ダヴィッド・ジョップへの手紙

福島亮

ダヴィッド・ジョップへ

はじめまして。先日、君の詩集を受け取りました。1956年に君の詩集がフランスで出版されてから、随分と時間がかかったね。ありがとう。お礼にこの手紙を書くことにしたのですが、宛先がわからなかったので、「水牛」の窓からインターネットの海に投げ込んで、いつか君の手元に届くのを待つことにするね。
君は1927年に生まれたのだから、生きていたら今年で92歳か。僕は去年の11月に27歳になった。だから君は僕よりも65歳ほど年上ということになる。けれども、君は1960年に奥さんと一緒にダカールに行く途中、飛行機事故で亡くなっている。33歳で君は逝ってしまったから、僕の感覚としては6歳しか君と変わらないんだ。だから、「君」と呼ぶことにした。まだ傷が痛むよね。少しでも良くなってくれたらいいんだけれど。
君が遺した詩集はたった一冊しかない。29歳の時の詩集だ。君の詩を読んで、僕は言葉の力に驚いた。というよりも、本当は、時々その力があまりにきつすぎて、読み進めるのがしんどくなる瞬間もあった。それは、例えばこんな詩。

 「暴力への反抗」

お前は屈服して お前は泣いて
お前はなぜか分からずある日こんな風に死んで
お前は他人様の安息のために戦って寝ずの番をして
お前はもう笑みをふくんだ視線で見ることもできず
恐れと不安の面持ちのお前よ 兄弟よ
立ち上がって大声で言ってやれ 否! と。
(中村隆之訳『ダヴィッド・ジョップ詩集』夜光社、2019年、12頁)

正直に言うと、僕は、君が他の詩で書いた「白人は親父を殺した」という詩句をここで引用することができなかった。それは君の同胞が生まれた植民地下のアフリカでは本当にそうだったんだと思う。悔しさ、悲しみ、言葉にならないような苦しみ、そこに嘘が紛れ込む余地はない。でも、それを日本人の僕がどんな顔して引用したらいいかまだよく分からないんだ。僕が教科書で学んだ世界史やらいくつかの事件の記録やらを持ち出して、「白人」を糾弾するのはとても容易なことだ。でも、それは君が脊髄炎や肺病に苦しみながら必死に書き連ねた言葉とは違う。そんなことを考えていたら、いつか読んだある詩を思い出した——「おしやられ/おしこめられ/ずれこむ日日だけが/今日であるものにとって/今日ほど明日をもたない日日もない。/(…)/うとくなった年月の果てで/俺の暮らしは 延びあがる先で/闇となるのだ!/棺、/棺、/棺!/瓦解するダンボールの箱に/おしひしがれる/夕餉!」(金時鐘「日日の深みで(1)」『猪飼野詩集』岩波現代文庫、2013年、50-59頁)詩人が歌う「闇」、そこに僕は君が歌う「否」の力を感じる。その力に僕は圧倒される。闇から、黒い穴から、深淵から溢れる、それは闘いの言葉。
闘いの言葉、そう、君の言葉は闘いの言葉。武器。奇跡の武器。でも同時にそこに深い愛のようなものも感じる。それは、たとえばこんな詩。

 「わが母に」

自分をめぐるあの思い出が不意に現れ
深淵の入り口に恐る恐る寄港し
凍てついた海のなかに手に入れたものが没していくのを思い出すとき
ぼくの心中に漂流するあの日々が蘇り
麻酔の力で断片化した日々のうちで
締め切った鎧戸の後ろで
空虚を埋めようと言葉が貴族的になるとき
ぼくは想うのだ 母よ きみのことを
歳月によって傷められた美しいまつ毛を
入院するぼくに夜々見せてくれたほほ笑みを
ほほ笑みは言ってくれたね かつての不幸はすっかり克服されたと
ああ 母よ ぼくのであり みんなのであり
視界を奪われたニグロのでありそのニグロは視界を取り戻して花々を見る
聞け 聞くのだ きみの声を
その声は暴力が横断したこの叫びだ
その声は愛のみに導かれたこの歌だ。
(同上、16頁)

叫びと歌を遺して君は逝った。落下していく飛行機の悪夢を、君が死んだ2年後、カリブ海でポール・ニジェールが再び見ることになる。世代を越え、大陸を越え、移動に明け暮れた生が、その移動の最中に散り散りになる。
事故の後、海岸にたどり着いた、君が遺したたった一つの鞄。その鞄を受け取った君のお母さんの気持ちに僕の想像力は追いつかない。落下する飛行機の中、握りしめたかもしれない手、その震え。君は子どもたちに会うために飛行機に乗った。その子どもたちの顔が、そして子どもたちとともに君を待っていた君のお母さんの面影が静止画のようによぎる。それから、君が見た〈アフリカ〉の夢。その夢が遠くの方で落下音を立てる。焼け、焦げ、爛れ、崩れ、その音を誰もが知っていて、誰もが知らない。聞こえている、でも、聞こえていない無数の絶叫を押しつぶしているのは誰なのか、何なのか。吹き出す芽、繁茂しようとする双葉の肉を齧り取っていく黄金虫の唸り、あるいはその6本の足が肌にしっかり食い込む、その痛みと冷たい快感を引き裂けよ、と、そう言っているのか、君は。
そこで僕は、最後にこの詩を書き写しておく。

 「時刻」

夢を見るための時刻がある
沈黙に穿たれる夜々の安らぎのうちで
疑うための時刻がある
そして言葉の重いヴェールは血まみれに引き裂かれる
苦しむための時刻がある
母たちのまなざしに映る戦争の道の長さ
愛するための時刻がある
合一する肉体がうたう光の小屋のうちで
来るべき日々を彩るように
そして時刻の錯乱のうちで
待ち切れない時刻のうちで
いつでもよりいっそう肥沃な芽
やがて均衡が生み出されるだろう時刻。
(同上、19頁)

待ちに待たれ、今でも待たれ、焼けきれそうな時刻。そんな時刻が来る前に君は逝ってしまった。どれだけ贅を尽くした言葉も、もう君には届かない。言葉の無力さを嘆いているのではない。言葉のありあまる力を摑みきれないことへの苛立ちだ。ただ、手もとには君が遺した22篇の詩があるだけだ。それならば——、それならば、僕は君の言葉を丸呑みにし、君が見た夢を見続けてやる。

君の詩が、波間で誰かに拾われて、読まれることを祈っているよ。

じゃあね。
もう会うことのできないダヴィッドへ、心を込めて——。

2019年3月30日、東京