晩夏の記憶

西荻なな

夏の終わりになると、とりわけ酷暑と呼ぶにふさわしい夏の終わりになると、涼を求めて高原へと車を走らせた叔母のことを思い出す。夏のじっとりとしたむせかえるような暑さ、打ち水をしても陽の高さは落ちることなく、昼寝をはさまなければ動くに動けないようなうだる暑さがまだやってくる前、田んぼに畑に早朝からせっせと出かけていく祖父の姿を見ることなく朝食時にようやっと掃除を終えた祖母とともに顔を合わせる。甲府盆地のどまんなかで暮らしていた祖父母との夏は、東京育ちの姉妹ふたりが田舎という言葉をまざまざと体感する時間だったが、その祖父母の田舎暮らしの傍ら、坂道一本下った家に住まう叔母は、いつもどこか涼しくハイカラな、高原の空気をまとった生活をしていて、それぞれの家を行き来するのがまた1日の楽しみでもあった。午後日が落ちた頃、ミシンで作業をする叔母の家の戸を日課のように開けては夕飯時にまた坂を登る。甲府盆地の、今は日本のどこにもないように思われるあの暑さ。そこから抜け出るように、まだ幼い姉妹を、叔母はよく車で清里方面へと連れ出してくれた。時折濃霧の発生して寒いほどの高原気候の夏の高原に咲きほこるホタルブクロやオニユリ、ツリガネニンジンやクガイソウ。慎ましやかで淡い色をまとった花々が大好きで、シラカバの林の中を颯爽と車で駆け抜けて長靴とともに山の麓に降り立っては、押し花にする花々をちょっと拝借して、いつしかにわか植物学者を気どるほどになっていたが、帰り道苗木を買い、それがまた叔母の庭に加わり、また新たにさらさらとした葉の芽吹きとともに成長を遂げるのだと思うと、それもまた楽しみになっていた。畑で採れた太ったきゅうりと巨大なナスは、塩もみのきゅうりとナスの味噌炒めとなって飽きるほど毎日の食卓を飾り、それぞれを馬の格好にして迎え火と送り火を焚いた。その短い夏の間に、叔母は持ち前のセンスで押し花作業をともにしてくれるばかりか、ワンピースやスカートを作ってくれることも度々あった。月日が経過し、叔母にも家族が増え、迫り来る高齢化の波に変貌する甲府の小さな町の人間模様は、苦く暗い影をも落としていくことになった。夏の暑さも増すばかりだった。そうしていつしか甲府から足も遠ざかっていったが、太宰治が「新樹の言葉」で「庭にシルクハットを倒さかさまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない」と書いた一文に出会った時には、このハイカラさは、私にとってあの叔母の時間とともにある、と思われた。中央線あずさの特急に乗ることは、甲府へ行くことだった。でも、いつしか甲府をとばして高原や山ゆきの拠点駅に降り立つ今がある。でも帰り道甲府を通り過ぎる時、とりわけ晩夏になると、まだ独りだった叔母との時間が涼やかに思い起こされるのだ。