幾何学と音楽(1)

石田秀実

音を奏でている人は、必ずしも音を記号として奏でているとは限らない。彼・彼女は音のひとつひとつを念念に聴いていく。聴かれた音たちは、記憶の中で再び鳴り響いたり、他の音と重なったり、沈黙の中に浮かびあがったりするだろう。想像力の中で、音たちは必ずしもひとつの直線状を順序良く動いていくわけではない。

音を奏でる人が入り込んでいく空間は、その場その場の音空間と、想像力の中で認知されていく空間との重なり合いの中にある。その場その場の空間では、確かに音は念念に、ある順序で奏でられる。だが、だからといってそれらが必ずしも記号的に順序良く、想像力と記憶の空間に鳴り響いていくという保障はない。それがたとえ中断する音や、切り裂く音などでなくとも。

演奏することと作曲することとは同じことだ、という人は多い。即興することと作曲することとを考えれば、作曲とは時間をかけた即興だという話も何度となく聞く。

けれど、ふつうに作曲という行為を行うとき、人は必ずしも念念に音を聴いているとは限らない。想像力の中で認知されていく音たちの姿を、必ずしもその場その場の音たちと重ね合わせながら、みつめているわけでもない。

なぜならふつうに作曲をするというとき、その前に人はしばしば音の群れのデザインをし、音の群れの全体を幾何学的に透視するからだ。とりわけ西欧近代の作曲では、音を幾何学的に透視してその全体をプログラム化し、見透かすことをする作曲者は、しばしばあらゆるものを一点から見る神のように、音たちの位置を定め、その役割を記号化している。あたかも線遠近法で描く画家のように、聴こえてくる音の役割を割り振り、ある記号的連関として、構成しようとしているのだ。

だが、ひとつの視点、ひとつの記号的連関の体系のみに静止して、音たちをある形に整列させるだけが、作曲のあり方ではない。音は人が出会うものでもある。音に出会うとき、人は近代西欧以来の作曲とは違う姿勢で、音をみつめている。音たちは様々な位相、姿を示しながら、たち現れる。それら音たちと出会う人は、いわば音たちの中に入り込んで、様々な姿形の音を、様々な角度から見つめる。

音との出会いを、いつも体験しているのは、もちろん音を奏でる人だ。とりわけ作曲者によって記号化されてしまった音楽とは、ひとまず別のところで、音を奏でようとする人は、音との出会いの中にある。

とはいえ、こうした音との出会いのかたちで、作曲という行為を考えることも、もちろん可能である。そのとき作曲者は、観察視点を特定しない画家のように、音たちの中に埋もれながら、音と出会い、自らの視点を移動させながら、音の姿を眺める。音たちを記号化して整列させるのではなく、音たちの場に入り込み、様々な姿に見ほれているのだ。音は客体として、記号的連関の中で聴かれるのではなく、生きてゆれ動く空間としてたち現れ、私を埋もれさせている。