万華鏡物語(5)二〇二〇年、八月の手触り

長谷部千彩

 この半年、バカみたいに本を買っていた。本当に手当たり次第。数えてみたら七十冊を超えていた。そのすべてをネットショップで買った。でも、読み終えたのは、ほんの数冊。自由になる時間があまり取れなかった。
 新型コロナウィルスの感染が広がり、外出自粛が呼びかけられ、仕事を減らしたひとたちが大勢いるのに、私の仕事の量は変わらなかった。いや、正しくは、いつもより多かった。幸いなことに。

 一息ついたのは七月の終わり。気がつくと、机の脇には床から膝の高さまで積み上げられた本の柱が何本も立っていた。
 私は一冊ずつ、トレーシングペーパーで本にカバーをかけた。グラシン紙は滑りが良すぎるので、カバーにはトレーシングペーパーを使っている。カバーのかけ方は、昔、私のオフィスで働いていた女の子から教わった。私のもとに来る前、彼女は書店に勤めていたのだ。

 数時間後には、白い霜を巻いたような本の小山ができた。私はその小山を改めて眺め、これが私のコロナ禍の形なのだと思った。
 都心に住んでいると、徒歩五分圏内にいくつもコンビニエンスストアがあり、必要最低限のものは手に入る。食材宅配サーヴィスを利用しているので、食料品が底をつく心配もない。打ち合わせのほとんどがオンラインに切り替わり、テレワークという言葉が一斉に使われるようになったけれども、もともとひとりでPCに向かう仕事をする私にとって、その変化は、日常がほんの少し傾いた程度のものだった。

 運動不足解消のため、時々、近所を当て処もなくぶらぶらと歩いた。
 時々、トレーニングアプリを使って部屋でストレッチをした。
 時々、マンションの屋上で小学生の姪と縄跳びをした。
 規則正しく響くコンクリートを叩く縄の音。私たちの頭上を飛行機が何機も通り過ぎていった。羽田空港新ルートの運用が一月末から始まり、閑静だった住宅街はひっきりなしの轟音に悩まされるようになった。そのことのほうが、新型コロナウィルスよりも、私には身近な問題だった(この問題はこの先も続く)。

 感染の広がりや経済への影響は、いつか回り回って私の生活をいまよりも大きく変えるだろう。覚悟はしている。でも、まだ大丈夫。まだ平気。私はそれほど困っていない。そう捉えて黙々と働いた。
 けれど、息抜きにカフェでお茶を飲むことがなくなった。映画館も美術館も足を運ぶのが憚られた。この仕事が終わったら、美味しいものを食べに行こう。この仕事が終わったら、友達に会いに行こう。この仕事が終わったら、トランクを持って旅に出よう。そう、素敵な靴を履いて。そう、素敵な服を着て。
 その楽しみをひとつひとつ消していったら、「この仕事が終わったら、ゆっくり本を読もう」が残った。満たされないささやかな欲望を、私は本を買うことに置き換えて、半年間、積み上げていたのだ。
 私のフラストレーションは、浪費を伴ってはいたけれど、その形は四角くコンパクト、そして整然としていた。そのことを知り、私は小さくクスッと笑った。

 透ける背表紙の文字を目で辿る。どれから読もうか。全部読み切れるといいけれど。注ぎ足したコーヒーを口に含み、一冊を手に取り、ページをめくる。これが私のコロナ禍の手触り。
 八月は休暇を取ろう、と心に誓った。どこかで蝉が鳴いている。
東京の夏は長い。窓の外に広がる空を、飛行機が低く飛んでいく。