万華鏡物語(12) 何もかもが

長谷部千彩

 「何もかもが嫌になっちゃうことってありませんか」 
 そう尋ねると、「あります」とMさんは力強く言った。
 隣に座ったYさんも「僕もありますよ」と続ける。
 その問いに「ありません」と答えたひとに、私は会ったことがない。

 打ち合わせを終え、ふたりと別れた私は、いつもよりも少し重いトートバッグを肩にかけ、品川駅へ向かった。
 スマートフォンをかざし、珈琲の入った紙カップを片手に改札を抜ける。いまどき、平日午後ということもあって新幹線ホームはがらがらだ。乗り込んだ車両にも、客は六人しかいない。みなひとり。無言で出発を待っている。
 閉所恐怖症の私が選ぶのは、いつも出口に一番近い通路側の席。けれど、今日は窓際に陣取る。
 シートを倒して足を伸ばし、窓の外に目をやると、列車が静かに滑り出した。ぐんぐん、ぐんぐん、スピードをあげていく。新幹線の車窓から眺める景色が好きだ。振り切るように、すべてが後方へ流れ去っていく。

 思い詰めるほどの悩みはない。食べることができる。眠ることができる。働くことができる。家族がいて、友人がいて、仕事仲間がいて、深い孤独に苛まれることもない。今日という日において言えば、私は恵まれた状況で生きている。
 なのに、何もかもが嫌になってしまう。ちょっとしたきっかけはあるにせよ、原因というほど大きなものはない。たぶん、それは気分的なもの。いつも突然やってくる。ある日、気づくと、植木鉢の隅に小さな葉をひょっこり覗かせている雑草みたいなもの。順調に廻っているからこそ鳴る軋み。
 そんなとき、私は日常から消える。明日、明日でなければ明後日、どこかへ行こう、と考える。できれば、知り合いのいない場所へ。そう、ひとりで。

 ローカル線に乗り換える。時刻表を見ると、どうやらこの路線は、一時間に一、二本しか電車が走らないらしい。下校時刻なのだろうか、高校生が数人、ホームではしゃぐこともなく、電車をぼんやり待っている。空いたベンチを見つけて腰掛けると、立ち食い蕎麦のスタンドから漂う醤油の匂いが。店の外壁に掲示されたメニュー。名物は、桜えびと生海苔とわさびが載った蕎麦らしい。確かにその取り合わせは美味しそうだ。時間に余裕があれば、食べてみたかった。

 天井に扇風機のついた古い車両に揺られ、長いトンネルをふたつ抜ける。初めて降り立つその駅は、小さな無人駅だった。年季が入った木造建築が、都心に暮らす私の目には物珍しい。時間的には東京からそれほど遠くないのに、こんな鄙(ひな)びた駅がまだ存在するとは。
 駅舎を出ると小さな階段があった。手すりの脇に白い紫陽花が咲いている。傘をさし、とんとんとんと降りていくと、広場とはとても呼べない、車をなんとかUターンさせられる程度のスペースがあり、白いワゴン車が私の到着を待っていた。
 車一台通れるだけの道幅の坂を下り、海沿いを少し走って、また急勾配の坂を上る。海が見下ろせる部屋という条件で探した、山面に建つ宿。あいにくの天気だけれど、それもまた良し。
 運転席の男性が私に声をかける。
 「明日は何時にお発ちですか」
 「まだ帰りの電車を調べていないので、送っていただきたい時間を後でお伝えしますね」と答えておく。
 明日の十五時には、日比谷で仕事をしている私。昨日も今日もずっと東京にいたような顔をして。「何もかもが嫌になった」だなんて、思ったことすらないような顔をして。

 高校生の頃、安部公房の小説をよく読んだ。都市からふっと消えてしまう男の話が好きだった。大人になるとそんなことを考えるようになるのだろうか。そもそも、そんなことが実行できるものだろうか。そしてそれは、奇想天外な話なのか、それともリアリティのある話なのか。
 子供の私にはわからなかった。でも、大人になるとわかる。逃げ出さねばならないことなどなくても、時々ふっと消えたくなる。消えることも、また可能だ。それは、煙草をくわえた三十分かもしれないし、私のように一晩かもしれない。そうでなければ、何日間か、何年間かの計画された旅かもしれない。消えて、消えた後、大抵の大人は戻ってくる。そして、何食わぬ顔をして小説にならぬ人生を続けるのだ。