灰いろの水のはじまり(その1)

北村周一

「目と耳とえのぐとことば」まずは手をなにはともあれ動かしてみる

具象・抽象にかかわらず、絵を描いているときに、キャンバスや紙にえがかれた絵そのものよりも、自分が手にしているパレットの上の絵具のほうが魅力的な状態になっていると、感じたことはありませんか。
はずかしながら、しばしばそういった感興に陥ることがぼくの場合にはあるのです。
それで思い切って、キャンバスをパレット代わりに使ってみることにしました。
いわゆる張りキャン(木枠にキャンバスを張った状態で画材屋などで売られているもの、比較的安価)を、サイズでいえば、F6号、F8号、F10号、それぞれ20枚ずつ計60枚手許に用意しました。
壁に垂直に立てかけた相応に大きなキャンバスを相手に、パレット代わりのハンディなキャンバスに絵具を絞り出しながら仕事を始めてみると、最初は違和感がありましたが、
慣れてくれば、木の板や、アクリル板、また腰の強い紙とおなじように、使いこなせることがわかりました。
結局パレットは、ある程度の大きさがあれば何でもよいのであって、絵具を混ぜ合わせることができれば十分使用に耐えるのでした。
そんなことを始めて、かれこれ20年以上も経つのですが、うまくいったかどうかというと、謎は深まるばかり。
もともとパレットは、絵具が絵になるまでの、中間領域に位置しているわけで(それも下位のほう)、いわば縁の下の力持ち的存在なのだから、おいそれと表舞台に出てくることはないのでしょう。
パレットがそのまま絵になるなんてと、だれもが思うことでしょう。
美術史に名を遺した画家のパレットが、美術館などで展示されることはままありますが、
あれらはおそらく資料的価値として関心を呼ぶのだと思います。
ではパレット代わりのキャンバスは、いつかは絵になるのでしょうか。
一歩ゆずって、絵とはいわないまでも、すくなくとも絵のようなものにまでは昇り詰めることは可能なのかどうか。
興味がそそられるところです。(つづく)

 描いては消し消してはえがく下描きの下描きのような絵のようなもの