長い道のり(3)

小泉英政

県からの返答を待つ時間はとても長く感じられた。暮も押し迫って、官庁の仕事納めの日も近づいて来る。やはり空港会社の人が言うように無理なのかもしれない。ぼくは彼に、「いままで、いろいろ努力していただいたのに、申し訳ないですが、このままでは訴訟という形をとらざるを得ない」との手紙を送った。ここまで来て訴訟としうもの、とても気の重いものではあるが、こちら側が折れるわけにはいかないので、いたしかたがないと思い詰めていた。

ところが、その手紙とすれ違いで、県からの見解が届いたのだ。それは今までの素案とは質を異にして、とても人間味が感じられる内容だった。その文章を書く時間と、それを県内部で協議する時間とを考えると、ぼくが全面的な検討を求めてから、そう時間を置かないで判断したと考えられる。県内部でどのような議論があったのか、それは窺い知れない。ぎりぎりの状況で、よねさんからもらった力が、県にも波及していったものと思いたい。

その後、一箇所の変更を求め、年が明けて、仕事始めの一月五日、県からの最終的な見解が届いた。それは以下の通りだ。

2.千葉県の見解
昭和46年、起業者の特措法申請により、県は前面に立たざるを得ない事態となり、同年6月に緊急裁決、9月には小泉よねさんなどに代執行を行い、その過程で死亡者を出すに至りました。本来、県は、住民の気持をよりよく理解し、国・公団との間に入って問題の解決に当たるべき立場でありましたが、法で定める手続きを進める中で、小泉よねさんの気持ちを受け止めることができず、結果として県民の一人である小泉よねさんに対して非常につらい思いをさせることになったことについて、県としても残念であり、また、まことに申し訳ないと考えています。

補償額については、国の損失補填基準要綱に準じた方法で行わざるを得ませんでしたが、当時においても小泉よねさんが、これまでどおり地域に生きる一農民として穏やかな生活が送れるよう、心のこもった環境づくりができなかったかと忸怩たる思いがあります。

なお、代執行後、県では再びこのような混乱を生じさせないよう国・起業者へ話合いによる解決を図るよう申し入れ、国・起業者から話合いによる解決声明が出されました。

しかしながら、空港建設をめぐる対立は、その後も長く続きました。そのような中で、被収用者の権利を損なわないために遅滞なく行わなければならない補償裁決は、代執行を実施したにもかかわらず、心ならずも43年以上にもわたり行われていません。この間、解決に向けた起業者への働きかけなども併せ、小泉よねさん及び小泉さんご夫婦の納得できる解決の道筋を開くことがかなわず、大変なご心労をかけたことについて、県として、まことに遺憾でると考えています。

今後、県としても、国及び成田国際空港株式会社と連携し、話合い解決が図られるよう、鋭意努力をしたいと存じます。

県の謝罪が充分かどうか、意見が分かれるかもしれない。しかし、今までの「やむを得なかった」との主張に比較すれば、大きな違いがあり、それは充分評価に値するものだと考えた。ぼくたちは見解を受け入れることとした。

二月三日、千葉県庁での合意書への調印、そして記者会見と、緊張の時間が流れていった。よねさんの無念の思いを晴らしたいとの思いで、この問題に取り組んできて、やっとと思ったその先に、迷路が待っていた。

県庁での記者会見の数日後、空港会社の担当者の方が来られた。それは、こちらから要請していたことだった。よねさんの生活権補償の件で、ぼく達の考えを伝えるためだった。ぼくは、国、県、空港会社がよねさんの代執行に対して謝罪した、その言葉に沿って補償額を算出して下さいと伝えた。金額については、ぼく達は全くわからないので、弁護士の方と協議して下さいとお願いした。彼は了解し、一ヶ月ほど時間を下さいと言った。

生活権補償を認めるとは、国も空港会社も一度も言ったことがないのである。それを、内部でどう判断するのか、当然、時間がかかるだろうと思った。ところが、その判断が速かった。一週間ほど過ぎて、大谷弁護士から連絡が来た。空港会社が金額を提示してきたと言う。それは代執行当時の、農家の平均年収と、その当時の女性の平均寿命を考慮したもので、弁護士としても評価できるものだと言う。

長い道のりの中で、国、県、空港会社が非を認め、そして生活権補償も認められた。それは、直接交渉が始まる時には、なかなか予想も出来ないことだった。素直によろこぶべきことなのだが、どうも気持ちがそうならない。とたんに道が開けて、目の前にまとまったお金が出現して、とまどっているのだ。

