ウクレレ少年、エレキ老人、プリンセス(晩年通信 その15)

室謙二

 私はかつてはウクレレ少年であったが、いまではエレキ老人である。
 それも、エレキベースである。
 エレキギターなんか、チャンチャラおかしいのである。
 エレキベースで低音リズムをがんがん弾けば、音は耳に響くのではなくて、胸に押し寄せる振動となる。だが家庭ではそうはいかない。大きな音でベースを弾き始めたら、妻がすぐに私の部屋に飛んでくるだろうし、一階の住人も天井が振動するのに呆れて、私たちに電話をしてくるだろう。
 だから、そーと、弾かざるを得ないのである。

 クチ三味線の名人である

 私が子供のときに、我が家に戦前の手回しのポータブル蓄音機があった。
 ゼンマイをぐるぐるとまく。それから金属パイプのピカピカ・ピックアップを、回り始めたSPレコードの上に乗せる。その前に、鉄針をつけないといけないね。低音がよく出る、あるいは高音がでる、クラシック用とかジャズ用とかがあったと思うけど、いずれにせよ電気を使わないので、音は小さい。
 金属ピックアップのパイプを通った振動音は、ポータブル蓄音機の小さなホーン(木箱の中)から出てくる。ジャズだとベースとかドラムなんて、分離して聞こえるはずもない。音がダンゴになって、リズムを作っている。クラシックのオーケストラねえ、絶望的だ。
 子供の頃、ショパンのピアノソナタの10インチSPレコードがあった。戦前のクラシックのSPは、それ以外にもあった。落とすと割れてしまうので注意しないといけない。SPは一分間に78回転でぐるぐると回る。LPは33回転だったから、それよりずっとはやい。ともかくクラッシク音楽が聞こえる。
 ところが13歳年上の兄が、高校に入るとジャズを聞き始めた。
 それもビーバップですよ。ポータブル蓄音機から、チャーリー・パーカーが流れてくる。音が小さいと兄貴は不満。それで近くの電気屋さんにたのんで、クリスタル・ピックアップを付けてもらた。その電気信号を、改良した並四ラジオで増幅してU型マグネットのスピーカーで聞く。これで音は少しはましになったが、いまの録音とは比べ物にならない。
 それでもビーバップといっしょに、兄貴はチャットする。幼稚園の私もチャットである。
 ビバビバ・ブー。これが私の最初の音楽体験であった。
 聞くだけではなくて、クチ三味線で「演奏」するのである。

 「シマッタ、チャンスを逸した」

 だから私はいまでも、音楽体験は聞く(受け身)だけではない。すぐ下手くそな演奏に走る。
 私が小学生の高学年だったころ、兄が友人からウクレレを借りてきた。誰からか3コードを教わった。CとFとG7かな。この3つさえあれば、ポロンポロンといろいろな歌を弾ける。でもすぐに飽きてしまった。そのあとリコーダーとかフルートを吹いた。
 フォーク・ギターを弾き始めたのは、二十歳をすぎたころ。
 ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の高校生・予備校生が、ギターをつかんで街頭に出たのは1978年(昭和四十三年)だった。ベ平連事務所にいた数年年上の私も、負けずにギターを手に入れた。メジャー・コードを三つ教わって、マイナーを一つ二つ、それにいろんなキーで弾くためにカポを買った。それでもう私は、フォーク・ギタリストであった。
 ベ平連ニュースの編集をしていた私は、反戦フォークを歌い始めていた高石ともやにインタビューして友人になった。そのあと東京に出てきた岡林信康とも、中川五郎とも友人になった。
 五郎ちゃんはまだ高校生で、鶴見俊輔に教わるのだと同志社大学の新聞学科に入ったが、大学に行かずに街頭で歌う。鶴見俊輔も大学で学ぶより、歌うジャーナリストのほうがヨロシイと、それを支持していた。
 五郎は京都から東京に出てくると私の部屋のベットでぐっすりと寝て、夜中に私の恋人が来て、服を脱いてベットに滑り込んでも分からなかった。恋人の方は、「よく見たら五郎ちゃんだったわ」と、服を着て出ていったらしい。それを聞いた五郎は、「シマッタ、チャンスを逸した」と悔しがっていた。

