うれしくて笑い出しそう(晩年通信 その12)

室謙二

 そのころはB29爆撃機が飛んできても、それに対抗する戦闘機はもうなかったのだね。高射砲も爆撃で破壊されていた。B29はゆうゆうと飛んできて、木造建築を焼き払う焼夷弾を落としていった。
 私の父親は、鉄筋コンクリートの江戸川アパートの中庭に出て、B29が飛んでいる空を見上げていたらしい。
 空に爆弾が振りまかれて落ちてくる。その一つが、父親の立っているところに向かって落ちてきた。父親は江戸川アパート四組の入り口に飛び込む。爆発がおこり、入口階段の石壁を焼き焦がし、一階の我が家の窓を破壊して、積んであった本の一部に火がついた。父親は火のついた本に、どんどんと水をかける。こうやって父親が大事にしていた英語の本は、水浸しになった。
 これは敗戦の年、1945年(昭和20年)の5月のことだっただろう。すでに東京は、三月の大空襲で焼けて平らになっていた。鉄筋コンクリート六階建ての江戸川アパートは、その焼け野原に建っていたのである。

 焼夷弾は、我が家の窓の下にあった鶏小屋を直撃した。そして三羽のニワトリは、跡形もなく消滅した。ニワトリにはそれぞれ名前がついていて、オス鶏の名前は権兵衛でみんなに愛されていた。だが鶏たちが直撃弾によって跡形もなくなり、食糧難のおり大切な関白質であったタマゴを、食べることができなくなる。
 その爆撃で庭に開いた穴を、私は覚えている。私が生まれたのは1946年の1月だから、爆撃の八ヶ月あとであとだが、穴は何年も埋められることはなかった。そしてその横にまた新しい鶏小屋が立てられて、鶏たちが毎朝わたしたちにタンパク源を供給してくれていた。まだ温かなタマゴを取りに行くのが、私の朝の仕事であった。

アメリカに来たのね

 私には十二歳年上の兄と、十六歳年上の姉がいる。爆撃の時、兄は学童疎開で東京にいなかったが、姉は工場に働きに行かされて、軍需品を作っていた。学校の授業はもうなかった。5月の空襲のとき、父親は娘は工場への爆撃で死んだと思った。軍需工場はいつも狙われていた。そんなところに、軍部は十代中頃の娘を働きに出す。しかしその工場への爆撃はなく生き延びたのである。
 何十年もあとに、私は姉と一緒にハワイに遊びに行った。姉はフラダンスとウクレレをやっていて、ケンちゃんいっしょにハワイに行こうと私をさそった。連れて行ってくれ、ということだった。
 ホノルル空港で、乗り換え便を待ってベンチに座っていると、「ケンちゃん、私はアメリカに来たのね」とうれしそうにいった。彼女の上に爆弾を振りまいていた、敵国アメリカについにやってきた、ということだった。
「ケンちゃん、お姉さんは怖くて怖くてね、B29の爆音が遠くから聞こえてくるでしょ。最初のころは高い高度だったけど、最後のころは低い高度で爆弾を落とす。音を立てて落ちてくる。それが本当に怖いのよ」と言っていた。
 姉さんの友人の一人は、B29の護衛についてきた戦闘機が急降下してきて、それに狙い撃ちされたらしい。操縦席のパイロットの顔をが見えたとのこと。パイロットにもその女学生の顔が見えたのか?
 パッパッパと地面に弾丸があたったが、彼女には当たらなかった。
 2001年5月の、アルカイダのアメリカへの自爆攻撃テロのとき、姉さんはビルが崩れ落ちる映像をテレビで見て、気持ちが悪くなり吐いてしまった。B29による自分たちへの爆撃を思い出したのである。十代の娘にとっては、空襲は、思い出すと吐いてしまうぐらい、恐ろしい体験だったのである。
 無差別の絨毯爆撃(Carptet bombing)であった。絨毯をひくように、地上に爆弾を落としていく。工場とか港とか軍需拠点と、普通の人びとの暮らしの場を区別しない。おおくの非戦闘員が死ぬことは、アメリカはわかっていた。それが戦争の政治であった。しかし爆弾の雨の中にいた娘にとっては、アメリカがどうのこうの、日本がどうのこうのではなく、ただ恐怖以外のなにものでもなかった。

うれしくて笑い出しそう

 「だからね、戦争が敗戦で終わった時は、もううれしくし笑い出しそうだったわ」
 彼女はすでに戦争が敗戦で終わることを、父親から聞いて知っていたのである。父親は、敵国語の英語は教えなくていいと、高校教師の仕事をやめさせらて、NHK海外放送部門で働いていた。同じ高校が戦争が終わると、英語教師として戻ってきてくれと懇願したらしい。父親は不愉快なので戻らなかった。
 家族は、戦争が終わることを知っていた。
 女学校でみんなが集められて、天皇の放送を聞いたのよ。そしてみんなが泣き出した。だけど私は、もううれしくてね。これで死なないですんだ、と思ったの。アメリカ軍が来たら、若い女性は強姦されるという脅かしがあったけど、英語で放送を聞き、英語を読める父親は、そんなことはないよ、と言っていたから。  
「ケンちゃん、私はアメリカに来たのね」と姉が言うとき、そこには思いがこもっている。ケンちゃん、私の子供の時の記憶は、ずっと戦争だったのよ。日本が中国で盧溝橋事件を起こしたのは1937年(昭和12年)で七歳、真珠湾攻撃のときは11歳で、敗戦は15歳だった。ああ戦争が全部終わったということね。
 父親も早く戦争が終わってほしいと思っていて、それは敗戦であると知っていた。そう家族にも言っていた。姉さんは、そんなこと外で言ったら、特高警察がやってきて父親が逮捕されることを知っていた。だから学校では鬼畜アメリカであっても、知らん顔をしていたのである。二重生活だった。よくあんな危険なことを15歳の娘に教えた、と大人になってから言っていた。
 父親はアメリカが勝ち、日本が負けることは戦争中から受け入れることができた。しかし父親は、アメリカが大都市に対して行った無差別の絨毯爆撃については、決して許さないと言っていた。あれだけ非戦闘員を殺したのは、戦争犯罪だと思っていた。無差別爆撃によって日本の降伏が早まって、多くの人が死なずにすんだというアメリカの言い分を、父親はけっして認めなかった。
 3月の夜間空襲では、十万人の民間人が焼け死んだのであった。木造建築を取り囲むように焼夷弾を落として火事を作れば、多くの人が焼け死ぬことをアメリカ軍は知っていただろう。

8月15日がやってくる

 8月15日がやってくる。しかしその敗戦の日の意味も、いまやすっかり薄れてきている。私は75年前のその日を、母親のお腹の中で経験した。
 妊娠した母親は、お腹の中の子供と自分の体のための食べ物を、戦争末期と敗戦直後で十分に手に入れることができなかった。「私たちには栄養のある食べ物がなかったので、ケンジは私のお腹の中で、内側から私を食べながら育っていったのよ」と笑いながら何度も言っていた。母親は、私と息子のお前はひとつの体なのだよ、と言いたかったらしい。
 毎年やってくる8月15日は、アメリカでは日本ほとんど大きなものではない。もっとも一度だけ、1995年の戦争終結50周年記念、というのが大きかった。新聞は特別記事をのせ、テレビも数日にわたり特別番組を作った。それをアメリカ人の妻と一緒に読み、テレビ番組を見て、私たちが敵同士だったことを思い出した。
 いつもはそんなことは、考えたこともない。不思議なものね、私たちは敵同士だったのよ、と言い合ってわらった。