといちにちも欠かさずにギャラリーに通い詰めたのである。
ところがである、その前の年の秋口からはじまった自粛ムードがいや増しに増して、ふだんはうるさいくらい賑やかな川崎の町並みや通りも、どこかしらよそよそしくなり、贔屓の店が臨時休業中となる日がつづいたりもして、仕方ないから別の店へといった感じで、取り敢えずは開いている店を見つけることが先決となった。
といっても、こんなときでも営業中の店はさがせばあるもので、暖簾をくぐってしまえばこっちのもんだといわんばかりに、不謹慎ながら、ふたりニヤリと笑みを交わすのだった。
それでも開いている店がなかなか見つからない日があった。
2月24日のことである。きょうはまっすぐ帰れるかなと思っていたら、キネさんどこからか見つけてきたらしく、折角だからといいながらいっしょにその夜も酒酌み交わしたのだった 。
いまから顧みれば、そんなにまでして一体何を話すことがあったのだろうと思う。会話の内容はほとんど憶えていない。店には、自分たちと似たような酔狂な客がちらほらいたように記憶しているが、川崎の町は驚くほどひとが少なくて、ひんやりとしていた。時代が大股で通り過ぎてゆく、といったのはほどよく酔ったキネさんだったろうか。

それからさらに、30年ほど時を遡ってみたい。
すなわち1959年、ぼくが小学校に入学した年である。
いわゆる高度経済成長期を迎えて、右肩上がりに日本が豊かになっていった時期、昭和の30年代には勢いがあった。子どもながらにもそう感じるだけの華やかさがあった。
けれども、学校というところは、期待したほどには楽しい場所ではなかった。
小学校も、中学校も、早く休みが来ないかと、そればかり考えながら、登下校していた。
春休みは、あっという間に終わるし、緊張を強いられる。
夏休みは、待ち遠しいわりには課題が多すぎて後半が息苦しい。
冬休みは、イベントが盛りだくさんで一番気に入っていた。
その冬休みが、もしかしたらいちにち増えるかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
旗日がいちにち増えるといいなと、ひそかに思っていた。
しかしながら、なかなか年号は改まらなかった。
こころ待ちにしていた新しい年号がやって来たとき、ぼくはすでに三十路半ばで、なんの感慨も持つにいたらなかった。

 平成のミカドとぼくと飼犬のラクとはしばし誕生日いっしょ
(ひょっとしたら、冬休み、いちにち減ることになるのかもしれない)