グランパKenjiの回想(晩年通信その2)

室謙二

 ついこの間、私は東京でティーンエージャーだったのだが、いまではカリフォルニアでグランパである。二歳の孫娘Maddieが私を指さして、「グランパKenji」と言っても、ニコニコとしているだけだ。
 最初はグランパとは誰か?と思ったが、もう七三歳だからね、孫娘には、私は老人と見えるのだろうなあ。私は青年のつもりだけど。
 妻のNancyは、十年ぐらい前に、孫と家族がグランマと呼び始めたときに抵抗した。ヘブライ語のグランマであるNanaと呼ばせようとしたのである。英語だとやだけど、ヘブライ語だといいのかなあ。しかしその試みは失敗。いまでは妻も私も、グランマ、グランパと呼ばれてニコニコとしている。

 MPを見ていた少年から、中途ハンパ老人に

 私は、一九四六年に敗戦後の焼け跡の東京で生まれた。あれはいまの東京とはまったくちがう。低い建物ばかりだ。住んでいた六階建て江戸川アパートの屋上に登ると、歩いて一五分ほどの飯田橋駅が見えた。左の方を見れば歩いて三十分の後楽園球場まで広がっている。いまでは高い建物がふえて、そもそも江戸川アパートも建て替えられたし、目の前の建物いがい見えない。
 何年か前に、飯田橋の五角の交差点にしばらく立ってみた。クルマが走り回り、秩序だってはいるが恐るべき忙しさであった。記憶にある一九五〇年代はじめの飯田橋五角交差点は、まだ占領時代である。白いヘルメットと白い腕章をつけたMP(アメリカ軍の警官)が、通りの真ん中で笛を吹いて、腕を上げたり下げたりして、クルマの行き来を指示していた。

 MPを見ていた少年からいまアメリカにいる私まで、六十年以上の時間がある。いったいその時間は、どこに行ってしまったのか?
 母親がいまの私ぐらいの歳に、そのころ私はまだ東京に住んでいたが、両親の家を訪ねたあと玄関で靴をはいていた。私のうしろに母親が立って、「ケンジ、私は七十歳をこえた。七十歳以上の老人であることの意味がわかりますか」と聞いてきた。靴のヒモを結びながら「わからないよ」と軽くこたえると、「私もわからない」と断定的な調子でいった。驚いた。
 「朝が目がさめると、ふとんの中で、ここはどこかなと思う。明治の大阪の子供か、大正時代東京の日本女子大の寮かもしれない。昭和になって結婚して子供がいるか、あるいはB29の爆撃下かもしれない。そして最後に、ああそうだ、私はもう七十歳以上なんだとわかる」と言っていた。私はいまその歳に、七十歳代になっている。そして母親と同じように、いったいそれがどういう意味なのか、よくわからないのである。
 父親は、やはり七十代のころ、「昔の老人はよかった」と言っていた。体も弱るし頭もボケてくる。よくわからなくなる。ところが今は、あたまも体もしっかりとしている。老人になっても、青年みたいだとほめてくれる。あれはほめ言葉か。頭はいいので、未来は確実に短くなっていくのが分かる。私は老人なんだ、青年ではない。と混乱していた。
 確かにそのとおりで、私もまた父親のように、青年であって老人である。本当の老人になるということは、どういうことなのだろう。だいたい父親の言うような本当の老人は、昔はあったのだろうか。そんなものは幻想かもしれない。
 私も老人でありながら青年で、私たちは「中途ハンパ老人」なのである。

 ムロ先生の買い物かご

 私には息子が四人いる。妻のまえの結婚の息子が五十一歳と三十九歳で、私の前の結婚のこどもが、四十一歳と三十六歳。私が小さいころ、五十一歳は大変な大人であり、自分の両親より年上であった。その歳の男が、息子であるのだから驚きだね。
 そして一番下の息子の娘のNanamiが、一歳になった。息子家族はロシアのソチに住んでいるので、生まれたときに会いに行った。このNanamiが二十歳になるとき、私は九十二歳である。生きているかなあ。妻の孫娘Maddieと、私のNanamiが娘になった姿を見るのが目標だけど。
 いまの妻は、そんなにうまくいくかしらと、私の健康を見て懐疑的だ。中途ハンパ老人なので、長生きするかもしれないぞ。