 ケンちゃんウクレレを弾いたわよね

 ウクレレをまた始めたのは、三、四年前で、ガンになった姉さんに電話したら、ケンちゃんウクレレを弾いたわよね(昔のことを覚えていた)、こんど一緒に弾こうと言われた。
 姉さんはハワイアン・ダンスをやっていて、いっしょにハワイに行ったことがあった。それが、踊りながら、ウクレレを弾くことを始めたらしい。ウクレレが手元になかった私は、すぐにハワイのカマカに注文した。ワクワクしてきた。
 ウクレレは断じて「オモチャ」ではない。表現力のある楽器だよ。いまのウクレレは、テナーウクレレが一般的だけど、何十年か前は小さなソプラノウクレレが普通だった。ソプラノとかテナーと言ってもキーの音の高さは同じ。音の大きさとか響きがちがう。
 手に持って構えたときに顔に近い弦が、一番音程が高いG。上から二番目の弦がCで、一番低い音程。それから二番目(E)、三番目(一番下の弦でA)と音程が上がっていく。面白いチューニングだね。ウクレレは一九世紀にポルトガル移民がハワイに持ち込んだものだが、チューニングの起源をさぐると、南米とかアフリカらしい。 
 演奏はしていなかったが、私はずっと「ハワイアン」を聞いていた。ハワイアンと言っても、日本の人が考えるハワイアンではありません。あれは1930年代から40年代の、ハワイをテーマにしたハリウッド映画の音楽らしい。そのころはハワイがアメリカの観光旅行先としてはやって、ロサンジェルスの映画関係音楽家がそれらしい音楽を作ったのが、いまの日本人の考えるハワイアンです。ハワイの人は、あれがハワイアンだとは思っていない。

 ギャビィー・パヒヌイに会う
 
 私はギャビィー・パヒヌイ(Gabby Pahinui)に会ったことがあるんだ。彼の家に行って、音楽家でもある息子たちとのセッションを聞いた。庭に座って、木に寄りかかって彼がうたう写真を撮ったよ。と言うと、ハワイ音楽を知っている若い人は、「本当?」と驚く。
 と言っても、ギャビィー・パヒヌイなんて、いまはみんな知らない。石原裕次郎とか加山雄三のウクレレ先生のオータサン(Ohta-San)だって、ピーター・ムーンだって、「演奏を聞くだけではなくて、会って話して、インタビューしたんだぞ」と威張っても意味ないか。
 気にいると受け身でいるだけではなくて、すぐに始めたくなる私は、Nancyとハワイ島で休暇をとっているときに、スラッキーギター(Slack-key guitar))をはじめた。スラッキー・ギターはいろんなオープン・チューニングがあって、波がやってきて戻るような感じで弾く、始めも終わりもない。

 ギャビィー・パヒヌイのファンだけではなくて、プリンセス・カイウラニ(Kaiulani,1875年生まれ)のファンでもある。追っかけのカンジだ。プリンセスはもう生きていないんだが。
 彼女のことは読んだことがあったが、ホノルルの街を歩いていたらプリンセス・カイウラニ・ホテルがあった。入ってみると彼女の写真があって、混血のすごい美女だ。
 結婚せずに若くして死んだが、ハワイ王室は一時期、彼女を日本の皇室に嫁がせようとしたらしい。アメリカとではなくて、アジアである日本と関係を持ちたいと思った。日本側がまったく興味なし。外国の血を日本の皇室に入れるのなんか、もってのほか。残念だね。ハワイでは、彼女はいまでも人気がある。

 ごちゃまぜダ

 ハワイ音楽は好きだが、わたしはいろんな音楽をごちゃまぜに聞くのが好きだ。もっとも最初の音楽は、小学生のころに兄貴に聞かされたジャズ(ビーバップ)なので、それはいまに至るまで聞き続けている。マイルス・デビスは65年以上聞いていることになる。
 それと中学生の高学年でバロック音楽を聞き始めた。カークパトリックのハープシコードは、どういうきっかけで聞き始めたのかなあ。そして高校に入って、グレン・グールドを発見した。バッハのピアノ曲をたくさん聞いて、レコードを聞きながら、いっしょに口で歌っていた。
 音楽は、ヨーロッパ(クラシックも民族音楽も)から、アメリカ(ジャズも山間部の音楽もモダンフォークも)、中国から、日本のもの、南米(ブラジル)、アフリカ、ハワイ・南太平洋(フィージーに行って発見)となんでも引き受けた。
 息子がフェラ・クティ(Fela Kuti)がいいぞ、と言えば、ひと夏ずっとそれを聞き続けたし、子供の頃に両親がタンゴを踊っていたのを思い出して、それを聞いた。バンドネオンのアストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)を発見。Ono Risa(小野リサ)もいい。
 息子が、インドのドラム音楽を教えてくれた。彼は西アフリカに滞在してドラムを叩いていた。ハリー・ベラフォンテは、その音楽も政治的態度も支持する。トランペットのヒュー・マセケラ(Hugh Masekela)は、何も知らずにカナダのクラブで聞いて驚いた。ジャズとアフリカ音楽の融合だね。ジャズをやっていたマセケラに、マイルス・デビスが、「もっとアフリカ音楽をやれ」としゃがれ声で言ったそうだ。キース・ジャレットのトリオは、原稿を書くときの音楽にちょうどいい。
 キューバ音楽もよろしい。ギターと歌もいいが、ピアノ音楽もいい。
 あるとき妻のNancyが、八代亜紀の「舟歌」を発見した。日本語が分からないのだが、すごくいいと言う。「お酒はぬるめの燗がいい、サカナはあぶったイカでいい、女は無口なひとがいい、明かりはぼんやりともりゃいい」といっしょに歌い、ともかく英語に翻訳した。
 私の方はビートルズが好きで、
 つまり、ごちゃまぜなんだな。
 私の人生も、ごちゃまぜだからね。