そうこうしているうちに、反対同盟北原派の農民、市東孝雄さんの畑の裁判が、東京高裁で結審したと報道された。市東さん側は、さらなる証人申請をしていたが、それが認められず、結審したという。市東さんの畑はB滑走路の誘導路上にあり、そのため、誘導路はその場所でへの字に曲がっているのが現状で、それを何とかしたい空港会社は卑劣な手法で、その畑を取り上げようとしているのだ。その畑は市東さんにとって小作地なのだが、その所有者から空港会社がその畑を買収した。法律では、耕作者の同意をとってから、買収しなければならないとなっているが、市東さんには無断で手に入れ、市東さんに明け渡しを求めているのだ。それは明らかに農地法に違反している。

また数日して、今度は反対同盟熱田派の建造物が、空港会社によって取り壊されたということも起きた。国、空港会社は、変わらず強権的なのだ。

一方では強権を反省し、もう一方では強権をふりかざす。43年も前のことだから、謝罪するのか。何か、うまく使い分けされているようで、空しい気持ちが湧いてきた。自分で、小泉よね問題の解決を求めながら、最終局面で、そこに踏み出せない自分がいた。保証金を受けとりたくないと、思い余って、大谷弁護士に伝えた。

大谷さんから返ってきた言葉は、次のようなものだった。「小泉さんらしい決断だけれど、それは権利放棄ということで、私は反対だ。小泉さんが最初に言っていたように、それは受け取って、社会に還元するということがいいのではないか」。

そうなのか、それは「権利放棄」ということになるのかと、ぼくは少し目を覚まされた気がした。受け取らなければ「権利放棄」という形で、小泉よね問題は終了する。そもそも直接交渉をしなくても、何年、何十年後かには、小泉よね問題は終了するだろう。やはり、こちら側が主体的に関わって、養子を引き受けた人間として、責任を持って終わらせる、この方法しかなかったのだと思う。「迷い道にはまり込んでいました」と、ぼくは大谷さんに謝った。

補償金を受け取ることは、あのよねさんに襲いかかった代執行を認めることになるのか、それは何度も自問したことだった。それは違うだろう。代執行は43年前に終わり、空港施設の一部になっている。「成田市取香字馬洗70-2」の地番で検索しても、結果は出ず、その場所は成田国際空港としてしか表示されない。悔しいことに、もうその地番はない。しかし、ぼくはその地番を忘れないし、代執行を見ためたのかと問われれば、認める訳がないだろうと言う。

たとえば、交通事故の被害者の遺族が、補償金を受け取ったからといって、その事故を認めたことになるだろうか。また、戦後、米軍に銃を向けられ強制接収された沖縄の米軍基地の地主の人々が、基地の使用料を受け取っているからとして、その強制接収を認めている訳では決してない。

ぼくが納得したのは、よねさんの生活権補償が認められたという点にある。合意書において、「よねの土地、家屋等の財産権のみならず、空港建設がなかった場合によねが生涯にわたって三里塚の地において農民として送ったであろう生活に配慮し、その生活を補償するとの考えに基づいたものである」ということにある。

よねさんの養子になって41年、その間、取り組んできた二つの裁判、こちら側から提訴した「緊急裁決取消訴訟」、向こう側から提訴された「土地の明け渡し訴訟」と通して、何度か積み重ねてきた、和解や合意書への署名、そのどれもが、こちら側の主張を盛り込んだものとして存在している。それは、いろいろ失敗しながらも、迷いながらもよたよたと歩んできた長い道のりの、幸運な結果だった。

国、空港会社(旧・公団)は、よねさんを、話の通じない過激派の人間として、そしてその住居を団結小屋扱いとして処理した。空港建設が至上命令であり、そのためには手段を選ばなかった。生活権、人格権、生存権、在って無きがものだった。

法律を言葉で縛る。「緊急性」「遅滞なく」、縛ったつもりが、いくらでも、時の権力が恣意的(無理やり)に解釈し、運用できる。よねさんの問題は、それを如実に示した。

「国」を前面に立てて、「国民」を押さえ込む、このようなことは今後も充分、起こり得るし、むしろ、起こって当然のような、戦前に戻されているかのような覚えさえある。そんな時、おかしいと思ったことは、おかしいと声を上げる。諦めないで対話する。よねさんのように、沖縄の人々のように、不服従を貫く。今、こんな世相の中、よねさんの生きかたは、人々の関心を呼ぶのではないだろうか。

よねさんの生活権補償が認められたということは、よねさんの不服従の非暴力的抵抗が認められたということだと、ぼくは解釈する。よねさんの抵抗は、人間として当たり前の行いだと、より多くの人々に認識されるように、ぼくも微力を尽くしていきたい。

小泉よねを忘れない。そう、よねさんの養子になって、良かったよ。養子になっていなければ、糸の切れた凧のように、どこかに飛んで行っていただろう。