私たちはどこへ行くのか(1)生命を売買する社会

石田秀実

去年は透析をしている者にとって、いやな事件がたくさん起こった年だった。近親者間の生体腎移植をよそおって、腎臓の売買がなされていたこと、その中には腎臓癌などの病気で摘出された腎臓も含まれていたことなど、唖然とする出来事が多かった。透析者にとってはよく知られていた事実だが、中国やフィリピンに赴いて、まだ生きている貧困層や死刑囚から取り出した腎臓を、買い入れて移植する人々が絶えないことも、ようやく公にされるようになった。恥ずかしい限りだ。

生きている人や死刑囚からの内臓売買が、アジアで公然と行われていること、その主な買い手が、日本や香港から移植のためにやってくる、その国ではそれほどでなくとも、他のアジア人から見ればとんでもなく富裕な腎不全患者であることは、関係者の間では、前からよく知られていたことだ。かれらはそれが違法であることを承知の上で、海外渡航して腎臓を買いあさっている。

驚き呆れるのは、それを行っている患者の言動だ。売買による腎移植を正当化するに事欠いて、「移植以外に助かる道はない、死ぬしかない」などという虚偽を平然と述べ、不幸極まりないようなそぶりをして見せる。同じ腎不全患者として、人一倍高い医療費をむさぼり続けることに恥じている私や幾人かの透析者仲間は、そんな実情などどこ吹く風、余りにも身勝手で空々しいうそをつき続ける人々を、苦い思いで眺めるしかない。

この国では、腎不全になっても普通は死ぬことなどありえない。人工腎臓(ダイアライザー)をもちいた透析さえ続ければ、移植などせずとも30年以上も生き続けることができる。しかもほぼ無料で。

透析医療そのものがなく、腎不全になれば死んでいくしかない地域や、福祉制度の関係で、富裕層しか透析の恩恵に預かれない地域は、世界に多い。3時間以下の透析しか受けられないアメリカのような場所や、福祉制度が整っていても、日本をはるかに越える広い国土に、70箇所しか透析施設がないスェーデンのようなところさえある。狭い国土に3000を超える透析施設がひしめき、長い透析時間が確保されている日本の腎不全患者は、恵まれすぎているというほかない。

そんな場所で生きながらえているのに、それにすら満足できず、海外にまで赴いて、他者の生命を売買する違法な腎臓売買に走る人々の本音が、「これ以外に助かる道がない、死ぬしかない」などであるわけがない。透析が苦痛を伴い、厄介である、というだけのことだ。彼らが死ぬ可能性は、あいにくなことにほぼ100パーセントないといってよい。

もちろん長年の透析者として、私にも透析生活の厄介さや苦痛はよくわかる。だが、人工腎臓による透析は、なんと幸いなことに、他者の生命を奪ったり傷つけたりせずに、何十年も生きることができる方法なのだ。こうした人工臓器の開発されていない重い肝臓病や心臓病とは、精神的にも肉体的にも、苦痛のレベルが違いすぎる。
人工腎臓に縛られることのない、より快適な生が欲しいからというだけの理由しかないのに、「ほかに道がない、死ぬしかない」などという虚偽を垂れ流し、経済的格差を利用して、生きている他者の生命を買い漁る人々は、自分が買った他者の生命や生活のことを考えたことがあるのだろうか。毎日のように「恥の文化」とか「国家の品格」とかをこの国の人々が説きまわっているのを見ると、これはたぶんそうしたものがどこにもないからなのだな、と思わずにはいられない。

患者に漬け込む医者の言動も、あきれ返るとしか言いようがない。癌になってしまった腎臓は言うまでもあるまい。機能が正常でなくなって切除しなければならないような腎臓を、免疫機能が落ちた腎不全者に移植することがどんな結果を生むかなど、子供にだって分かる(本当は切除する必要もなかった腎臓を、病気の腎臓と偽って切除し、移植に用いたのかもしれないが)。

どうしても生体間の腎移植をおこなうなら、生体腎提供希望者の身元を調べ、カウンセリングを行い、言い訳ではないちゃんとしたインフォームドコンセントを繰り返した上で、倫理委員会の手続きを経て、慎重に行わねばならないはずである。そうした手続きを一切行わずに、利益目当てで機械的に生体移植を繰り返して来た医者が、テレビの前では「癌が転移しないかと祈る気持ちでやった」などとうそぶく。そうした報道を、何の批判もなく平然と垂れ流すマスコミの科学部には、医学の常識やイロハを調べる機能がないとでもいうのだろうか。

