共和国(晩年通信その5)

室謙二

 「音無しの構え」は、知っていた。
 だが「音無しの構え」が、無実の人間を平気で殺す机龍之介の剣術であるとは知らなかった。子供にとっては、オトナシノ・カマエという発音が、格好よかったのである。
 チャンバラは、一九五〇年代の男の子にとっての毎日の遊びだった。適当な棒切れをみつける。棒を両手で日本刀のように構えて、叩きあう前に一瞬の沈黙をつくる。そこで「音無しの構え」と宣言するのである。
 それから棒きれで、バチバチと叩きあう。「大菩薩峠」の机龍之介は音もなく構え、剣に触れさせることもなく相手を斬り殺すのだが、我らが剣術は大騒ぎの棒の叩き合いであった。体を叩かないのはルールである。

 机龍之介が登場する「大菩薩峠」は、世界で一番長い小説らしい。文庫本で二十巻ある。子供たちは、そんなことは知らない。しかし「オトナシノカマエ」は知っていた。
 この長編には登場人物がたくさんいて、ストーリーも入り組んでいる。書き始めてから腸チフスの死で未完で終わるまで、中里介山は断続的に三十年間書き続けた。最初のプランは、途中で変わってしまう。最初に登場した机竜之助が、全巻を貫く主人公かと思ったら、話が進むとときどきしか出なくなった。
 あまり長いので、最初から最後まで通して読んだ人は少ない。文庫本の最初の巻はたくさん売れても、最後の方の巻はあまり売れない。刷り部数を見ればわかる。雑誌「思想の科学」の編集会議で鶴見俊輔さんが、「私は全巻通して読みましたよ、だけど二度通して読んだという人を知っている」と言ったので、「私は三度読み通しました」と言ったら目をむいて、膝を叩いて笑っていた。

 お松と駒井甚三郎

 お松は、最初のシーンで龍之介に意味なく斬り殺される老人のつれていた子供であった。殺されずに大人になったお松は、主要主人公の一人になる。そしてお松と旗本をやめた駒井甚三郎が、東経一七〇度、北緯三〇度の太平洋上の無人島に上陸して非君主国(共和国)を作るのが、この未完の小説の最後の物語である。
 そして二人は結婚する。その限りにおいて、これはハッピーエンドのように見える。しかし共和国(非君主国)がまた結婚が、成功するかどうかは分からない。作者は失敗を書くことなく亡くなったから。
 桑原武夫は、「ごく大ざっぱに言って」とことわった後で、「日本文化うち西洋の影響下に近代化した意識の層」があり、その下に封建的・儒教的な日本文化の層があり、さらにその下に「ドロドロとよどんだ、規程しがたい、古代から神社崇拝といった形でつたわる、シャーマニズム的なものを含む地層があるように思われる」と書いている。そして大菩薩峠は、この第一層、第二層から第三層まで根をはっていると書いている。(文庫本第二巻の解説)
 また別のところでは、大菩薩峠の登場人物でもっともつまらないのは駒井甚三郎である、とも書いている。私はこの説には賛成しかねる。
 駒井甚三郎と結婚するお松は、登場人物の中でもっとも魅力的な女性である。駒井は自分が第二層(封建的・儒教的な層)から離脱して第一層(近代化した意識の層)にいることを知っているだろう。だからこそ第三層(古代からつたわる層)にまで根を持つお松と結婚する。お松なしには無人島の共和国は作れないことを知っている。この共和国は、第一層から第二層、第三層まで必要とするのである。
 「西洋の影響下に近代化した意識の層」に根を持ち、第二層の「封建的・儒教的な層」から離脱した元旗本の駒井甚三郎がもっともつまらない人間だとしたら、私たちは一体どうなるのか。桑原武夫でさえ、お松より、共和国を作ろうと西洋の科学を勉強する駒井であろう。もとより私は、その家庭環境から思うに、第三層のシャーマニズムでもなく、第二層の封建的・儒教的でもなく、「日本文化うち西洋の影響下に近代化した意識」である。
 駒井がつまらない人間であれば、私などもっとつまらない人間になる。私はアメリカにやってきてその市民となり、日本を手放してしまったのである。市民権をとる口頭試問では、憲法について聞かれる。そこには政府が間違っている時は、その政府を倒していいと書いてある。私はすでに世襲君主国の人間ではない。

 無人島アナーキズムと天皇即位

 私は「西洋の影響下に近代化した意識の層」(第一層)にいる人間で、封建的・儒教的でもなくシャーマニズムでもない。だからこそ、私は大菩薩峠を三回も通して読んだのかもしれない。そして物語の最後にあらわれるアナーキズム国に興味を持つ。

 ここは我々だけの国であり、おたがいだけの社会でありますから、今までの世界の習慣に従う必要もなければ、反(そむ)くおそれもありません。もしこの島の生活を好まぬ時は、いつでも退いてよろしい。生活を共にしている間は、相互の約束をそむいてはなりません。ここには法律というものを設けますまい、命令というものを行いますまい、法律を定める人と、それを守る人との区別を置かないように、命令を発する人と、命令を受くる人との差別を認めますまい。

 無人島での駒井甚三郎の演説の中で、中里介山はアナーキズムという言葉を使わないが、アナーキズムを説いている。介山が幸徳秋水が天皇を暗殺しようとしたとして処刑された「大逆事件」に衝撃を受けたことはあきらかで、この島は幸徳秋水も住むところのアナーキスト国なのである。

 新天皇の即位の儀式と人々の反応のビデオの断片を、カリフォルニアから見ていた。
 行政の長である安倍首相が、奇妙な箱状の囲みの中に立つ天皇を、一段下がった場所から深く一礼、そして天皇陛下バンザイを三唱。まわりの人間も唱和する。
 憲法によれば天皇は国民の象徴とのことだが、その象徴に向かって国民に選ばれた行政の長が真剣に万歳三唱をするのは、憲法の精神に違反していると思うが。まあそれはヨロシイとしても、しかしこの儀式をみていて、日本はつくづく共和国ではないと思った。
 日本国は立憲君主国だそうで、天皇は権力をもっていないそうだが、しかしどうやら国民を支配する倫理的な権力を持っているように見える。いまだ世襲の封建制です。この国は年齢序列の考えも根深く、柳田国男は、日本の「友だち・友人」は「同世代」という考えに支配されていて、英語のFriendsではないと指摘する。英語では、同世代ではない老人と少年でも、Friendsなのである。
 介山の太平洋上の島はアナーキズムにもとずいて、お松や駒井やその仲間たちFrendsが集まった共和国である。そして、はるか北にある日本列島の、天皇陛下バンザイ三唱と日の丸をうちふる「君主国家」に、するどく対立している。大菩薩峠はこうやって未完のまま終わって、共和国はいまも続いている。