背中が痛い(晩年通信 22)

室謙二

 朝起きたら背中が痛かった。急にである。
 右の肋骨の一番下の右の方。
 だけど、どこが痛いのか、自分でもうまく特定できない。
 触っても痛いところがない。体の中の方が痛いのだ。
 筋肉の痛みというより、神経の痛みのように思える。
 どうなったのだろう?

 すごく痛い。立ってられない。椅子に座るともっと痛い。横になってもまだ痛い。
 それで痛い痛いというと、妻がいろいろと質問してくる。彼女は出産を助ける専門看護婦で、と言っても実際は大学で教えているだけだが、男の背中のことなどわからない。
 息子の一人は、緊急治療室の医者で、急に背中が痛くなったのは緊急だと思うが、決まった手続きの質問をしてから、「緊急」でも心臓とか脳とか他の内臓の問題と違って深刻ではないと分かると興味を失う。それで、自分の勤めているKaiser病院に行ったら、と言うだけ。うーん、家族に見捨てられてしまった。そんな感じだ。
 結局、Kaiser病院には女房に連れられて二度行った。主治医にも会い、レントゲン検査も、全身の磁気イメージ検査も、尿の検査も血液検査もやったけど、いずれも問題なし。
 問題はないかもしれないが、背中はあいかわらず痛い。イタイーと手で押さえて唸りながら横になっていても、深刻じゃないそうよ、かわいそうね。と言う感じ。でもクスリはもらった。
 ところがもらったクスリは、麻薬で副作用で目眩もするし、吐き気もする。それで変えてもらった。次のクスリもやっぱり麻薬の一種で、4時間おきに(夜中もアラームで起きて正確に)のめば、なんとか痛くても耐えられるようになった。でもそんなの嫌だから、もっと普通の麻薬でない痛み止めに変えてもらいたい。ある程度痛くても、いちおう日常生活みたいなことができればいいから。
 だけどいつものように、本も読めない。料理なんかはできないよ。ソファーにゴロンと横になる。インターネットを見て時間を過ごす。まあソファー大の大きな猫みたいなものだ。週末の家族の集まりがあり、美味しいランチが持ち込まれても、横になってそれを見ているだけだ。
 
 しかし私が横になっている間に、何人かの専門医が検査の結果を検討して、その一人が磁気イメージ写真で、背骨の十番だか十一番で神経が刺激されているところを見つけた。ビデオ会議でこれを治療しましょう。と言うのだが、医療用語と医者の英語がわからない。だから女房と息子に任せてある。
 イタイ、イタイ、とあまり言うと、大きな男が、それも老人でいろいろと経験もあるのでしょう、黙っていなさい。みたいな目で見られる。(ような気がする。)
 ただ我慢していて、こんな痛みより何倍も何倍もイタイ経験もあったことを思い出した。あの痛さに比べたらこんなもの何ともないぞ、と決意して頑張っている。だけど今回のは、神経の痛みで、やな感じなんだ。。

  痛みで息ができないこともあった

 40年以上前の、ヤケドをして皮膚移植をした後の治療の痛みは、かなりすごかった。今でもそのあとが、右手にケロイドとして残っている。
 火傷しても皮膚移植の前はそんなに痛くなかったのに、移植後の治療が痛かった。毎日ガーゼを変えてクスリを付け直すのだけど、うーんすごい。
 イスの上で半分に折れ曲がって、息を止めて耐えている。横に付き添った女房が(別れた前の女房だけど)、「ケンジ、呼吸をしなさい、しないと死んじゃうよ」(そんなことはないけど)と言う。呼吸をする暇などない。ひたすら耐える。
 すると医者が看護婦に「ナントカなんとかモルヒネ。ラッシュ」とか言います。モルヒネは普通の治療室には用意していないらしい。それで看護婦がどこかに飛んでいって、手続きをしてから持ってくる。毎日そうなんだから、事前に用意していればいいのに。とイタイイタイと唸りながら、恨むのです。
 あの時の主治医はジョンソンというアメリカ人おじさんで、荻窪の衛生病院というキリスト教の病院で(それも新興宗教キリスト教』、日本に来る前はベトナムで治療していたとか。ベトナム戦争の兵士の傷に比べたらたら大したことはない。大の男がなんだ、という顔で痛いことに同情なんかないみたいだ。
 数分でモルヒネが届いて、注射をする。そうすると急いで病院を出てタクシーに乗って自宅に帰らないといけない。急いでください、と看護婦が言うのが、最初はなぜだかわからなかった。タクシーの中に担ぎ込まれてわかった。モルヒネで体が動かないなるのだ。
 自宅に着くでしょ。(病院からすぐのところに住んでいた。)そうなると自分ではタクシーから出て自宅に入れない。運転手と女房が支えて、玄関まで運ぶ。私は玄関の木の床に倒れ込んで、そこから先、ベットまで移動することなどできない。そこで毛布をかぶって何時間かじっとしています。モルヒネが好きな人がたくさんいるけど、私は嫌いだな。あんな状態よりノーマルの方がいい。マリファナ、コカインも特別に好きではない。普通の方がいい。
 あのときの痛みに比べれば、今回のは確かにましだ。だけどヤケドは45年も前で、私も若かった。今は老人です。痛みもつらい。ところが妻は、痛みに耐えるのは、死ぬ時の練習だと思いなさい。だとさ。親切な教えでありがたい。
 痛いので毎日の座禅瞑想は中止している。ブッダは何て言うか。痛くてもやりなさいかなあ。多分そうだろう。

