別腸日記(21)菌食考─その2:ブナハリタケ/Mycoleptodonoides aitchisonii

新井卓

山に登ること、キノコを採ること──この二つを両立させることは、むずかしい。山頂を目指す登山は、災害や事故の危険が少なく、また風光明媚なルートをたよりに計画される。ところがキノコをさがす道行きに、道はない。登山客に踏みならされた、往来の忙しい登山道でキノコを見つけたなら、それはとても幸運な出会いである。もし、かご一杯の収穫を夢見て山に向かうなら、道をそれて広葉樹の斜面へ、あるいは冷たい沢が走る谷間へ、藪を分けて進んでいかなければならない。

一昨年は、遠野早池峰ではキノコの不作が嘆かれた年だった。今年はどうもハァ、だめだね──土地の人のため息を背に、薬師岳に分け入った。いつもの南斜面をいくら歩いても、たしかにキノコたちの気配がしない。なんだか空気みたいなショウゲンジや、すねたようなイグチを細々と拾ってもう帰ろうか、と涸れ沢を下ろうとしたとき、不意に場違いな芳香が鼻をついた。どこかで嗅いだことのある何か──小学校の脇の駄菓子屋で売られていた真っ赤なチューインガムか、洗濯の柔軟剤のような、ケミカルな、甘ったるい匂い。目の前に、ふた抱えもありそうな巨大なブナの倒木が横たわっていた。回り込んでみると、果たして幹の片面に、ビッシリと純白のキノコが群生していた。

ブナハリタケ、のハリタケは「針茸」であり手のひらを伏せたような5センチほどの傘の下に、無数の針状の突起を生やしたキノコである。むしり取ろうとしても意外に強固で樹皮もろともに剥がれてしまい、これでは翌年の再発生によくないから、ナイフできれいに切り落とす。あっという間に背中のかごが一杯になり、それでも四分の一も採りきれていない。籠に両手を伏せて、体重をのせる──山の露をいっぱいに含んだゴム質のキノコから水が染みだし、編み目を伝った。

背中から強烈な甘いが身体を包み、ついに少し気分が悪くなってきた。しかしこの強烈な芳香も、煮炊きすればいかにも美味しそうな香りに変化するから不思議である。
ブナハリタケは、II型糖尿病への効果や発がんの抑制などの薬効が見つかってから、近年注目されているらしい。糖尿境界型の父にあげようか、とぼんやり考えながら、日のすっかり落ちかかった谷間を帰路についた。