万華鏡物語(9)春が来るのに

長谷部千彩

 喫茶店にいる。窓際の席でコーヒーを飲みながら、この原稿を書いている。ガラス窓の向こうの空は明るい。気温は低いが、来週から三月だ。
 この文章がひとの目に触れる頃、この店は閉店している。十年以上通い続けたけれど、営業日は残すところあと三日。コロナ禍とは無関係。テナント契約の問題だ。
 ジャズが流れていること。テーブルが四角く広いこと。天板が厚く、書きものをするのにちょうどいい高さだということ。店内の真ん中に一本の通路。その両側に、ボックスシートの車両のように向き合ったベンチスタイルの椅子が並ぶ。後ろの席との仕切りも兼ねた椅子の背凭れは高く、他の客が視界に入らないため、自分たちの話に集中できるのが何よりありがたかった。
 仕事の打ち合わせはもちろん、私用でひとに会うのにも、私が指定するのはもっぱらこの店。ひとりで本を読むためにも訪れたし、ここで原稿を書くことも多かった。週に四回、訪れることもあったのだから、常連客と名乗っても許されるだろう。

 私が数人の知人と運営するウェブマガジンは六年を数えるが、そのもととなるアイディアを口にしたのは、まさにいま座っているこの席で。耳を傾けていた女性編集者は「やりましょうよ!」と即答してくれた。
 それ以来、チームのミーティングもずっとここで行ってきた。本業の仕事の合間を縫って集まるこの場所は、私たちにとって部室のようなもの。各テーブルにひとつずつ置かれた紫のシェードの小さなランプ、その電源コードはテーブルの下に伸びていて、作業が長引き、持参したノートPCのバッテリー量が心細くなると、天板の下に頭を突っ込み、ランプのコンセントを抜いて自機のACアダプターを繋いだ。
 夏のアイスコーヒー。秋のミルクティー。冬のココア。東京の最も美しい季節がやって来るというのに、私たちはこれからいったいどこを根城にすればいいのか。

 もうひとつ、この喫茶店を贔屓にしていた理由がある。それは、飲み物を供される器だ。例えばいま、キーボードを打つ手の脇には、エインズレイのカップが置かれている。この店では有名な陶磁器ブランドのカップを何種類も揃えていて、今日はどんなカップで運ばれてくるのか、洋食器好きの私には、それが小さな楽しみだった。

 スターバックスやブルーボトル、ドトールコーヒーや上島珈琲。チェーン展開するコーヒーショップは街を覆うように増えていく。休憩するなら、お喋りするなら、他の店でも大丈夫。ましてやここは東京、素敵なカフェなら星の数ほど存在する。けれど、落ち着いて考え事ができ、落ち着いて本を読み、落ち着いて文章が書ける喫茶店を見つけるのは、なかなか難しい。神経質な私には。

 居心地のいい店を見つけるまで、区立図書館に通ってみようかとも思う。そこへは飲み物を持ち込めるだろうか。キーボードを叩くパチパチという音は、周りの迷惑にならないだろうか。その席のそばに窓はあるだろうか。その窓からは、何が見えるのだろう。
 この店が面した広場には、クリスマスが近づくと、巨大なクリスタルのオブジェが設置される。パリにアパルトマンを借りて暮らした二年間を除き、私は、毎年、その煌めきを窓の外に眺めながら、ひとときを過ごした。特別な思い入れはなかったけれど、次の冬、私が同じ時間を持つことはない、そう思うと奇妙な気分に襲われる。
 在るものが消え、消えた後、何食わぬ顔でまた何かが現れる――そのことに慣れ切っているはずなのに、もはや何の疑問も抱かぬほど、都会に長く住み続け、年を取ったというのに、なぜだろう、この先もずっとこの店に通い続けるような気がしていたのだ。
 ここで待ち合わせた人々の顔が次々と浮かぶ。私の中のひとつの時代が終わる。それは大袈裟な表現だろうか。感傷だと笑われるだろうか。

 もしも、行き場が見つからなかったら、どうしよう。テーブルの下、投げ出した脚。私は、キーボードを打つ手を止める。頬杖をつく。四角く広いテーブル。天板の厚み。ベンチシート。私好みのカップとコーヒー。小さな音で流れるジャズ。ガラス窓の向こうの青空。そのときは、自分で喫茶店を開けばいいのかな。そんな考えが頭をよぎる。私は夢想に耽る。