『ブルースだってただの唄』のこと

川野太郎

 自分には、へこたれるもんか、という弾性がある、という。土台をつくってくれたのは、故郷のキーウェストの老婆たちだったと思うのだ。

   何があなたたちを支えているのだろうか。

ジュリエット 怒り。わたしの場合は怒り。静かな怒り、冷たい怒りであるかもしれないけれど、怒り。これまでわたしが身につけようとしてきたのは、怒りを何かしら建設的なものに向けようとする姿勢だったのよ。

『ブルースだってただの唄 黒人女性の仕事と生活』には、それぞれの章に、先で語られる事柄を聞き手としてまとめた導入部があって、それからインタビューが始まる。その一連の流れのどこに秘密があるのだろう? どうして自分ではないだれかの、気楽とはけしていえない語りに、こんなにもすんなり入っていけるのだろう。
「自分には、へこたれるもんか、という弾性がある」というのは、直後に「、という。」があるから、ジュリエットの言葉を引いているとわかる。そのあとの「土台をつくってくれたのは、故郷のキーウェストの老婆たちだったと思うのだ。」も、そう思ったのはやはりジュリエットだが、ここには――引用符やそれに準ずる文言を伴わないからというだけではないだろうけれど――そう「思った」語り手の実感を、そのつど自分の内側に響かせるように聴き、確かめ、書き進める聞き手の姿がある気がした。読者は、その実感の言葉を、やはり胸の近くに引き寄せて響かせてみるようにして読むことになる。そうするのをうながすような調子が、この本にはつねにある。
 これ以降いろいろな言い方で、聞き手からも、語り手からも問われ続けられる問いかけから、最初の傾聴ははじまる。「何があなたたちを支えているのだろうか」という問いかけはいきなり核心をついているが、かといって、突然のものとも思われない。「土台をつくってくれたのは……」という、問いかけへのひとつの答えをすでに明かしているような言葉をふくむ冒頭のエッセイを読むことで、すでにその話が語られる場所へと向かっていたからでもあるだろう。ひとつの仕方で語られたことを、そうではない仕方で繰り返し語る言葉に出会うことが、『ブルースだってただの唄』を読むリズムのような気がしていた。
 読んでいると、たびたび「あれ、この内容、さっきも読んだ気がするな」と思うことがあった。リード文や概要文と呼ばれるものには、むきだしの「本文」だけでは一望できない内容を短くまとめて理解を助けることを目指すものも多い気がするけれど、『ブルースだってただの唄』の聞き手の書き言葉と聞き書きは、要約と本篇という関係をこえていて、そこには、より深い、繰り返す、ことの力が秘められていると思えた。
 各章冒頭のエッセイのみならず、話されたのが英語なら、聞き起こしの部分も、日本語への言い換えと繰り返しを経ているはずだった。つまり、本のなかの言葉のすべては、言い換えや翻訳の過程で〈はたしてその反芻の言葉は妥当かどうか〉という形で浮上する彼女たちの経験と語りへの根底的な問いを、書き手が自ら(と読み手)に問いつづける、実践の結果なのではないか。
 第二章には、はじめ第一級殺人罪で終身刑を言い渡されていたウィルマ・ルシル・アンダーソンが書いた、恩赦をもとめる嘆願書のあらましが、そっくり収録されている。それは、司法制度のなかで自分を助けるためには、過去に経験した過酷な出来事を何度も話し、証明しなければならないという側面を伝えてもいる。しかし言葉をめぐる状況は、最初の裁判で「検視官の供述をくり返しくり返し聞いた」ときとは、決定的に異なってもいる。
 読者は、嘆願書を通して、聞き手の言葉やウィルマ自身の言葉ですでに知っている事件の経緯をあらためて読むことになるが、これは余剰の重複とは思われない。そこまで読んだ私たちは、その出来事に至るまでの生活とそれからの生活が彼女のなかでどれだけ反芻されてきたかを、そしてそのなかで彼女がなにを発見し、決意したかを知っているからだ。あらためて何度でも読み、状況に出会い、そこにある微妙なニュアンスの違いを読み取ることが、大切な気がしている。
 読み進めているものが、その人の「ことば探しのたたかい」の一端であったことは、先行する聞き手の言葉で書かれていた。

なぜなら、「女たちの家」の住人はことばを探している女たちであったから。彼女らは「わたしの中の牢獄」を、自らの生に対して感じる虚無や無意味ととらえることもあって、自らの生の輪郭が不明であることに焦燥と深い悲愁を感じているように見えた。自らの生に意味をあたえ、生の輪郭を見せてくれる魔術はないか。混沌や茫洋にかたちをあたえることができるもののひとつがことばであるなら、それは魔術のようなものだ。
 わたしは女囚から話を聞かせてもらった。そしてその過程で、自分史を語りうる女たちのことば探しの過程が見えてくると感じた。

