遭遇の力

西荻なな

遭遇してしまった、ということを考える。遭遇といってまず思い浮かべるのは、その衝撃の大きさだろうか。何か方向性をもって不意に飛び込んでくるもの。向こう側から不意に飛び込んできて、その衝撃の大きさに驚くけれども、後からじわじわと、ああ出会ってしまった、掴まれて離れがたい何かに出会ったのだ、と実感されるような動的なもの。今だけでその出会いが終わるのではなくて、何か明るいそれとの関わりがじんわりと前方に照らしだされるような出来事。未来方向へ、しばらくのあいだ進行形としてあり続ける持続的な出来事というかんじだろうか。あるいは、その出会いの衝動がしばらくのあいだ心の中に鎮座して、言葉で語り出したいというようなエネルギー源みたいなもの。言い換えると熱を帯びた何か、といってもいいのかもしれない。遭遇してしまったら、もはや遭遇する前の地点には戻ることができないような熱源。

でもどうやら、遭遇の方向性には何かをさらって不意にちゃらにするような、わだかまりを一瞬にして解くような、マイナスの魔法みたいなこともあるんじゃないか、というのが最近の気づきだ。過剰なプラスが持ち込まれて、何かが宿り、やがて時とともに逓減してゆくというのではなくて、どっかりとすでに心の中に居座っていたものを、ふっと瞬時にさらっていくような、そのあとには新しい爽やかな風が吹き始めるような出来事との遭遇。そうした遭遇がまったく新しいものとして立ち現れたことに驚いたのは、実は同じ出来事にも数年前に出会っていたはずだったからだった。その時にはそれが、人からの優しさによってもたらされた何の他意もないフラットなニュースだったに違いなかったのだが、まるで直角方向から差し込むような印象が感じられて、その瞬間に完全に突っぱねてしまっていたのだ。でも、その日にもたらされたまったく同じはずの話は、静かに、あまりにドラマチックにやってきた。

自分自身が数年間ぐるぐると同じ軌道の上を回り続け、いったいこれはいつまでこうなのだ? と思い続けてきた問題系が、まったく不意にゼロになった、と感じられた。しかも驚いたのは、その出来事が、この頑固な問題系をめぐる軌道のいちばん遠いところにかろうじてのっかっている、くらいの距離感のもので、ごくごく淡い関係性にすぎないにもかかわらず、まさにこれしかない、という角度でやってきたのだ。この問題に、この道具。そんな組み合わせは数年前には思いつかなかったのに、そしてまさにこの一瞬で関わりは終わるのに、大きな塊をさっとかすめとって何事もなかったかのようにしてしまう偶然の遭遇は、まったくの新しい体験だったのだ。

何か熱を帯びる遭遇が力を弱めたり、また強くなりながら、長いこと続いていくものとしてあるならば、ほんの一瞬にして振り出しに戻し、新しい局面をもたらすような、刷新するような遭遇もまたあるのだと思った。まだまだ見知らぬ感覚というものは残されているのかもしれない。