別腸日記(6)飲み過ぎる人たち(前編)

新井卓

酒の話はむつかしい。早くも先月、連載を休んでしまった。やります、といったことを果たさずに啜る酒はうしろめたく、できない理由を並べながら酔いすすめば、もう厳冬のオホーツク海にでも身投げしようか、などと気鬱の止むところを知らない。もう二十年近く、仕事をサボっても、電気とガスがとめられても倦むことなく飲みつつづけてきたというのに、これは一体どういうことか。

私ごときがあの酒はうまいだの、この酒はこの文人ゆかりでその由来は云々(でんでん)、だのと書き立ててもおそらく腹立たしいだけであろう。そうなれば、飲んだ場所や相手(じっさい変な酒敵には事欠かない)、その後どうなったのか、という話に向かうよりほかなく、結果それは交遊録とか紀行文のような体裁に落ちつくだろうことは、容易に想像できる。まあそれでいいのかもしれないが、ここに今一つの根本的な問いが浮かび上がってくる。

なぜ、飲むのか──わたしたちを拒み未踏峰のごとくそびえ立つその問いに対峙することなく、この先書いてゆくことは、どうにもできそうにない。それがそこにあるから(Because it’s there)。登山家ジョージ・マロリーの言葉を酒に当て嵌めてみても、答えになっていないどころか単なるアル中の戯れ言にしか聞こえないから不思議である。

夭折の哲学者・池田晶子は「下戸の心が理解できない」と公言してはばからなかったが、逆に下戸にしてみれば、なぜすすんで毒を摂取しつづけたいのか、そちらの方が理解しがたいに違いない。ちなみに、体内でアルコールから生成される毒素、アルデヒドを分解できるモンゴロイドは、全体の54パーセントしかいない(コーカソイド、ネグロイドでは100パーセント)という(*1)。残りの約半数は弱いが少しは飲める、または全く飲めないかどちらかであり、したがって多くの日本人にとって、飲酒とは文字通り服毒に等しい行い、ということになる。

長年、左党が免罪符のように信じつづけてきた「酒も適量ならば薬になる」という説は、どうやら統計手法の誤りから生まれた迷信に過ぎず、飲んだ量に正比例して様々な疾患の罹患率が上がることが、最近の研究で明らかになってきた(*2)。長期間一定量のアルコールを摂りつづけると、海馬が萎縮しさらに認知機能も著しく低下するという。そうならないためには、毎日ビールをコップに半分くらい、が限度らしい。わたしのような者にとっては、あまりにも無慈悲な真実、というほかない。
(つづく)

*1 原田勝二(元筑波大)「神経精神薬理 6,NO.10,681」(1984)
*2 Anya Tpowala et.al “Moderate alcohol consumption as risk factor for adverse brain outcomes and cognitive decline: longitudinal cohort study” 2017