  もっとモルヒネを

 今回もモルヒネから作るコデインを出してくれたのだけど、それがあまり効きません。飲み薬で、4時間おきに飲むのだが、ナントカ生きていることができる程度に効く。一体あれは本当の麻薬のなの?ちゃんとしたクスリをくれよ。もう中毒になってもなんでもいいのだから。と思うが、老人には量は用心して少なくしているのか。でもクスリのせいで便秘になる。その便秘をなおすクスリをまた飲む。
 30年ぐらい前、私の親父は90歳で入院中に肺がんが見つかった。痛い痛いと言っている。ところが医者は強い痛みどめを出さない。看護婦がくれるクスリは弱いのです。それで姉さんと一緒に病院の廊下を歩いている主治医を見つけて、親父が痛がっているので、強い痛み止めを、麻薬でもなんでも出してくださいと言う。いやMuro先生(大学の教師だと知っているのでセンセイなどと患者を呼んでいる)はまだ元気です。強い痛み止めの麻薬を使ったら、そのクスリで死んでしまいますよ。と私たちを振り切って歩き出そうとする。
 それで姉さんと私は、両側から主治医の両手を握って、当人は死んでもいいという覚悟のある人です、痛くてかろうじて生きるより、強い痛み止めで死んでも当人はいいと思います。どんどんと強いクスリを出して中毒になったっていいでしょ。すでに肺がんは末期なのですから。と詰め寄った。
 あれは30年ぐらい前で、あの頃は患者が医者に治療に関して文句を言ったりしなかったかもしれない。私は、患者が医者にモノを言うアメリカに住んでいたし、姉さんもはっきりとモノを言う人だから、「死んだっていいんだから」と言ったのだけど、権威主義の東大医学部出身の医者は、そういう患者がまだいない時代だったのか驚いていた。今は知らない。
 それでお父さん、これから私の治療がやってくるらしいよ。
 背骨に注射針を差し込む治療もあるみたい。
 何もしないで、ただ時間がたって治ることを待つこともあり。
 50パーセントの人が二、三ヶ月で治ります。
 手術の必要は今のところはありませんよ、だってさ。ありがとう。

 痛いので晩年通信は一回休んだ。
 そしてこの文章は、MacBook Airを高いテーブルの上に置いて、立ったまま数行書き、背中が痛くならないように背を伸ばして少し室内を歩いて、また高いテーブルに戻ってMacで書く、というように書きました。
 コデインのおかげで痛みはマシだが、コデインのおかげで頭がよくないので、どんな文章になっているのかわからない。もっとも第二次世界大戦後に、詩人金子光晴はコデイン中毒だったらしいが(そう自伝に書いている)、それでもいい詩を書いている。

 突然に、こんなに痛いことが起こるとは思わなかった。
 どうして?
 みんなは老化でしょ、と簡単に言う。
 そうだ、私たちは老人なんだ。
 若いころは、自分が老人になることなんか想像していなかった。
 鶴見俊輔さんは、友人はみんな死んだ。私だけ生き残った、愉快愉快と言っていた。
 私の友人も、ずいぶん死んだね。私は生き残っている。
 だけど痛いのはいやだ。