埋まらない隙間

西荻なな

トランプがアメリカ大統領に就任して10日あまり、アメリカ国内に住む友人からは、早くも憤りと叫びにも似た声が聞こえてきている。大統領選前後からチャットで頻繁に情報交換をしていて、現地の空気と自身の見解を伝えてくれる親友は、ボストンで精神科医をしている。アメリカリベラルを体現するアカデミックな土地柄、トランプ当選が決まった際には、あまりのショックに彼女のクリニックに来る患者さんは増えたというし、何よりLGBTの友人たちの生活が脅かされるようになるのでは、と当初から心配を募らせていた。彼女が善いと信じるアメリカのリベラルな価値観がなし崩しにされかねないことに、心底怒っていた。それは日本にいても共有するものだ。アメリカが全面的に好きでなくとも、人種もジェンダーも乗り越えて行ける価値観を体現してくれる国が倒れては、生きづらさが増していくばかりだ。日本で女性として生きていくことの難しさを10代から語り合う中だった彼女は、自由に呼吸できる場所を求めてアメリカへ移住した。その選択が間違っていなかったことは、彼女がどんどん解放されて、その才能と持ち前の明るさを開花させていく姿から感じ取っていた。トランプによる大統領令で中東地域出身の人たちのアメリカ入国、再入国が閉ざされる(その後、司法の働きによって最悪の事態は回避されたかに思えるが)と思われた一昨日の嘆きは、とりわけ深いようだった。シリアとスペインのハーフの友人はギリシャに一時的に仕事で行っているが、戻ってこれないかもしれない。もう一人のシリア系の友人には子どもが生まれたばかりだが、彼女の家族に会いに来るはずだった両親はアメリカに来られなさそうだ。でもそんな彼らはまだ幸福な方かもしれず、受け入れを期待していたシリア難民たちの生活はどうなるのだろう、というところまで話は及んだ。トランプの経済政策に期待する声も大きい一方で、家族や友人の輪が国境によって分断されかねない事態に(想像していたとはいえ)、気持ちは暗くならざるをえない。

一方で、ではトランプ大統領の誕生は間違っていたのか、といえば難しい。ヒラリーがよかったのかといえば答えに窮する。痛みを感じている人たちを受け止めるべき存在がなかったのだから、必然的にこうなったのだという思いもある。”リベラル”を説く人が今の経済システムの根本にメスを入れないことが、この時代にどう映るのか。その想像力を持っていたのか。本来のリベラルとは別の、資本主義にリベラルな価値が結託する形でのネオリベ的あり様がもたらした階級社会。マイケル・ムーアの映画作品が突撃していった先の超金融資本主義の恩恵に与れる人と、そうで無い人たちとの分断。国境を越えて日々自由に世界を飛び回る人たちと、飛行機になど乗ったことなど無いローカルな日常を送る人たち。日々の暮らしに困窮していては、生活はむしろ豊かになるためのものではなく、サバイブするもの、生き延びる目的そのものなのだ、という事実に、”Hillbilly Elegy:A memoir of a Famiy and Culture in Crisis”という昨年のアメリカのベストセラーを読んで気づかされた。著者はトランプ支持の厚かった、中西部のラストベルト(脱工業化が進んで錆びてしまった地域)で成長した31歳の青年。祖父母が生きた時代は産業に未来のある豊かな地であり、古き良きアメリカの家族と暮らしがそこにはあった。それが代を下り、父母の時代になり、様相は変わってゆく。しかし、その中で暮らしている人たちにとっては、そここそが”世界”。ドラッグと暴力と転々として定まらない暮らしに、心は砕けそうになるが、最後は祖母が拠り所になった。勉強できる環境を確保し、アメリカの良き”アファーマティブアクション”の助けを得て、アイビーリーグヘと進み、未来へと道をつなぐことができた。今は投資会社のCEOを務める身で、そこだけ見れば成功者だろう。でも筆致はきわめてニュートラルで、情に流されるでもなく、冷たくもない。今だから”Hillbilly”(白人労働者階級)とは何なのか、経済的に恵まれない忘れ去られた存在として生きる哀しさとは何なのか、記憶の中からすくい上げるように、淡々と個人史を紡いでいる。でもこの私小説にも似た読み物は、同じくラスト・ベルトで生きることがどのようなものなのか、その事実を余すところなく伝えていた。教育とは無縁で、ドラッグ漬け、家族の形も壊れかけている生活に身を置いていれば、リベラルな価値は届かないし、触れることがあってもいきおい”高級なもの”にならざるをえないし、等しくその恩恵が届かないのであれば、それはむしろ反感を買う対象になってしまう。社会政策から取り残され、”忘れられてしまった人々”(forgotten people)の支持を結果的にトランプが得てしまったことは、彼らがさらに置き去りにされるであろう未来を思うと二重の意味で不幸でしかないけれども、「America,First」「Bring Back America」という標語の繰り返しが、”忘れられた人たち”の心に確実に響いた事実は重い。その人たちにとっては、当面の生活が改善されるかもしれないという期待において、合理的な判断だったのだろうから。

友人の嘆きには心から共鳴するし、彼女の憤りの多くの部分は私の憤りでもある。とはいえ、彼女の生きるアメリカの良き価値観を体現するコミュニティの特異性を思うにつけ、分断の隙間を埋めることの難しさを思わずにはいられない。羨ましいという感情が羨ましい、を超えて、妬ましさに転じてしまった時、あるいは負の感情すら、何の感情の接点すら持てないほどに世界が離れてしまった時に、どう向き合っていったらいいのか。Facebook的な世界に現実が飲み込まれてしまったいま、アメリカと日本の距離も込みで、自分の課題として考えていきたい。