アジアのごはん(25)コルカタのチャイ屋さん

森下ヒバリ

インドの西ベンガル州の州都コルカタ(旧カルカッタ)の空気の悪さは半端じゃない。夜半にコルカタ空港に着いたとき、まず着陸のときに窓から外を見て「おや、深い霧だこと」と思った。空港からタクシーに乗って道路に進み出て「コルカタは霧の町だったのか・・」とロマンティックな気分に浸ることわずか、すぐに町中に流れる霧のようなものが外灯や車のライトに照らされたスモッグだと気が付いた。

加えて、ものすごい騒音と渋滞。鳴らされっぱなしのクラクション、人の叫び声、車のエンジン音、音楽。忘れていたインドの感覚が身体の底から浮かび上がってきた。この混沌の世界に戻ってきた・・と思わずタクシーの中で嬉しくなって笑ってしまう。

しばらくコルカタにいたのだが、用事があるときのほかは、宿のあるサダルストリート周辺からほとんど出なかった。せいぜい、オールドマーケットの向こうまで。とにかく、車の多い大通りは空気が悪くて渋滞しているので、大通りには極力出たくない。あまり車の走らない裏通りや路地をぶらぶら散歩して過ごした。サダルストリートは、安宿街なのだが、この周辺は古きよきインドの下町でもあるので、路上観察していて飽きることがない。

散歩の友は道端のチャイ屋で飲む一杯の煮出しミルク紅茶である。紅茶を牛乳と水とで煮出したもので、たっぷりの砂糖が入っていてかなり甘い。店によっては生姜やシナモンなどのスパイスを加えることもある。道端の店ではある程度まとめて鍋で作り、仕上げに砂糖を加えてしまうので、砂糖抜きを頼むのはむずかしい。道端の店ではとても小さい素焼きのカップで出されるのだが、たぶん40ミリリットルぐらいしかチャイは入っていないので、甘くてもまあ何とか飲める。

いろいろな道端のチャイ屋で飲んでみて、けっきょくホテルの横の路地にあるチャイ屋がいちばんおいしいことが分かった。チャイを作っているのはまだ中年にさしかかったばかりのおじさんである。青いチェックのルンギ(腰巻布)を着て立てひざをして座り、もくもくとチャイを作る。店に客が途切れることはほとんどない。少年が出来たチャイを受け取って客に渡したり、配達したりしている。木のベンチが2つあるのだが、いっぱいで座れないことも多い。

素焼きの小さいカップ入りが2ルピー。約6円。大きいカップもあり、こちらは5ルピー。小の3倍ぐらい入っている。素焼きのカップは使い捨てで、飲み終わったら足元に投げ捨てて割る。低温焼成なので耐久性はなく、しばらくすると土に返るのである。焼き上げて洗っているわけでもないので、赤茶色のカップに口をつけるとちょっと赤土の匂いがする。

ベンチに座ってちびちびと飲みながらチャイ屋さんのようすを眺めていると、持ち帰り客もけっこう多い。マイカップや小型の保温ポット、ステンレスの茶筒のような入れ物を持って買いに来るのである。

「わたしも持ち帰りがしたいっ」と今回のインド旅行に同行したK嬢が目を輝かせて言う。ステンレスの茶筒にはもち手も付いていて、あれをぶら下げてチャイを買いに行きたくなったらしい。市場の近くでステンレスのいろいろな容器を売っていたので探し出して買い、K嬢はチャイのお持ち帰り生活を始めた。「いや〜、お持ち帰りだと量が多いんですよ〜」マイカップやマイポットを持参すると、5ルピーで店で飲む大きいカップの2倍近い量がもらえるのだという。

ところで、日本人や中国人、タイ人などのアジア人は大人になるとほとんどの人が「乳糖不耐症」になる。ミルクに含まれる乳糖が消化できず、腸内で拒否反応を起こして腹痛、下痢、ガスの異常発生などの症状を起すものだが、どれほどミルクを飲めばどのように症状が出るかには個人差もあるし、戦後育ちは子供の頃から牛乳は完全栄養食品という信仰で育てられてきているので、自覚のない人や、気付かない人も多い。しかし、ミルクを飲むとおなかが張る、お通じが良くなると思っている人は多いはずである。

これは次の世代に母親の乳を譲るための、哺乳類としてはごく自然な性質である。ミルクが完全栄養食品になるのは、長い牧畜の歴史によって得られた、乳糖を消化できる特質を遺伝的に持っているヨーロッパ人などの人々にとってだけなのだ。
インド人は地域にもよるが、アジア人よりは乳糖分解酵素の保持率が高いようである。乳糖は発酵作用で分解されるため、乳糖分解酵素を持っていないアジア人成人は、牛乳や生クリームはなるべくさけて、乳製品が食べたければよく発酵したチーズやヨーグルトを食べるといいようだ。

わたしは牛乳アレルギーも持っているので、乳製品を摂取すると乳糖不耐症の症状が出るより先に気分が悪くなってしまう。まったく受付けないわけではないが、許容量は少ない。なので、チャイは水とミルクが半量ぐらいであるとはいえ、5ルピーのカップを一度に飲むと容量オーバー。一日に間を空けて2ルピーのチャイを3杯が限度だろうか。幸いなことにそういうペースであればチャイも楽しめる。

なので、乳糖不耐症の激しい症状に至るほどのミルク摂取はしたことがない。沢山飲めば飲むほど症状は激しくなるというから、その症状を経験することはまず無理。その前にアレルギーで吐いて倒れるから。

しかし、激しい乳糖不耐症の症例を目の当たりにする日がやってきた。コルカタから北へ寝台列車で移動し、ブータン国境の町に着いた日、わたしは寒さとカレーの油に胃が弱って体調を崩し、宿でげろげろと吐いていた。食べ物も受け付けない。なにか同じように具合が悪そうでトイレに通うK嬢。あぶらこいカレー料理でも何でも「おいし〜い!」と毎日わたしの二倍は食べていたから、さすがに胃をやられたのかと思いきや「ゲリなんすけど、それと一緒にあの・・も、ものすごい爆発ガスが止まらないんです」と青い顔。

「それ、乳糖不耐症の症状みたいやけど、毎日どれぐらいチャイ飲んでたん?」聞くと、ここ数日、彼女は散歩のときにも一緒にチャイ屋でチャイを飲んでいたが、その上に何度もお持ち帰りをして宿の部屋でチャイ三昧をしていたらしい。あの小さなカップの量ならまだしも、お得なマイポット持ち帰りであるので、けっこうな量を飲んでいたことになる。さらにインドのベジタリアン料理はミルクをよく使うので、知らず知らずのうちに限度を越えて大量摂取に至っていたのだろう。
「日本にいるときも牛乳は好きでよく飲んでたんですが、たしかにおなかは張ってよっくガスが出てました。でもこんな激しいのは初めてですう」K嬢はおなかが張ってよくガスが出るのは自分の体質だと思っていたらしい。一緒に行ったほかのメンバーからも「はしゃいでお持ち帰りするからだ」と叱られ、「お前はもうチャイを飲むな」とストップをかけられたK嬢であった。しかし、チャイ断ちした後も数日間は彼女の症状は治まらなかった。