別腸日記(12)冬の日

新井卓

数日前、寒さの一際厳しい晩に母方の祖母が亡くなった。スタジオで終わりの見えない作業をしている最中、知らせがあった。急いで帰路につき実家に入っていくと祖母の寝室で、ベッドを囲んで母と父と弟が動かない祖母を三方から取り囲んで黙って座っていた。


一年ほど母が在宅看護を続けていた祖母の点滴と酸素吸入器はそのままになっており、その口は開いたままだったが、医師がまだ到着しないので手を触れられないという。亡くなってはいても喉が渇くだろうと可哀想に思ったが、なす術もなく見つめるほかなかった。母が介護の手を休めて食事をするあいだ、ほんの二十分かそれくらいの間に、誰にも気づかれず静かに息をひきとったというのだから、それは安らかな最期なのだろう。


やがて訪問介護施設の医師が到着し、死亡時刻を告げてから、看護師がペットボトルのキャップに穴を開けた即製のシャワーで髪を清めてくれ、お騒がせしました、いってらっしゃい、と祖母に頭を下げて帰っていった。私よりも二つ三つ年若そうな彼の様子に心を打たれながら、自分は一年か二年のあいだほとんど会話らしい会話も試みようとしなかったではないか──そのように後ろめたい思いをふるい落とすことができずにいる。いや、そもそもそれ以前にも、きちんと会話できたことは一度でもあったのだろうか、とまで考えながら、子どものころ私の避難所だった祖母の部屋や、説教くさい少年少女文学全集を読み聞かせてくれた彼女の声の調子や、ミシンの音、マドレーヌを焼くにおいなどを少しずつ記憶の奥から拾いあげては、締めつけられるような懐かしさと、身内という存在の永遠に解きえない謎の間を、心が行きつ戻りつするのをただ見てていた。


翌々日、大阪で休めない仕事があり飛行機をとって日帰りで往復することにした。 朝、刻々と地平線から高度を上げる太陽に直射されながら東へ、羽田へ車を走らせるうち、きょうが祖父の命日だったことを思い出した。


日航の工場長だった祖父は、こうしてその貌を朝日に灼かれながら日々、玉堤通りを走ったのだろうか。幼いころ何度か連れていってもらった社員向けのテニス場やプールの思い出は、彼の運転する小さな三菱ギャランの窓から差し込む、黄ばんだ太陽の光と熱の感覚とともに、記憶の襞に強烈に現像されている。


伊丹空港行きの全日空は満席だった。離陸すると多摩川の河口と空港のランウェイと品川、そしてはるか新宿のビル群までがはっきりと展望された。眼下の都市部はすぐにまばらになり、と思えばすでに富士の裾野に差しかかっているのだった。山の峰は直視できないほど白く燦然と屹立し、関東平野から甲府盆地、日本アルプスの峰々のなかにあって比類無く、見渡せる限りの地形を完全に支配しているのが見て取れた。


人は死ぬとどこへいくのか──宗教を信じない私は何度も、想像しようとする。たとえば遠野では、人々は死ぬとみな早池峯の頂へと帰るのだという。魂は山岳の頂点まで登ってそこから虚空へ、宇宙へ細い光の帯となって解き放たれるのだろうか。あるいはそれは拡散しながらこの惑星の一つなるマトリクスに留まり、いつかふたたび、異なるエネルギーの様態となって流転を続けるのだろうか。 


祖母の葬儀は密葬で静かに執り行われた。前夜、叔母と長野の叔父と従兄弟が来て、祖父が残していったウイスキーを皆で少しずつ飲んだ。ロイヤル・サルートの青瓶は20年だから、少なくとも通算45年ものになるであろう液体からは、複雑な味がいつまでも木霊のように滲みだすのだった。

異なる時間は積層しているのではなくそこかしこに顔をのぞかせていて現在の編み目を形づくっているのではないか──そんな考えがふと浮かんだ。


記録的な冷え込みは今晩も収まる気配はない。空気は恐ろしいほど澄んでいて、真円に満ちた月の傍に火星が近づいている。