もっとゆっくり、もっと遅く(帰国記その2)

福島亮

パリを発ったのが3月7日、あの頃はまだ外出も自由にできたし、どこか呑気な空気があった。その前日、ひと月ほどパリを離れるのだからその前に、と思い、シャイヨー国立劇場で名和晃平とダミアン・ジャレによるパフォーマンスを見たが、劇場が暗くなるとみんな一斉に咳払いをし、それがおかしくて笑いが巻き起こった。隣国で病が猖獗を極めていたとしても、それはどこか遠い国の話で、わずかの不安はあっても、冗談めいた笑いがその不安をかき消してくれる、そんな雰囲気がまだあったのである。日本についたのが8日の夜、羽田空港は人影が少なかった。10日ほど前に、参加予定だった学会が中止になったという連絡を受けていた。それでも、他に二つの研究集会に参加する予定だったし、この機会に手続きを終えねばならぬものもあったから、日本に帰ることに揺らぎはなかった。人影まばらな空港を歩きつつ、過密に詰め込んでいた予定に一つ穴が空いたことで、時間にゆとりができたとさえ思っていのだから、思えば相当呑気なものだ。その穴がじわりじわりと広がって、カレンダーが白紙になるとはその頃思ってもみなかった。

結論からいうと、帰れなくなった。どこに? パリに。正確には、僕はフランスの滞在許可証を持っているから、EUに入ることはできるらしい。が、そもそも飛行機がないのである。航空会社に電話をしてみると、相当の減便を行なっているから、まず飛ばないだろう、とのことであった。僕とほとんど入れ違いで、パリでは外出規制がしかれ、EUは封鎖された。幸いなことに、僕自身は、日本についてから二週間以上経つがまだ熱や咳は出ていない。僕の身に起こったことで困ったことといえば、1日に何度も手を洗い、アルコール消毒をするから、掌が少し荒れていることくらいである。それでも、パリに帰れなくなったことは僕の心に不安としてこびりついていて、何とも変な感じなのである。実は帰国したというよりも、生活の場を(一時的に)失ったという方が心持ちとしてはしっくりときていて、日本に帰ってきたのに、帰るべき場所に帰れなくなってしまった、というストレスを感じているのだ。連れ合いにしても、僕が予定日を超えて居候しようというのだから大変である。一部屋しかないアパートに大の大人が二人。たまったものじゃないと思っているに違いなく、些細なことで僕は叱られるようになり、ことあるごとにいつ出て行くのか、実家に帰ってはどうか、トイレの上蓋は閉めろとあれほど言ったのに、と言われるようになった。いや、些細なことという文言は、撤回しておこう。連れ合いにしたら決して些細なことではないのだから。そもそも、9月から留学用の奨学金が給付されるまで、僕は完全な無収入なのだから、連れ合いにしてもとんだお荷物を抱え込んだと思っているに相違ない。そういうわけで、僕も連れ合いも先行きの不透明な状況の中、あまり現実的なことは考えないようにし、水とレモンと蜂蜜があれば楽しめる愛玉子なんぞを作って、風呂上がりに杓子ですくって二人で食うのである。

帰宅するなりその日使っていたマスクを中性洗剤で洗い、スーパーの棚にわずかに残っていた乾麺で夕食を作ろうと、鍋に湯を沸かす。湯が沸くまで、ふととりとめのないことを思って暇を弄ぶ。—衛生の歴史とは過剰さの歴史だったのではないか。注射器などはその良い例だろうが、いまみんなが困っているマスクもそうだろう。徹底的に安く生産され、気軽に買うことができ、いつでも捨てられる使い捨てマスク。いや、本当は捨てなくてはならない使い捨てマスク。使い捨てを運命付けられたこの一枚数円の—いっときはその何十倍もの値がつけられた—不織布は、どこか過剰な存在なのではないか。捨てられるために生産されるものすべてにそういうことができる。プラスチックスプーンしかり、弁当のパックしかり、個包装のビニル袋しかり。そういう使い捨てのものたちが「クリーンな」生活を支えており、そういう使い捨てのものたちが明日の世界を汚している。マスクを洗いながら、もしかしたら、この使い捨てという生産と消費の構造にどこか無理があったのではないか、とふと思う。増産してくれれば、当面はありがたいけれども、それで済む話ではないのかもしれない。まあ、WHOはどう言うかしらないけれども、個人的な肌感覚としては、マスクは予防のために必要なのであって、だからマスクをどれだけ消費しようと、それは過剰ではないはず、とも思う。むしろ、過剰なのは現在の流通システムに対する需要の方である、という冷静な見方もできよう。これら過剰をめぐる独り言は、生産と流通と消費を一つの生態系としてみることを意味するのかもしれない。なに、素朴な、しかもとりとめのない思いつきである。そこに個人的なエピソードを付け加えておくなら、何年か前、家族が病気になった時は、マスクは決して手放せないものだった。抵抗力の落ちた人間にとって、マスクは生存のための必需品だったのである。少なくとも、医学的効果があるかどうかは分からないが、あの頃マスクが手元にあることはどうしても必要なことだった。—そろそろ乾麺を鍋に投入する時分だ。

—そういえば、「生存」という言葉にも、どこか過剰なおもむきがある。日本語の生存にあたるフランス語はsurvivireだが、surという接頭辞の意味を考えるべく、おもむろに辞書を引けば、死の後に依然として生きた状態であること、とある。死の後に、つまり、死してなお、記憶の中にありありと生きていること、という意味。あるいはまた、周囲の者たちが殲滅された状態で、それでも自分だけは生きている、生き残っている、ということか。誰もが受け入れねばならなかったはずの死、その一線を超えでて、どうにか生きていること。つまり、通常なら終わらなければならない生が延長されること。だとしたら、その越え出た生は、死に呑みこまれなかった余りの部分、過剰な生なのか。そういう解釈を支えるかのように、survivreという語には、わけもなく生き続けていること、という残酷な意味もあるらしい。

survivreという単語の意味を調べようともう少しだけ辞書を読んでいくと、「何かよりもずっと遅く生きること」とも書いてある。正しくは、何かよりももっと遅くまで生きること、である。しかしまた、その遅さを時間的な遅さというよりも速度としての遅さとして誤解することはできないか。誰もが死なねばならないという状況で、誰よりも遅くまで生きること、最後の最後まで生き残ること、という意味ではなく、むしろ、誰もが死なねばならない状況で、ゆっくりと生きること、文字通り遅く生きること、そんなふうにsurvivreを曲げて解釈してみることはできないものか。遅さ。それも過剰な遅さ。このろくに収入もない、世間からはモラトリアムと蔑視される生き方でも、実はそういう遅さを失っていると感じることがある。何やら忙しい。あっという間の時間。もしかしたら、この帰国期間は、そういう時間を再考するための試練なのではなかろうか。もっとゆっくり、もっと遅く。—そんなことを考えていると、投入した麺が柔らかくなりすぎている。まずは食わねば。話はその後。

そういうわけで、何やらずっと食っている。食って食って食いまくっている。連れ合いからは、その過剰な腹をどうにかしたらどうか、と言われ続けている。