 親父がいまの私ぐらいの歳のとき、庭でとぶ蝶々を見て、五〇年前に死んだ母親を思い出したよ。時間の進行を距離ので考えると、私の母はずいぶんと遠くに行ってしまった。私は追いつけるかなあ、と言っていた。
 そのころ父親は、すでに早稲田大学の教員を定年で引退していた。他の大学は非常勤で教えていたし、大学教師になっている昔の学生といっしょに毎月研究会をやっていた。母親も足腰はしっかりとしていた。
 あとになって母親の足腰がおぼつかなくなると、父親は母親を手伝い、近所の八百屋、雑貨屋、肉屋を歩き回って、毎日の料理と洗濯、後かたづけをしていた。私を見てニヤッと笑い、こんなことをしているので驚いたか、という顔をしていた。いっしょに近所を買い物で回ると、ムロ先生、ムロ先生と言われて、店の人が品物を選んで、買いもの袋に入れてくれた。帰ってくると、母親がそれをいちいち吟味した。
 そして父親には何も言わなかったが、あとで「買い物をしてくれるのはありがたいけど、お父さんは古いものを掴まされているのよ」と、わらいながら言っていた。

 孫娘にロシア語と広東語を教わる

 長男が生まれたのは私が三十二歳のときだったね。次男が生まれたときは、私は三十七歳だった。
 私は、息子たちを日本においてアメリカにやってきた。長男は十三歳になったときに、私を追いかけてアメリカにやってきた。次男もまた十三歳のときに、兄と私を追いかけて、アメリカにやってきた。
 一三歳はボーダーラインで、ほっておいたら日本語が失われる可能性があると言われた。日本語を持っていたほうがいいと思ったので、普通の英語の学校に行かせながら、私が日本語の読み書きを教えた。だから中学・高校・大学と英語だけの教育を受けたが、二人とも漢字混じりの日本語を手放さずに、バイリンガルになった。日本語の本も読み、日本語の長い文章も書ける。
 そして今度は、NanamiとMaddieの世代になる。Maddieは妻の息子の子供で、みんなは英語で話しかけるが、中国人グランマは広東語で話しかけている。二歳のMaddieは、英語も広東語がわかったような顔をしている。
 私の孫娘Nanamiはロシアに住み、ロシア人の母親はロシア語で話しかけている。母親と、ロシア語のできない父親(私の息子)は、娘のまえで英語で話をしている。息子とグランパの私は、Nanamiに日本語で話しかける。だからロシア語が母語になるだろうが、英語も日本語も耳で聞いて分かるようになるだろう。別の孫はスペイン語で学校教育を受けている。ということで、我が家の孫たちは、英語と日本語とロシア語と広東語とスペイン語の、五ヶ国語のなかを生きる。私はロシア語と広東語はわからないので、孫に教わる。そして英語が、家族共通語である。

 私は記憶が悪くなってきていて、もっと英語を忘れたらどうしよう。記憶が薄れて、私の過去もなくなっていく気がする。未来だっていつ終わるかわからない。ともかくできるだけ、ニコニコとしている。悪くなった記憶を使って、なんとか過去を考えてみると、ずいぶん人に迷惑をかけて生きてきた。息子たちにも別れた妻にも、両親とか家族にも、友人たちも呆れているかもしれない。
 一度、息子の一人に迷惑をかけたと謝ろうとしたら、気にしない気にしないといなされた。興味のある人生になったよ、と言われた。そうかもしれない。でもうっかり謝ったら怒る人もいるだろうな。

 偏頭痛は友だち

 この数週間、片頭痛の生活をしていている。何年かに一度こうなる。
 このところ、医者にもらった注射と、弱い麻薬コデイン入りの飲み薬を持ち歩いている。このあいだ日本から帰ってくる飛行機の中で偏頭痛になり、トイレに行ってモモにぶすりと注射をうった。ヤク中のオジサンみたいだった。
 頭痛は私の友だちなのである。と言ったら、そんなものを友だちにしてはいけない、と妻におこられた。そんなことを言っても、六歳ぐらいから頭痛の、というより、頭の中で何かが起こっていた記憶がある。
 小学校の準備会が幼稚園で行われたときが、最初の偏頭痛の記憶だ。偏頭痛というのは、痛みではないのだな。痛みはその一部で、痛みのない偏頭痛もある。興味のある人は、片頭痛の専門書を読んでください。ともかくあのとき、頭の中で何かが起こった。その数年後には自宅で同じようなことが起こって、鏡で自分の顔を見ると、左半分が歪んでいて、口からよだれがたれている。
 母親のところに行って、顔を見せて説明したのだけど、ずっとあとになってその時のことを聞くと、なにかを発音をしていたが、言葉になっていなかったと言う。偏頭痛による言語障害だろう。母親はいろいろと調べたあと、私を連れて大病院の精神神経科に行った。それは地下にあって、母親が私の手をギュッとにぎって廊下を歩くと、精神異常の患者たちが近づいてきて、私たちを見ていた。
 私の頭痛は、ストレスによるものではないのだよ。と妻に説明している。あれは友だちか、ひょっとすると私自身なんだ。
 父親も兄も頭痛持ちで、だけど幸いなことに、私の息子たちにはつながっていない。孫娘が頭痛持ちでないことを願うね。頭痛は私のところで止めておきたい。