臓器移植を待つ人が何万人もいる、という報道は事実だが、その9割以上が、人工腎臓で30年以上も生きながらえることができる腎不全患者であることは、なぜかあいまいにしか報道されない。ほんとうに「それ以外に助かる道がない」人々は、ほんのわずかである。それなのに、9割を超える腎不全患者を含めた何万人の人々がみんな、「それ以外に助かる道がない」患者であるかのような虚偽報道が延々と続いているのだ。

夢の医学として語られる再生医学となれば、そのための移植を待つ人の大部分は、「それ以外では助かる道のない」人ではなく、「寿命として死ぬべく定められたすべての人々」になる。人は誰でも衰え、死んでいくはずなのだ。そのすべての人にとっての「あたりまえ」を、再生させて元に戻し、不老長寿にしようとすれば、地球上のすべての人は「常に必ず」臓器移植適応となる。そうなった時に、私たちはみんなで互いに他者の臓器を当てにし、「私は世界で一番不幸です」という顔をして見せ合うのだろうか。

もちろん再生医学が実現した暁には、そうした再生医学の恩恵にあずかれる人と、そうでなく逆に人体利用の原料提供者となる人々との格差は、今をはるかに越える形で開いているだろう。移植に預かれる人々は、「もっとも幸福で裕福な」一群の人々だけになるはずである。

人体利用の原点である臓器移植について言えば、それに不可欠ないわゆる脳死状態の人が、実は「死者でもなんでもない」ことは、1998年のA・シューモンの論文で、科学的にすっかり明らかになった。「脳が死ねば身体の有機的統合性が失われ、すぐに心臓も拍動しなくなって人は死ぬ」というアメリカ大統領委員会の公認した説は、脳神経学者シューモンが実証的に検討してみると、完全な誤りだったのだ。

脳が死んだ(つまり脳の不全状態)だけの、概念の上では真正の脳死者は、その言葉と裏腹に長い間生き続ける、いわば「慢性の」脳死者である。「慢性」という言葉は、「死者」という概念と矛盾していること注意したい。

かれらは「身体の有機的統合性」を失っていないどころか、次第に安定させ始める。不当にも「脳死者」と呼ばれた人々が、出産したり、体温を安定的に保てたのは、そうした身体の有機的統合性が保たれていたからである。いわゆる「脳死者」を「長く生き延びさせる実験」や、「脳死者を使った生体実験」について、得意げに語った人々は、単純で愚かな誤りをしていたことに気づくべきであった。死んでなどいない人に「死者」の名をつけ、そのうえで「その人が生き続けていること、生かしうること」を、矛盾と感ずることもなく得意げに報告していたのだから。

終末期を迎えて苦しんでいるこうした病者を、どう扱うべきかについて、まともな解答を与えていたのは、皮肉にもナチスが1931年に制定した人体実験の被験者についての規正法である。「終末期にある患者には、尊厳があるので、人体実験を行ってはならない」と彼らは(彼らでさえ)規定している。終末期に差し掛かって「深昏睡」状態となり、苦しんでいる患者を前に、どういうわけか「この患者をどう利用しよう」という問いを立て、そのためには「死の概念」まで捻じ曲げて恥ずることのない私たちとは、いったい何者なのか。苦しむ患者を看取ることと、その身体から生きたままの臓器を抜き取って殺し、功利的に利用することとは、まったく別の次元の事柄であるはずである。

「脳死」なる虚偽の概念が形成された過程も、いまでは明らかになっている。俗称ハーバード脳死委員会と呼ばれる委員会が、「深昏睡」という「実は生きている状態」を、「死んでいることにする」ために、「脳死」というテクニカルタームを作り上げたことは、今では明白な事実だ。それを追認したアメリカ大統領委員会で、「科学的脳死概念」として喧伝された「身体の有機的統合性をつかさどっているのは脳なので、脳が死ねば有機的統合性が失われ、心臓もすぐに止まって人は死ぬ」というドグマはといえば、グリセやボイルなど委員会のカトリック神学者の説に過ぎず、科学的検証などされていない代物だった。21世紀になったというのに、私たちは科学的概念と神学的概念を取り違えるほど愚かなままなのだろうか。

