別腸日記(22)旅の道連れ

新井卓

ツーリスト/Touristとトラヴェラー/Travellerの違いについて──どの本だったかポウル・ボウルズは、前者は帰る家がある者たち、後者は帰るあてもなくひとつところに深く潜伏する者たちである、と言った。日本語では旅行者/旅人とさしたる違いはなく、同様に移動性を含むふたつの言葉に、なぜボウルズは一線を画したのか。Travelの語源は定かではないけれど、厳しい労働を意味するtoil/travailの響きをもつこの語が、中世までのしばしば命がけの旅の困難さを孕んでいることは確かなようである。ツーリストたちの旅が究極的には自宅への帰還を目的とする円運動とすれば、トラヴェラーの道行きは、袋小路の、あるいはオープン・エンドな旅にほかならない。ボウルズ自身のタンジールへの旅のように。

いまこの文章を、南イタリアの小都市・サレルノの海岸に座って(ビールとコロッケを片手に)書いている。はじめて映画らしい体裁で作った拙作、映像詩『オシラ鏡』を、第72回サレルノ国際映画祭に出品しあわよくば表彰台に載ってやろうという皮算用なのだが、その話はまたいずれ書くとして、今度の旅は、いつもと全く違う様相を呈しつつある。なぜなら、今回は年若い双子の少女たちと、とひとりの青年と一緒だからだ。三人は映像詩『オシラ鏡』(*)の出演者で、2年前、別のプロジェクトで銀板写真(ダゲレオタイプ)に写ってくれた若者たちである。正直なところ完全自主制作で予算も厳しく、はじめは私も出席せず作品だけ送ろうと思っていたのが、音声の山﨑巌さんとも話して、結局三人を連れていくことになった。

インターネットの発達は、巨大資本を膨れあがらせ地域性を破壊したが、同時に、見も知らぬ個人と個人が文化/国境をこえて直接に繋がり、それぞれが持つモノや知恵を共有する可能性を生み出した。わたしたちが滞在しているのは山手の集合住宅で、ネットで繋がった一個人から一週間だけ借り受けた、仮の住まいである。

どの国に行っても同じ作法のホテル、査証、クレジットカード、保険や旅客機はおそらく、旅の困難と危険を極力減じるために考え出された近代の偉大な発明なのだろう。しかし今、わたしたちは自分たちでシーツを替え、近所の商店でパンや果物を買い、翌日にはもっといい水曜市を見つけて次はここで用を足そう、と心に決める。ありあわせの材料で料理をし、ゴミを出し交代で洗濯もする。わたしたちには日本に帰る家々があるが、こうしてサレルノに得たもうひとつの家によって、現代の旅はふたたび、わずかに、〈トラヴェル〉の様相を呈する。

海外ははじめてという十四歳のレオナとマイラは、もう町の住人のように堂々と道を渡り、長い髪を風になびかせて坂道を下っていく。高山君はいつまでもベッドでスマートフォンをいじっているが早朝、日の出を見に海まで散歩してきたという。わたしたちの生はまったく不思議なものだ、と思う。この世に複数の家、複数の家族があって、その先に輻輳するいくつもの生があるのかもしれない、といたずらに考えて見、すこし怖くなってまたビールに手を伸ばす。このあたりの名物というコロッケ(イタリア語でもコロッケ)はもうすっかり冷えてしまったが、濃厚なチーズと地元の馬鈴薯のねっとりとした生地は、まだ風味を失っていない。もうそろそろ、わたしたちの映画の上演時間である。

*映像詩『オシラ鏡』予告編