編み狂う(8)

斎藤真理子

 たとえば力を入れて糸をびゅんびゅん撚って、ぎりぎりまで撚り上げたところで手を放し、縒りが戻るにまかせ、ほどけるとこまでほどけて止まった地点を最適解として、そこで寝たり起きたり景色を見たりしていられればいいだろうけど、そうはいかないので、最適値ではないところで労働をしたり生殖をしたり、生殖の結果に責任を負ったりしなくてはならなくて、こんなつもりではなかったんだけどなあという気持ちが、編み物をしていると、どこかから煙のように湧いてくる。

 煙のようだが、実はそれは火かもしれなくて、なぜかといえば生きていると積もってくる釈然としなさには引火性の高いものもあるからで、そのせいかどうか、「火がついたように」といった形容が似合ってしまいそうな勢いで、「編みふける」から「編みいそぐ」「編みばしる」「編みだおれ」へとボルテージが上がっていき、また「白熱」といった単語が立ちこめてきて空気の何パーセントかを占めるので、何にせよやはり温度は高く、そこで特に意識されるのは、編んでいるときは生産と消費が常にプラマイゼロだという強い感覚であって、要は毛糸を1メートル編めば毛糸1メートルが消費されるわけだが、一方で1段とか2段とか編み物が進むので、生産したことにもなってプラマイゼロとなり、そのことにはなぜか一種の安堵感があり、これは自分が何か作っているというより、何かを移動させているだけみたいな気がするので、こういうのを私がよくわかっていないエントロピーの法則にあてはめたらどうなるのか、わかっていないのだからわかるわけがないのだが、絵の具で絵を描いたり小麦粉・砂糖・卵・バターでケーキを焼くのと編み物が絶対に違っている点は、編み物の場合、右から左へ移動したものがほどけばまた左から右へ移動することで、いつでもほどけるんだからねというこの偉大な担保がなかったら多分、こんなに長いこと編み物なんかやってこなかっただろうなあ。融通無碍と徒労が紙一重のところでこんなに白熱しているのがきわどくてよいと思いながら編んできた。

 というのは、生産性なんか少しも上げたくないと私が思っているからで、人間がもっと効率がよく生産性だけが高い生物であったら、とっくに地球は滅びていると思うし、もっといえば生産することにも消費することにもためらいと後ろ暗さがあり、その点、生産すると同時に消費する編み物はどっちつかずともいえ、双方向ともいえるのがよく、何となく一種の緩衝地帯のような感じがして、そこで火がついたように編んでいるのは一瞬が永遠に間延びしたような幸福感もあったし、編んでいなくて白熱しないときにも足湯だけは使っているような気持ちで毛糸のそばにいたら、あっというまに時は過ぎ、いったいそれは何の緩衝地帯だったのか、何と何のせめぎ合いの中で成立した緩衝地帯だと思うのか、そろそろ結論を出せ、判断を示せ、(見切りをつけろ、)と言われているような還暦を迎えてしまった。

 手元に、祖母が編んだ、昔ふうにいえばトッパーコートのようなものが私の手元にあり、それは黒い中細毛糸のメリヤス編みだけで仕上げたもので、別に編んだ襟が千鳥かがりでつけてあり、全体に白い縁取りがあしらわれ、この縁取りをバランスよく編むのはとても難しかったと思うが、そんなの何でもありゃしないというように上手に仕上がっている、編み目もたいへんそろっていて、見るたびに、おばあちゃんきちんとした人だったもんなあと思うけれども、このコートに感じる熱中の質は私のとはかなり違っている、はずだ、だって祖母のころに服を手作りするのは絶対的な必要があったからで、それは母の時代にも引き継がれ、母は手編みと機械編みを両方やって膨大な衣類を作り上げていたが、それだってやはり大幅に必要があってのことで、だからだけではないだろうけど、安価なニットがいっぱい出てくるころには母は編み物はやめてしまった、手しごとはもはや趣味になり、母たちは趣味のために毛糸を買うなんて贅沢なことはしなかったのだ、私の代にはもちろん、自分で編まなかったら寒い日に着るものがないとか風邪をひくといったことなどあるわけがなく、むしろ、手編みのものなんぞ着ていたら暖房のききすぎた地下鉄の中で倒れそうになるほどで、しかし必要に迫られない編み物は合理性を欠くことも多く、お金がもったいない・時間がもったいないといわざるをえないものもずいぶん編んできてしまったよね、だから祖母・母への引け目もあるし、生産と消費のジレンマもいっそうのっぴきならなくて、手に余る。

 けれども、祖母も母も私のときにも変わらなかったはずなのは、編み物には常に目数と段数というものがあるということで、それは自分が常にx軸とy軸が交差した一点に立ってることを意識するのと同じで、また、マトリックスのどこかに存在する「今」を意識せざるをえないということで、そうであればこの人たちも白熱する時間の中で編みいそぎ、編みばしっていたときがあったと思う、夕鶴が機織りしている現場を与ひょうが見ないのと同じように、子供はそんな母親や祖母を目撃しないのだが、刻々と変わる目数段数に乗って小止みなく動きながら、生産と消費が打ち消しあってまたは乗り上げあって、あの人たちも火を吹いた一瞬があったと思う。

 糸と針と人がスパークしてね。

 編みながら、自分にも、びゅんびゅん音を立てて縒りがかかっていく。
 縒りが戻ってほぐれていって止まったところ。
 そこには、自分が行きたいときに行けるわけではないんだよな きっと。祖母も母もそうだったはず。

 どういう緩衝地帯だったかは容易にわかりそうになく、でも、目数段数のマトリックスに足を踏み入れると骨が鳴る。古い氷河期時代の骨で作った風鈴が鳴る。そこから見ると、祖母と母と私の違いは誤差で、そう思うと、羊や蚕のいる方向へ向けて、息ができる。