こうした非科学的で神学的な概念を、先端科学だと偽って日本にもたらした厚生労働省とその御用科学者は、ここまで明白になった事実にどう答えるのだろうか。1990年代になっても「脳死を人の死と認めぬ人間は、非科学的な野蛮人だ」などと語っていた日本の移植医たちは、肝心の自らの科学性こそ問い直すべきだろう。ちなみに彼らの科学的脳死判定なるものには、肝心の「身体の有機的統合性」を調べる項目が入っていない。それどころか「身体の有機的統合性が喪失していない」ことを示す指標である「体温が維持されている事実」は、かれらの脳死判定基準によると、なんと「脳死の証拠」になっているのだ。

「脳死」という言葉そのものが、今では科学的に認められる言葉ではない。したがって臓器移植は、それを論理的ないし科学的に認めようとすれば、殺人としてそれを構成するしかない。さもなければ悪名高いパーソン論を使って、脳の不全状態に陥った人々や植物状態の人、理性のまだ発達していない胎児・幼児を、人間ではない「異種としてのヒト」として、差別的に利用するしかない。

R・トゥルオグなど、科学的事実をきちんと踏まえようとする医学者は、臓器移植を「正当化された殺人」として認めようとしている。安楽死を認めていこうとする風潮に習い、移植を殺人として認めたうえで、その行為を違法性阻却に当たる行為だとして、論理を組み立てていこうというのである。一方で、P・シンガーなどパーソン論者は、感情ある動物の権利論と組み合わせた形で、感情を喪った人間の「異種化」という解決策を提示している。異種移植だということになれば、殺人ではなくなるからだ。もちろんどんな動物に感情があり、どんな人間に感情がなくなっているかという彼らの線引きは、きわめて杜撰で恣意的である。

だが、最も一般的で非科学的な、そして残念ながら最も一般受けする解決策は、軍事利用と一体のものである原子力の「平和利用」なるものと同様、科学的事実を認めて論理的にことを考えていこうとするものではない。逆にその非科学性と残忍性を隠し、脳死という今では否定されたはずの概念の真の姿をあいまいにしたまま、あくまで科学的に認められたものであるかのよそおって使い続けることだ。

脳死概念が科学的に否定されたことには一切触れようとしない日本の臓器移植改正法案も、この方向で一般人を欺くことをめざしている。アメリカでもヨーロッパでも、脳死という科学的には完全に否定されてしまった概念の真実の姿については、あいまいにしたまま、既成事実となった臓器移植を続けていこうという意思だけが一人歩きしている。科学的真実がどうであれ、21世紀の資本と技術は、生命、とりわけ生きている人間の生命を操作し、売買し、利潤を上げる方向に、社会の舵を切ってしまったからだ。

日本でも、一連の報道の背後に、バイオテクノロジー開発を至上命令とする厚生労働省と経済産業省の、情報操作があることは、素人の目にもよく分かる。シンガポールや、共産主義国を僭称する中華人民共和国など、開発独裁のひしめくアジアの中で、先の見えた石油やITを乗り越えて、バイオテクノロジーを推し進めようとすれば、人体利用の道を開かねばならない。

そのために必要となる原料として注目されているのは、生きている中絶胎児や、いわゆる「脳死」扱いされた、生きている人の身体、さらには植物状態の人、先天的障害を持って生まれる人々、更に不法入国した人々の身体なのだ。生きている腎臓の売買など当たり前であるかのような風潮をつくり、できればそれを明文化して既成事実化することこそ目指されなければならない。欲にぼけた医者や患者の行動であっても、黒い夢をめざして将来を誘導するためには、都合のよい情報として利用するにしくはない。

ちなみに生きている中絶胎児について言えば、その人体売買市場での価値は、1体が3万円ほどだという。生きたまま切片にして、様々なバイオテクノロジーの材料に用いるのだ。もちろんこの値は、売買の値ではなく、「加工料」という形で抜け穴が作られている。小泉元首相が座長を務めたバイオテクノロジーの戦略会議の中で、2010年における世界の人体利用市場市場価値として掲げられているのは、230兆円である。