 その「ことば探し」が、いかに自身たちの「黒人らしさ」を持続させるか、というこころみに通じてもいること。それが、いまここにある肉体で生き延びることと無関係ではないこと。同じ本の別の場所では、そのことについても書かれていた。

彼女たちは抽象的に民族意識や歴史体験の意味について語っていたのではなかった。黒人と呼ばれる社会集団の、明日の命について語っていたのだ。アイデンティティ、とわたしたちが片仮名で表記することばに関わる哲学的な悩みについて語っていたのでもない。自らのものではない姿勢をとることによって、共同体は収縮する、生きのびたように見えたとしても、死はちかい。彼女たちは肉体の存続について語っていたのである。その危機について。

 気付いたらこんなに読み進めていた、というときもあれば、自分のなかに積もった考えや思いの重さがこたえて、いちど本を閉じることもあった。読み出したら止まらなくなるようにさせているのも、読み進める前に、途中でひと呼吸おかなければ、と思わせるのも、凝り固まっていない言葉に、しかしなくなることがない緊張感のためではなかったか。
 言葉を通じて知っただれかの経験が心身にこたえたり、自分とはまるっきり無関係な人の無関係な出来事などではない、と思うようになることを可能にする力を「共感」と言ってみてもいい。だが、それが、個別的なものから出発して普遍に至る、というような、あまりにも単純化されたプロセスの上にはないことは、気づいていた。というのもここには、〈彼女らと私たちは、あらゆる背景をこえてまったく同じ事情を抱えているのだ〉というような虚構の立場に立っていないからこそ尋ねて、答えられた、アメリカに生きる黒人の女性たちに固有の経験、彼女たちの家族の来歴、彼女たち自身が歩んできた歴史の細部があり、それが私をたえず「撃つ」からだ――「普遍性のなかにやすらぎを見出すよりも、他者の固有性と異質性のなかに、わたしたちを撃ち、刺しつらぬくものを見ること。そこから力をくみとることだ、わたしたち自身を名づけ、探しだすというのなら」。
 ここでの言葉は、安易な「同化」に疑問を呈し続けなければ読み進めるのが難しくなるようにできている。
 エピローグは、アトランタに住む一〇四歳の女性、アニー・アレグザンダーさんの話を聴くというもので、その屋敷の周囲と明かりの様子が書かれたところを読みながら、私は気づいたらそこまで運ばれてきたことに驚いた。アニーさんの声から見えてくる光景というのは、聴くことであらわれる比類のないものだと感じた(ぜひ読んでください)。これは耳を傾けることの奥の深さと広さをしめす本で、こうして読み返しながら書いているときりがなく、それを読むという道のりの先はほんとうに長いと痛感する。

***

 読んでいるとき、コロナのことがあって途絶している読書会があるのを思い出していたのは、「女たちの家」での仲間同士での対話が、そのひとそれぞれの言葉を獲得する助けになっているのを目の当たりにしていたからだ。集い、語り、聴く、ということを、いままでとはまた違うふうに見るようになっていた。「床のうえの扇風機がまわっていた。額や背や脚に汗がながれ、女たちがたたかいとよろこびと人間の威厳について語っていた」といった一節で描写された時間と空間があったのを知ったことは、これからの自分にどう作用していくのだろうかと考える。
 ほんのさわりを読んだ時点でなぜか思い浮かび、すぐメッセージを送った人が大学時代の友人Mさんで、彼女はけっきょく私が読む前に『ブルースだってただの唄』を読み終えていた。先日、遅れて読み終えたあとであらためて感想が聞きたくなって、電話した、ということがあった。
 そういうわけで、『ブルースだってただの唄』読書会(ダイジェスト)をお送りします。

――どういうふうに読みはじめたの?

M とりあえず読みはじめたのは、ちょうどいい大きさだったっていうのが理由だったんだけど……

――文庫本ってこと?

M そう。軽いし、通勤のときにちょうどいいって思って読み始めて。で、すごい面白いなー、みたいになって。まず最初に思ったのは、前もいったけど……日本語として、すごい。こういう日本語あんまないよな、みたいな感じ。なんとか「でしょうが」とか、いうじゃん。

――「でしょうが」あったね。

M いま、あんまいわなくない? でも、いってそうだな、って。この人たちの声を日本語にするとこんな感じになるんだなっていうのが、けっこう、新鮮で面白かったりとか。あとは単純に、後景がわかる。社会のなかで、どういう位置付けなのかとか、教育とか学校とか、「黒人」といってもいろんな……膚の色があって、とか。そういうところで、見えてくる社会というか。それもすごい、へー、みたいな。なんか、いっこ思ったのが、自分たちの世界――というのかな――があるじゃん? 過去と未来がないと、いまだけじゃ生きていけない、みたいな。

――あった。「おれたちはまっ裸よ」っていうところだよね。……「自分たちが以前はどういうものたちであったかを知らなければ、裸同然なんだ」

M そうそうそう。わたしは去年けっこう、日本の歴史に興味を持って、いろいろ読んでいたってことがあったんだけど。この本に出てくる人たちって、自分たちのことに誇りを持つことが大事だと言ってる。でも、わたしが日本の歴史を読むのは誇りとかじゃなくて、むしろ……どこにこの、病気の原因があるんだろう、みたいな。そういう……

――不具合の理由を探すというか……

M そう。ぜんぜん違うな、って。
みんな、自分の膚の色とか、置かれている環境とか、そういうものにたいして意識的で、それも印象的だった。すごい考えてさ、すごい向き合ってさ、しかもそれにたいしてほんとに卑屈じゃなくて。わたしは膚の色が濃い自分のことが嫌い、とか、若いときはそういうこともあったかもしれないけど、でも……受け入れてる。娘が生まれたときに、自分の膚のことを受け入れた、とかさ。そういうのがあって、ほんとに正面から、自分とか自分の人生に向き合ってるなあ、っていうのは、すごい……強いよね。なかなかできないと思う。

――読んだあとはどうだった?

M 元気出た。すごい励まされたし。こんなに逞しく生きている人がいるんだ、ってことはすごい、励みになった。自分の苦しい過去とかをさ、私は友達に話してたりしたときもあったけど。あのときは苦しかったから、話さずにはいられなかった部分があって。でも、いまそこから離れたときに、もういちいち他人に話そうと思わないわけ。もうそこに戻りたくない、思い出したくもなくて。でもそういう経験、たぶん私の場合は――ただ災難に巻き込まれたとかだったら別かもしれないけど、そういうわけでもなくて――いろんな背景があって、経緯があってそれが起こっていて……私の身に起こったことは、ある意味で構造的に……構造的な要因があったりして。だからそういうのを振り返って、いっかい自分のなかで整理をして。同じようなことで苦しんでる人ってたくさんいるから……なにかそういうことに活かせればいいな、みたいなのは、思うっちゃ思うんだけど、なかなかね、そういう気持ちにもなれない。
 だけどここにいる人たちって、みんな言葉にしてるじゃん。自分が辛かったことも、自分が犯してしまった罪とかもさ、ぜんぶ……ちゃんと捉えてて、しかもそれを社会的ないろんな要因とか視点から見て、それを自分のなかで消化して、表現して、しかも行動にも繋がってる。それはすごいなって思って。たぶん私も、いまはちょっとまだそういう気にはなれないけど、いつかもうちょっとちゃんと真剣に、いろいろ向き合わないといけないな、みたいなのはすごい、思った。

――はじめのほうに、「その彼女らの視線は、にほん列島に生きる少数者に、同化が答えです、といって疑うこともなかったわれわれにほん人を撃ちはしまいか」という一節があるんだけど……

M そういう意味だと、ほんとにさ、日本人が学ぶとこいっぱいあるよね。日本でどうやって外国の人たちと生きていくのか、みたいなこと。同じ土地でね。みんなそれぞれのコミュニティがあってそれぞれの文化があって、それでも一緒に生きていくってどういうことなんだろ、みたいなのは、たぶんこの本を読めば、ひとつのヒントは出てくるよね。同化じゃないよね、っていうのはすごくよくわかった。

***

 感想文、といっても、字数の指定がなかったせいもあるのか、いまが深夜だからか、ひとつ引用したら、引用しなかったほかの全ての文に触れていない自分を責めてしまいそうになる。だって、そっくり一冊を書き写すこともできるのだから(それはそれでやってみていいことではなかろうか)。でも、ひとつ話したら、だれかが、たしかにそうだ、いやそうではないはずだ、私はこう感じていたと、応えるはずだ、その途中なんだと思って、切り上げようとしている。
 最後に、日記を書いておきたい。こうしていると、この本が復刊されたころ(二〇二〇年の秋)、私が知らないときところのことを話してくれた人の声を思い出すのである。こういう思い出が『ブルースだってただの唄』とセットになっている。
 そのころはちょうど九州にいて、福岡で一年ぶりに会った、木工の家具を長年作っておられる年長の知人が「藤本和子さんは、アメリカの黒人女性作家の作品の選集を編んだ人だったんですよ」と教えてくれた(私はそのことを知らなかった)。自分が立ち会わなかったときところが、しかしたしかにあったんだ、と感じられるのはこういうときだ。『女たちの同時代――北米黒人女性作家選』を新刊として手に取ったことのある人が、いままさに目の前にいて話している、ということで。『ブルースだってただの唄』を手にしたのはその翌日で、私が生まれ育った熊本にある「橙書店」で買った。たまたま、生前の原田正純さんに教えを請うたことがあるという方がいらしていて、そのお話を聴いたのもあって、岩波新書の『水俣病』も一緒にレジにもっていった。